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ニーナの毎日は、奇妙な雰囲気で過ぎて行った。
ザシャは毎日顔を出し、レオンとは日に一時間程度、他愛ない話をする。
クレーメンスがたまに部屋を訪ねてきて、問題はないか確認していき、いつも誰かが傍にいるのに、毎日必ず一人になる瞬間があって、その隙にギードが現れた。
陽気な彼は、特に目的もない雑談をして、そして人が来る気配を察したら消える。
「城下にある魔道具商店街へはもう行ったかい? 魔道具屋の中でも、ヒルフェ・トーアという店は可愛らしい髪飾りやネックレスを扱っているから、お勧めだよ」
「ギードさんは、この国に住んでいたの?」
王宮の西塔にある、図書室である。
木製の書棚や机が並ぶ図書室には、何万冊もの書物が並び、ニーナはそれらの中から、魔法学の本を選んで読もうとしていた。
ザシャが本を選んで持って来てくれたのだが、彼は仕事の合間に来たらしく、もう職場に戻っており、侍女のリーザも、ニーナの勉強のために紙とペンを取りに離れている。
元々、警護を厳重にしている国ではないせいか、ネーベル王国の人々は割とこのように気の抜けた行動を多々とっていた。
軍事国家であるレーゲン王国とは大違いで、しかしこののんびりした感じが、ニーナは心地よいとも感じている。
ニーナの父が、王位継承権を放棄して勝手に出奔したのを許す国だけはある、と思った。
行儀悪く、窓の前に置かれた書棚の上に座っていたギードは、明るく笑う。
「住んでないよ。僕はただいるだけ」
「……ギードさんは、レオン様のお付きなのよね?」
ザシャによれば、ギードはレオンと共に来た、隣国関係者だ。しかし彼は、笑顔で首を振った。
「ううん。僕はどちらかというと、君のお付き」
「……わけがわからないわ」
ニーナは素直な感想を口にした。
ギードは出身も、職業も、所在も、何もかもがあやふやで不確かな存在だ。話す内容も要領を得ず、なのに不審者として認識されているわけでもない。
レオン達は彼を未来見として扱っており、ザシャは彼を客分と考えているのか、怪訝そうな顔で見ることはあっても、咎めようとはしなかった。
よくわからない彼をニーナが拒絶しないのは、柔らかな物腰や笑顔が、気持ちを和らげるからだ。
話していると、ささくれ立っていた心が優しくなる。
銀糸の髪は美しく、その青い瞳には不思議と懐かしさを覚えた。
ギードはははっと明るく笑い、手のひらをニーナに向ける。
「そうだよね。でも僕が何かなんて気にしないでいいよ。僕は君が幸福になるといいなあと思って、ずっと見守っているだけだから」
「え、わっ」
急に体が椅子から浮き、ニーナは足をばたつかせた。机の上に座っていたシュネーが「にゃー!」と高い声を上げる。
ギードはにこにこ笑いながら彼女を宙に浮かせ、そして指を動かすと、棚の上で胡坐をかいていた自分の膝の上にすとんと下ろした。
ふわっと香った太陽の香りに、ニーナは彼を見上げる。
ニーナを膝の上で横抱きにした彼は、やんわりと笑った。
「ニーナ。君はいつも一生懸命で優しすぎるから、僕はどんな時も心配だ。……怒りたい時は、怒っていいんだよ、ニーナ。我慢しなくていい。変わるなら、もっと。――運命を変えるなら、尚更」
「……運命……?」
言葉の意味がわからず、何も怒ってなんかいないけれど――と聞き返すと、彼は眉尻を下げる。
「……いつかまた、僕と一緒に過ごそうね。――僕の可愛いお姫様」
脈絡のない言葉なのに、なぜかその言葉は酷く温かく感じられ、ニーナはじわっと涙ぐんだ。
彼は苦笑し、またニーナの目尻に口づけた。
かちゃ、と図書室のドアが開く音が聞こえると、彼はなんの前置きもなく、すうっと姿を消す。
「きゃっ」
急にギードが消えて、ニーナは棚にお尻を打ちつけた。
シュネーが心配そうに棚に飛び乗ってきて、そしてニーナは、部屋に入って来たレオンの、面食らった顔をきょとんと見返した。
「何をしているんだ、ニーナ……?」
低い声を聞くだけで、ニーナの心臓は乱れる。
でも自分とは別れるつもりだろうと考えると、話すのが恐ろしく、再会以降、まともに視線も合わせられなかった。
