3
「――『神の愛し子』……?」
蓮の宮に与えられた部屋で、レオンは怪訝に尋ね返した。
ネーベル王国の王宮に来て三日もした頃、カールが自ら収集してきた知識を披露したのだ。
この三日、レオンはニーナと小一時間程度しか会えず、しかもザシャが必ず傍にいるので、まともな会話もできていない。
体の形がよくわかる薄布のドレスに、王族らしく華やかな指輪やイヤリングをつけた彼女は、いかにも異国の姫といった風情で、レオンはどうにも胸をかき乱されていた
ベルクマン侯爵家で、常に怯えを隠し切れずにいた彼女は、ここにはいない。
暴力を振るったり、侮蔑の目を向ける者がいないのだから当然だが、大人しい彼女しか知らなかったレオンは、己の感情を持て余していた。
かつて以上に、ニーナに惹かれてしまっているのである。
人目を気にし、理不尽な仕打ちを受ける彼女を守ることこそが、己の使命と感じていた。だが、ベルクマン侯爵という枷を失った彼女は、健やかで美しく、表情の全てが魅力的だった。
ただ立っているだけで、目を引く。
ずっと遠い場所にいても、あれがニーナだとわかってしまう。
振り返ると弧を描いて揺れる美しい髪に、白磁の肌。澄んだ瞳は青く清らかで、唇は艶っぽい。
傍近くで会話をすれば、以前同様に聡明で穏やか。優しい性格の滲む話し方と、様変わりした彼女の雰囲気に、レオンは奇妙なまでに鼓動を速めてしまい、胸が苦しくなった。
ザシャの目など気にせず、懇々と口説き落としたくなってしまうくらい、彼女は以前よりもずっと輝いていた。
レオンは、ニーナの心をつなぎ留めるため、深い話をしたい。
しかしザシャの手前、宴の夜の話はできず、ニーナの方もどう思っているのか、その話題に触れようとしないのだ。
彼女の態度は、レオンが話せば応じるが、なんとなく他人行儀だった。
レオンがネーベル王国に到着した翌日など、ギードがまたもニーナにキスしている場面を見てしまい、声を荒げたのは悪かったと思う。
しかし自分を見るなり瞳を潤ませ、怯えたように声を震わせたのには、ショックを受けた。
大声を出したがために怖がらせたのかと、不必要に近づかないようにしたが、星湖に連れて行ってあげると言って、ザシャに手を取られた彼女の反応に、レオンは更に追い打ちをかけられる。
ニーナは、レオンが近づこうとしただけで緊張した様子だったのに、ザシャに手を取られるのは平気そうだったのだ。
――俺は恐ろしく、その男は安全だと思っているのか……?
異国の地で彼女がどのように変わったのかもわからず、レオンは嫉妬心を抑え、二人のあとに続いた。
歩きながら、自国とネーベル王国での彼女の雰囲気の違いに、レオンは罪悪感を抱く。
もしかしたらこの地の方が、彼女は幸せになれるのでは、と迷いを覚え、彼女には、自ら生きたい国を選んで欲しいと言った。
本音は、レーゲン王国へ連れ帰り、自分の妻にしたい。
だが前世で繰り返した不幸を考えると、彼女を幸せにしたい気持ちが強く、レオンは強制的には連れ帰れないと判断したのだ。
けれどそれ以降、彼女は以前のように、レオンを恋する眼差しで見ることもなく――むしろ視線が合わず、何を考えているのかわからなかった。
そっけなくすら感じる態度に、レオンはこのところため息を増やし、他ごとはやる気にもならない。
頭の中は、ニーナで一杯だ。
今も、カールが持参した書類仕事をする気にならず、部屋の中央に設けられた長椅子に腰かけ、頬杖をついていた。
カールは主人が手をつけようとしない書類を、これ見よがしに部屋の一角にある机の上に並べつつ、面白そうに語った。
「ええ。あちこちでニーナ様を『神の愛し子』と呼び、彼女が通りかかると、皆ひれ伏すのです。こちらの王族への礼儀かと思いましたが、ザシャ様などの前では皆首を垂れるだけ。何が違うのかと、使用人の一人に尋ねてみたのです」
ニーナが王族の血を引くとわかって以降、カールは彼女をニーナ嬢ではなく、ニーナ様と呼ぶ。
その些細な違いも、彼女はベルクマン侯爵家へ引き取られた憐れな娘ではなく、異国の姫となってしまったのだと意識させ、レオンはやや物寂しい気持ちにもなった。
ニーナは、あるべき国へ戻り、どこか遠い存在になってしまったのだ。
「それで……?」
ザシャの名を聞くだけで若干イラっとしたが、もちろんその感情は顔には出さず、続きを促す。
「ニーナ様は、神に攫われやすい姫君のようですよ」
「――あん?」
即座にギードの姿が脳裏をよぎり、レオンは王太子らしからぬ反応を示した。
カールはレオンを振り返り、にこやかに頷く。
「なんとも見事な伝承です。この国には、稀にニーナ様のように髪の色が変わるお子が生まれるのだそうです。そしてそのお子は、通常よりも強い魔力を持つとか。なんでも、神の御力に近い力を持つために、神に愛されやすく、目を離すといつの間にか、神が攫ってしまうのだそうですよ。尤もこれは、髪色が変わる子は珍しく、子供の内は魔法も使いこなせぬことから、人攫いに遭って見世物小屋などに売られていた、という事実が、神隠しと混同して伝えられているそうで。面白いでしょう?」
にこにこと話す側近を呆然と見返し、レオンはぼそっと呟いた。
「……全然、面白くない」
カールはきょとんとレオンを見下ろし、ああ、と笑みを深める。
「ええ、ええ。そうでしょうとも。レオン殿下は、ニーナ様を攫われてはたまりませんものねえ……ほほほ」
カールやハンネスは未だ、ギードが神だとは信じていなかった。酔狂な未来見だとしか考えておらず、レオンへの宣戦布告は、何らかのはっぱをかけたのだと考えている。
だがレオンは、前世を知っている以上、ギードは神であろうと推定しており、ニーナが『神の愛し子』であるという話に、血の気が引いた。
神出鬼没で、いつどこに現れるかもわからない男が、ニーナを攫うのはたやすい。
――ギードに監視をつけたい……。
冷や汗をかきながら、策を考え始めたレオンに、カールはつけ加えた。
「そうそう。『神の愛し子』は神の血を引く者とも考えられているそうで、故に皆さん、ニーナ様を見るとひれ伏すのだそうです。神と等しい存在だから、と」
レオンは唖然とカールを見返し、抑揚のない調子で繰り返す。
「……神と、等しい存在……」
――……を、娶っていいのか?
後半は、心の中でのみ呟いた。
ただでさえ彼女は今、より魅力的な少女になってしまっているのに、更に神に等しいと言われてしまっては、自分では及びもつかないのでは、と戦いてしまう。
レオンは、あんな美しい少女を――この国での女神に等しい存在を、我が物にしようと考えているのだ。
レーゲン王国内では、自分の見た目を気にし、卑屈になっている彼女だからこそ、そうじゃないと言い聞かせる意味を込めて強引にして来た。が、ネーベル王国で心地よさそうな彼女を見ると、その気は消え失せ、及び腰になる。
――強引になどできない。最大限、大切にしたい。
レオンは両手で顔を覆い、盛大にため息を吐いた。
「どうしたらいいんだ、俺は……っ」
「恋煩いですねえ……」
カールの呑気な言葉が、全てを物語っていた。




