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 風は温かく、辺りに響くのは鳥の声と木々のざわめきのみ。光沢ある薄布のシュミーズドレスに身を包んだニーナは、湖面を見つめ、微動だにしない。

 彼女の足元には愛猫のシュネーが座っており、共に湖面を見つめていた。

 先程まで傍にいた侍女は、手洗いへ、と言って席を外している。

「魔法って難しいわね、シュネー……」

「なー……」

 湖面に見たい場所の映像を映し出す魔法の練習をするよう、ザシャに命じられ、挑戦しているのだが、いっかな成功の気配はない。

 大体、湖面にキスするわけにもいかず、ただ見つめてレーゲン王国の王宮を映そうとしているのだから、無理な話だ。

 レオンがネーベル王国に訪れた翌日だった。

 今日もレオンに会える予定なのだが、それがいつになるのか、ニーナはまだ知らされていない。

 湖のほとりに屈み込んでいた彼女は、両手で頬杖をつき、首を傾げた。

「レオン様は今、何してるのかな……?」

「彼は今、連れて来た文官殿が持参した書類仕事をさせられているよ」

 どこかで聞いた声が背後からして、ニーナは振り返る。

 銀糸の髪に、青い瞳を持つ青年が、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。いつかの宴で会った未来見・ギードだ。

