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「――会わないわ。どうぞお帰りになってとお伝えして」
翌日の午前、レオンが対面を求めていると侍女から伝えられ、ニーナははっきりと拒絶した。
花の塔の二階に設けられたニーナの部屋は、毛足の長い絨毯が敷かれ、壁色は淡いブルー。
家具は白色をメインにした清楚な物で揃えられ、三重に重ねられたカーテンはレースの色どりも愛らしい。
ニーナの髪や瞳の色とよく合った、清廉な設えになっていた。
窓の外には蓮池が見え、その池の向こうには、最初に彼女が運ばれた蓮の宮が望める。
ニーナは窓辺に佇む愛猫を撫でながら、表情を硬くしていた。
「……でも姫様。その……」
リーザが言い淀み、窓の外を見ていたニーナは、少し眼差しを和らげて振り返る。
レオンを拒絶するため、気を張った声を出したのが、彼女を怯えさせたのかな、と思ったのだ。
「どうしたの?」
首を傾げると、彼女は言い難そうに部屋の扉口に目を向け、小さな声で応じた。
「……既にこちらにいらっしゃっておりまして……。お出でになるまで、お待ちになると……」
「……」
ニーナは瞬き、現在は閉ざしている扉に目を向ける。
彼にしては強引な来訪だな、と思った。
普通は事前に使いを送り、了承を得てから訪れるのが礼儀だ。
お人好しのきらいがあるニーナは、ずっと待たせるなんて悪いと感じ――そして違うわ、と指先で唇に触れる。
「駄目よ……それじゃあこれまでと変わらない」
ニーナがこれまで死んできた経緯だって、似たような感じだった。
突然王都から使いが来て、対面叶うまで待つと言われ、待たせるのも悪いから、と仕方なく扉を開けるのである。
そして使用人が扉を開けると、兵がなだれ込み、驚く間もなく身に覚えのない、レオン暗殺計画の首謀者として、心臓を貫かれるのだ。
心臓を刺されたあと、ニーナは朦朧とする眼で両親を探した。
両親はすぐにニーナの手を取ってくれるけれど、兵たちは問答無用で背後から彼らの首も跳ね、彼女は失意と共にこと切れるのだ。
殺されるにはまだ早いだろうが、彼女の誕生日は、もう明日に迫っている。
ニーナは自らの命を守るべく、今後の振る舞いを考えねばならなかった。
でも一国の王太子を、部屋の前で待ちぼうけにさせるわけにもいかない。
過ぎた非礼とならぬよう、ニーナは扉の前に歩み寄り、扉越しに声をかけた。
「……レオン様、いらっしゃるの?」
「――いる」
ぼそっと低い声が聞こえ、ニーナの心臓が、ドキッと跳ねる。
レオンの声は真面目そのもので、自分と真剣に向き合おうとしている気配をひしひしと感じた。
扉を開けて顔を見たい衝動に、ニーナはドアノブに手を伸ばす。けれど、それを回す直前で動きをとめた。
――いつまで、好きでいるつもりなの……。
ニーナは、アメリアに甘く、自分に好きの一言も言ってくれないレオンに怒っている。
しかしながら、十年越しの恋は――否、六度も繰り返し続けたレオンへの恋は、いまだに心を染め続け、薄れる気配はないのだ。
――馬鹿みたい。
ニーナは薄く頬を染め、懲りない自分の恋心に内心、悪態をついた。
ドアノブから手を離し、ツンと鼻を高く上げる。
「お会いする気はありませんから、どうぞお部屋にお戻りになって」
言ってから、お部屋にではなく、お国にお帰りになって、と言わないといけなかったのに、と目を泳がせた。
どうしても甘い物言いになってしまうニーナに、扉の外のレオンは真摯に尋ねる。
「どうすれば、会ってくれる? 君と話がしたいんだ、ニーナ」
「会わない。お国に帰って、アメリアと結婚すればいいわ。叔父様の後ろ盾も得られて、万事うまく進むじゃない。どうせ議会だって、私を不適格と認定するでしょう? あの宴のあと、魔物なんて妻にしてどうすると、多くの方が疑義を申し立てたはずだわ」
昨日のベルクマン侯爵の暴言の数々は耳に鮮明であり、彼女は自身の見立ては誤っていないと確信していた。
レーゲン王国の政をよく理解している彼女の言葉に、レオンは即答せず、ため息を吐く。
「……議会は俺がなんとでもする。彼らは混乱すると取り乱すが、話せば理解する。それに、君は魔物なんかじゃないだろう。……普通の女の子だよ」
「――……」
ニーナはひゅっと息を吸い、言葉をなくした。