彼の口から、アメリアの方が好きだという話を、どうしても聞きたくなかったのだ。
しかし今はそれよりも、書棚の上に座っているという、淑女ではあり得ぬ己の姿に焦り、ニーナは首を振った。
「ち、違うの! わ、私が自分で上ったわけじゃなくって……っ」
「待ちなさい。一人で降りられる高さじゃない」
レオンは慌てて降りようとするニーナを制し、彼女が座る書棚まで歩み寄る。
言われてみれば、確かに書棚は足を延ばすだけでは床に着けない高さだった。
レオンはニーナの前まで来ると腕を伸ばし、躊躇なく彼女の両脇の下に手を挿し込む。
重くないのかな、と思ったが、軍部の訓練で鍛えている彼は、ニーナをひょいっと抱き上げた。
慣れない感覚に、なんとなく膝を曲げた彼女は、目を見開く。薄い布地を重ねたドレスが、ふわっと広がって、膝から下が丸見えになっていた。
「ひゃあっ」
慌ててスカートを押さえるも、レオンの目は確実に、晒されたニーナの足に注がれていた。
――足が、見えちゃった……っ。
レーゲン王国では、女性の足は隠すのが作法で、外に出すものではない。
トン、と床に降ろして貰ったニーナは、あるまじき姿を晒し、羞恥心で真っ赤になった。
「あ、ありがとう……」
「いや……。その、小さい頃は二人でよくブランコをしていただろう。あまり気にしなくとも……」
小さい頃、ニーナは確かに、王宮にあるブランコでよく遊んでおり、堂々と足を晒していた。
つい先日、水鏡で見ようとしていたのも、その思い出の場所だ。
しかしあれはまだ淑女の作法を学ぶ前であり、ベルクマン侯爵の目がない場所で解放感に包まれていたがための愚行である。
レディの振る舞いを身に着けたニーナは、それとこれとは違うもの、とそっぽを向いた。
「今は、気になるのです……っ」
「……そうか。成長した君の足も、綺麗だったよ」
ニーナはレオンを驚いて見る。
レオンは意地悪そうに笑って、ニーナの髪を指先で梳いた。降ろしてくれる過程で、少し乱れたらしい。
男らしく厳しくしている表情も好きだが、その笑顔も素敵に感じてしまい、ニーナは視線を泳がせた。
少し会わない期間を置いてからというもの、レオンが以前以上に異性として魅力的に見え、ニーナはこのところ、彼の前では緊張しがちだ。
それに彼は、前よりちっとも強引じゃない。
レーゲン王国にいた頃なら、髪に触れたら、次は必ずキスが降って来ていた。
嫌ではなかったけれど、レオンのキスは年を経るごとに大人のそれになり、ニーナは少し怖い位だったのだ。
与えられる快楽が過ぎて、ついて行くのがやっと。後半になると、いつも頭が真っ白になって、最後には腰砕けになってしまっていた。
必要以上触れないこの距離感は、もどかしいようでいて、ニーナにはちょうどよい。
――でもそれも、アメリアの方がいいから、触れたくなくなっただけかもしれないけれど……。
ちりっと嫉妬を感じ、ニーナは表情を冷静なものに戻した。
レオンは周囲を見渡す。
「誰もいないようだが、これはどうしたんだ……?」
「ザシャはお仕事に戻って、リーザは紙とペンを取りに行ってくれているの。さっきまでギードさんがいたけど、消えてしまったわ。……貴方も一人ね」
いつもカールやハンネスが一緒なのに、と尋ねると、彼はギードの名に一瞬顔を強張らせたあと、嘆息して肩をすくめた。
「ハンネスは最近、王宮内を見たいと言ってよく外す。他の護衛をつけようかと思ったが、この王宮は守護結界とやらが張られ、刺客などは侵入できない造りだとザシャ殿から聞いたのでな。たまには一人もいいかと、勝手にうろついていた。カールは今、俺の書類仕事を……まあ、それはいい。少し話せるか?」
「……」
ニーナの心臓が、きんと冷えた。
レオンは最初から、ニーナと二人きりで話したいと言っていた。
これは彼にとっては都合がよく、ニーナにとっては避けたい場面である。とはいえ、いつまでも問題を先延ばしにもできない。
――お別れなんて、聞きたくないな……。
冷えた目で『お前などいらない』と言われ続けた前世の記憶を蘇らせながら、ニーナは諦め半分、こくりと頷いたのだった。