 ニーナは目を丸くして、立ち上がる。

「ギードさん。どうしてここに……?」

 黒いローブを着た彼は、今まで一度もこの王宮で会った記憶がなかった。

 宴で出身を聞いた折は、ネーベル王国の人間のような、そうでないような、と話していたが、王宮関係者なのだろうか。

 ギードは肩をすくめ、ニーナの足元にいるシュネーに目を向ける。

「僕の身上(しんじょう)は、神出鬼没だから。この王宮はどう? 居心地は悪くない?」

「あ、はい。皆さんびっくりするぐらい優しくて、とても過ごしやすいです……」

 答えながら、ニーナは変な会話だな、と思った。

 ギードの口ぶりは、まるで自分の住まいの居心地を尋ねるかのようだったからである。

「ここの勤め人は皆、王が自ら選んだ、気のいい者が多いからね」

 ギードは身を屈め、シュネーの顔を覗き込んだ。

 猫は目を合わせられるのを嫌う動物だけれど、シュネーにはそれがなかった。彼女はギードを見返し、尻尾を一度だけ、ぱたりと振る。

「ご機嫌はいかがな、女王様? 触ると怒るかい?」

 シュネーを女王様と呼び、彼は殊更に優しい手つきで彼女の体に触れた。

 そっと抱き上げると、シュネーは彼の腕の中で、するりと丸くなる。

 尻尾を振っているから、若干機嫌が悪いようだけれど、抱かれるのは嫌ではないようだった。

「……ギードさんは、王宮で勤めていらっしゃるのですか?」

「ううん。僕はふわふわその辺りを歩いてるだけの人だよ」

「……働いている方じゃないのですか?」

「存在することが仕事、みたいな?」

「……」

 会った日と変わらず、さっぱり要点の掴めない受け答えだ。

 ギードは腕の中のシュネーを嬉しそうに見下ろし、彼女の額にキスをする。

「いい匂い。君は猫の姿でも、やはり美しいね」

 一人の女性を口説くみたいに、甘い声だった。

 ニーナは首を傾げる。

「猫の姿でもって……?」

「――いったあ!」

 またキスしようとする彼の頬を、シュネーがシャッと引っ掻き、ギードの悲鳴でニーナの質問はかき消された。

「あ、ごめんなさい……っ。人を引っかいたりしない子なのだけど……!」

 焦って歩み寄ったが、ギードは楽しそうに笑い、腕からシュネーを下ろす。

「いや、大丈夫だよ。今のは僕が悪い。彼女は秘密にしろと言っていたのに」

「……?」

 話が見えない、と眉根を寄せたニーナは、ふと思い至り、両手をぺちっと合わせる。

「あ! そうね。ギードさんは魔法が使えるから、シュネーの言葉もわかるのね?」

 ギードはにんまりと笑った。

「そう。まあ言葉がなくても、わかっちゃうのだけれど。愛があるから」

 ニーナはまた、怪訝に感じた。

 これまでシュネーと彼が触れ合っているのを見たのは、今日が初めてだ。猫好き故に、大げさに言っているのだろうか、と首を傾げる。

「……ギードさんは、猫がとても好きなのね」

 そう言うと、ギードは笑顔のまま、ニーナに近づいた。

「うん。猫というよりは、シュネーが好きなのだけどね。君のことも、とても好きだよ、お姫様」

「――え」

 ニーナは目を見開く。

 ギードはシュネーを抱き上げた時と似た、優しい仕草でニーナを抱きしめようとした。

 逃げる間もなく、肩を小さくしたニーナは、突如びゅうっと横合いから強風が吹きつけ、煽られる。

「きゃっ」

「彼女に触れないで。――君、誰?」

 ニーナは乱れる髪を押さえ、警戒した声を発した青年を見やった。

 風はどうも、彼が魔法で起こしたようである。

 ニーナに魔法の練習を言いつけて、席を外していたザシャが、眉を顰めてギードを睨みつけていた。

 おっとりとした彼にしては珍しい表情だ。

 ニーナは戸惑って、ギードを見上げる。

 王宮の人なのだろうと思って普通に話していたが、ザシャは知らない様子だった。

 もしかしてギードは、不法侵入者なのだろうか。その割には、危険な雰囲気はないけれど。

 ギードは眉尻を下げ、ザシャに苦笑した。

「レオン王太子殿下と共に同行した者ですよ、ザシャ殿下。そう警戒なさいますな」

「……レオン王太子と……? ……ああ。門前までは同行し、その後消えた者だな」

 ザシャが目を眇めて言うと、ギードはにやっと笑う。

「相変わらず、目と耳がいい。害意はないから、そう目くじらを立てるな。へたくそな芝居もいらぬよ」

 ギードが急に横柄な口ぶりになり、ニーナはきょとんとした。

 ザシャは訝しそうにギードを睨み、首を傾げる。

「芝居とは……?」

「温厚な振る舞いしか知らぬくせに、下手に喧嘩腰にならずともよいと言っているのだよ」

 ザシャが軽く目を見開いた。

「……貴方は」

 ザシャはギードをまじまじと見つめ、胸の前で腕を組んだ。そしてまた反対に首を傾げる。

「いや、まさかな……。デニスが間違えるはずがないし……」

 ニーナの迎えに寄越した、緋色の髪の青年の名を呟き、ザシャは考え込む。

 ギードはにやにやと笑って、ニーナに視線を戻した。

「それではね、僕のお姫様。レオン王子に愛想が尽きたら、いつでもお言い。僕が君を、必ず幸せにしてあげよう。――この僕が持つ、全ての力をもって」

 彼は手を伸ばし、ニーナの頬をそっと撫でる。ニーナは彼を見上げ、近づいてくるその優しそうな顔に、なんとなく目を閉じた。瞼にキスされる、と思ったのだ。

 彼の唇がニーナの瞼に触れた瞬間、ニーナは自分の行動にあれ、と疑問を抱き、同時に怒声が響き渡った。

「――ギード‼」

「ひゃあっ」

「うわっ」

 ニーナとザシャが驚いた声を上げ、ギードはくつくつと可笑しそうに笑いながら、呟いた。

「君の婚約者殿は、このところずっとご機嫌斜めだ」

 彼はすうっと姿を消し、ニーナの視界が開ける。庭園の向こう側から、こちらに歩み寄って来るレオンの姿が見え、ニーナの心臓が、大きく跳ね上がった。


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