レオンの最後の言葉は、ニーナが一番欲しい言葉だった。
愛情が籠っているかのように、とても柔らかい声音で呟かれ、涙が込み上げそうになる。
ニーナは唇を噛んだ。
魔物と叫ばれ、それまでもずっと嫌悪の目で見られ続けた彼女には、これ以上ない慈しみの言葉だった。
普通の女の子として見てくれていたのなら、嬉しい。
青い髪を持っているからではなく、多くの女の子の中から自分がいいと言ってくれていたなら、とても幸福だ。
端々で自分に甘く優しいレオンに、ニーナの恋心は膨れ上がった。
しかし彼女は、悲しそうに項垂れる。
「――でも、貴方とはきっと、結婚できない運命なの……」
変わらない運命を繰り返してきたニーナは、諦めの笑みを浮かべた。
レオンにはわからないだろうけれど、と心の中で呟くと、扉の外から、力強い声が返ってきた。
「――運命ならば、壊そう」
「え」
がちゃり、とドアノブが勝手に動く音を聞き、ニーナは目を丸くする。
閉ざされていた扉が、外側から押し開かれ、ニーナは廊下に立っていた青年と視線を重ねた。
「……ニーナ」
「……っ」
漆黒の艶やかな髪に、菫色の瞳を持つ、何度も愛した青年・レオンは、許可も得ぬまま扉を開け、部屋に踏み入る。
「お、お待ちください……っ」
リーザが焦って前に出ようとするも、レオンは彼女には目もくれず、ニーナとの距離を縮め、手を伸ばす。
何をするつもりか想像もできず、ニーナはびくっと身をすくめた。
「……そう怯えるな、ニーナ。何もしないよ」
レオンはふっと笑い、ニーナは目を瞬く。
彼はニーナの髪に触れ、こめかみ辺りに何かを挿した。触れるとひやっと石の感触がして、レオンを見返す。
「髪飾り……?」
レオンは優しく微笑み、ニーナの頬を両手で包み込んだ。
「一日早いが、誕生日おめでとう、ニーナ。国ではない故、宴は用意できないが……気持ちだ」
頬に触れる体温は温かく、眼差しは甘かった。
ニーナは無自覚に瞳を潤ませ、レオンに見入る。
こんな場面でも、誕生日を忘れないでいてくれて、胸が熱くなった。
どうしても、レオンが好き、と思ってしまい、ニーナは悔しくなる。
瞳から涙が零れそうになり、俯いた。
「いつもいつも、狡いわ……っ。どうして、冷たくしてくれないの……!」
六度繰り返したどの人生でも、別れのぎりぎりまで、レオンは甘い恋人だった。
それが余計に、ニーナを傷つけるのに、なぜ彼は変わってくれないのだろう。
昨日まで想いを通わせていると思っていた人に、突然離別を告げられる苦しさを、彼は知らないのだ。
「貴方はいつか必ず私を捨てるのだから、もう優しくしないで!」
「ニーナ。捨てないよ」
仕方ない恋人だとでも言いたげな声に、ニーナは顔を上げ、眉を吊り上げた。
「国交締結の交渉材料に必要だから? ネーベル王国との国交が開けたら、その後はどうするの? ……交渉材料として結婚したとしても、どうせまた、私がいらなくなって、他の女の子と浮気をするのでしょう! また罪をねつ造して、私を始末するかもしれない……っ」
何度も繰り返した苦しい過去を思い出し、ニーナの瞳から涙が零れ落ちる。レオンは真顔でニーナを見下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「また……?」
前世の記憶の話をしても、レオンには伝わらない。
わかっていても、ニーナは我慢できなかった。
「もう貴方の浮気を見るのは嫌なの……! 貴方にいらないと捨てられ、殺される運命には、疲れたのよ……っ」
記憶が脳裏を駆け巡り、ニーナは両手で顔を覆う。
憤りを抑えきれず、彼女は涙声で叫んだ。
「別れ際に、愛してるなんて言わないでよ! 婚約期間中に、私以外の女の子と閨を共にするような、不潔な真似をしたくせに……‼」
「……ニーナ」
レオンが変に震える声で名前を呼び、ニーナの両手首を掴む。
「浮気なんかしてない……。あれは、違うんだ。あれは彼女の、想像妊娠で……」
「……?」
ニーナは眉を顰め、レオンを見上げた。レオンは信じられない顔で、ニーナを凝視している。
「閨など、共にしていない……。彼女には、指一本触れていなかった。しかし彼女は、父親に俺の子を孕むよう言い聞かせられる内に、想像妊娠を果たしたんだ。君を逃がすため、俺は否定しなかった。宰相の刺客が君に向けられないなら、それが最善だと思った。……だが……数か月もすれば胎児はいないと知れ、宰相が手を回して、秘密裏に君を殺した。別れても、俺の寵姫は君一人だと、奴は察していたから」
「……」
あの宰相なら、あり得そうな流れだった。
しかしなぜ話が通じているのか、意味がわからない。
不思議そうにしながらも、ぽろぽろと涙を零し続けるニーナに眉尻を下げ、レオンはその体を抱きすくめた。
「――いつも守り切れず、ごめん……。君を愛するばかりで、幸福にできない不甲斐ない男で、本当にすまない……」
「……覚えてるの……?」
抱きしめられてようやく、ニーナは会話が成り立つ理由に思い至る。レオンはニーナの後頭部にそっと手を添え、悲しそうに答えた。
「覚えてるよ……」
「……私のこと、愛してるの……? ……アメリアに、心移りしているのじゃなくて……?」
好きと言ってくれないレオン。
六度の人生の中でも、彼がニーナに愛していると言ったのは、あの一言が最初で最後。
今世も、彼に横恋慕をしているアメリアに惹かれているのだと、考えていた。
ニーナは当惑し、だらりと腕を体の脇に垂らしたまま尋ねた。
「愛してるよ。誰よりも、君だけを。心移りなど、一度だってしていない」
「……」
ニーナの瞳から、また涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
しゃくり上げるニーナを、レオンは強く抱きしめた。
「ごめん」
「愛してるなら、ちゃんと言って……っ」
「……?」
レオンが顔を覗き込み、ニーナは彼を睨みつける。
腹が立って、仕方なかった。
どうしてこの人は、こんなにわかりにくいのだろう。
「言葉にしてくれないと、わからないわ……! 貴方はいつも浮気をするから、本当は私なんて愛していなかったのだと思ってた! 特に前回の人生で、そう思い至ったわ。貴方は他の子を選んだ挙句、妊娠させたから……っ」
「いや、妊娠させては……」
否定しようとする彼の胸を、一度叩く。
「そんなの、知らないもの! 貴方はどんな時も、私には飽いたと言って、消えろとおっしゃるじゃない! どうやってわかれというの……⁉」
「……ごめん。どうしても、君を救いたかったから」
レオンは胸を殴ったニーナの手首をまた掴み、瞳を揺らして顔を覗き込んだ。
「俺が前世を思い出すのは、毎回君と婚約したあとだ。そしてそれから、君を取り巻く危険に気づくんだ。臣下が君を目障りに考え、刺客を送ろうとする。だから君を捨てたんだ。……君の死を、二度と見たくなかったから。俺は君に、生きていて欲しかったんだよ、ニーナ……」
「……そんなの、知らなかった! 貴方はいつだって好きだとも、愛してるとも言ってくれないから、愛されていなかったのだと思って、とてもとても、悲しかった……‼」
レオンは驚きに目を丸くした。
「……言ってなかったか?」
その、自分でも気づいていなかったという顔に、ニーナは眉を吊り上げる。
「言ってないわ! どの人生でも、貴方から愛の言葉を聞いたことはないもの! 一つ前の人生で、別れ際に聞いたあの一度きりよ……っ」
彼はしばらく呆然とニーナを見つめ、当惑した声で応じた。
「……ごめん。そうだな……。幼い頃から立場上、不用意に感情を口にしないようにしていたから……婚約したあとも、その癖が抜けていなかった……」
「……っ」
変なところで抜けている恋人に、毒気を抜かれそうになり、ニーナはどう言えばいいのかわからなくなる。
ぼろぼろと涙を零して、気の利かないレオンを睨んでいると、彼は眉尻を下げ、ニーナの頬を撫でた。
「ごめん……。ずっと、愛してるよ。今も、どの人生でも、君だけを愛していた。一度目の人生で君を失って以降、君を守りたくて必死で、言葉足らずになってしまったんだ……。でも、最初の婚約の時は、何度も愛してると言っていたよね……?」
「――最初……?」
ニーナは、訝しくレオンの瞳を見返す。
すると窓辺に佇んでいたシュネーが二人の足下に歩み寄り、とんとん、と二人の体の上を交互に飛び跳ね、上り始めた。
レオンの肩まで登った彼女は、最後にとん、とニーナの頭に飛び乗り、その後ベッドに向かってジャンプする。
「……っ」
頭を軽く蹴られたニーナは、すっかり忘れていた、一度目の恋を思い出した。




