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レーゲン王国の王都に設けられたベルクマン侯爵邸は、主人の財力を象徴するかの如く巨大で、白亜の王宮を彷彿とさせる造りだ。
その侯爵邸の二階に設けられたニーナの私室には、開け放たれた窓から春風が入り込み、花の香りが漂う。彼女の部屋は、花が咲き乱れる裏庭に面していた。
ニーナはベッドに腰を下ろす。ベッド脇にある窓から見える空は薄曇り。
部屋着のワンピースに身を包んだ彼女は、まだ腹部に痛みを感じ、顔を顰めた。
レオンとの婚約が確定し、ベルクマン侯爵に酷い折檻を受けた一週間後だ。頬の腫れは引いたものの、腹や腕についた痣はまだ消え切っていない。しかし今日はレオンが来訪するらしく、ネグリジェのまま過ごすわけにはいかなかった。
ベルクマン侯爵は身の保身のため、ニーナに釘を刺すのを忘れない。
『お前を五歳の折に引き取り、十六歳になるまで育ててやった恩を忘れるな。この上、王太子殿下の婚約者にまで指名されたのだ。私に拾われなければ、お前は殿下とも出会わなかった。お前さえおらねば、アメリアが殿下の妻となるはずだったというのに、嘆かわしい……! よいか。育ててやった恩を仇で返すような真似はするな。余計な話は何一つするでないぞ!』
こう言われ、ニーナはこくりと頷いた。反論すればまた打たれるし、レオンとの婚約に浮かれてもいなかったからである。
――大丈夫よ、叔父様。いずれアメリアが、レオン様の婚約者になるから。
心の中でそんな言葉を吐き、しかし声には出さず、ニーナは彼の言いつけ通り、肌の見えない長袖のワンピースに着替えた。
ベルクマン侯爵には、ニーナに強い後ろ盾ができてしまったとみえるだろう。しかしニーナにとって今回の婚約は、吉兆ではなく、絶命へのカウントダウンでしかなかった。
ニーナは知っている。これが七度目の人生であることを。
折檻を受けて寝込んでいる間に見た記憶の数々が、ニーナに確信を与える。
ニーナは何度も転生を繰り返している、決して幸福になれない少女だった。
ニーナの人生は、いつも同じ流れを踏んだ。
国や家名は違えど、レオンとニーナはどの人生でも、同じ顔と名前で出会い、恋をした。
レオンは一国の王子で、ニーナは様々な身分だった。ある人生ではメイド、別の人生では令嬢、あるいは敵国の姫君。
ニーナとレオンは、必ず出会い、逢瀬を重ね、婚約する。
しかし婚約後、彼は毎度、豹変した。ずっと彼に横恋慕をしていた他の女の子に心変わりをし、ニーナを捨てるのだ。
レオンを奪う女の子は、どれも同じ人ではなかった。しかし彼は必ず、横恋慕をしていた女の子に心変わりをする。
そして彼はニーナに婚約破棄を迫り、どこか遠い土地へと追いやろうとした。
彼を深く愛していたニーナは、可能な限り、レオンの心を取り戻そうと苦心する。
毎回、ニーナはレオンとの婚約後に前世を思い出していたが、彼の行動には何か事情があるはずだと信じたのだ。
婚約破棄を迫る理由は、心変わりなんかじゃない。きっと別の理由があるのだと疑いもしなかった。
ニーナは延々、盲目的に彼に恋をしていたのだ。
だけど彼は冷たく、ニーナは最終的にレオンの敵とみなされて、齢十七で殺される。
ニーナはいずれの人生でも、家族を巻き込んで、十七歳で生を終えた。王立軍の一騎士によって心臓を一突きされ、朽ち果てるのだ。
直前の人生なんて、最悪だった。レオンの心変わりはいつも通りだったけれど、前回、彼はニーナとの婚約も解消していない段階で、他の女の子を妊娠させたのである。
酷い裏切りだと思う。
毎回、『俺の前から消えろ』と冷えた目で突き放されても、ニーナは彼を愛していた。
婚約するまでの彼は、誰よりも優しく、愛情深くニーナを包み込んでくれたから。
でも、前回の記憶ばかりは、ニーナの心を動かした。
彼は本当に、ニーナを好きでなくなっていたのだ。
自分という婚約者がまだありながら、他の女性と閨を共にするなんて、不潔である。
互いに想いを寄せ合っていても、結婚もしない内に妊娠だなんて、レオンも、相手の女性も、汚らわしい。
清廉潔白な彼女は、記憶を取り戻し、吐き気を催すほどの嫌悪感に苛まれた。
今世では、まだ裏切られていない。しかしそれも――時間の問題。
部屋の扉がノックされ、物思いに耽っていたニーナは、顔を上げた。
ノックに応じると、扉が開いて、彼が姿を見せた。
「――ニーナ」
彼は、ベッドに腰かけたままのニーナを目に留め、微笑む。漆黒の髪の隙間から見える、菫色の瞳がとても美しかった。
精悍な顔に似合う、趣味のよい濃紺の上下を身にまとった彼は、背後に控えていた従者に下がるよう命じ、一人でニーナの部屋に入る。
すらりとした長身は程よく筋肉がついており、齢十八にして、壮年男性のような落ち着きを漂わせた青年だった。
何度人生を繰り返しても、必ず恋をしてしまう青年を見上げ、ニーナの鼓動が速まる。どんなに最低な前世を見ても、今の彼女はやっぱり、彼が好きだった。
「お越しくださり、ありがとうございます、レオン様……」
ニーナの声を聞いたレオンは、扉を少し開いたままにしておこうとした従者を振り返り、扉を閉めるよう言う。そうして、穏やかにニーナに話しかけた。
「体調が悪かったと聞いたが、大丈夫か?」
「……はい、大丈夫です」
ニーナは、口調に迷う。いつもなら彼女は、人目がなければもっと砕けた話し方をした。
だがいずれ失う恋人に、まるで我が物のように気負いなく話しかけるのは、虚しいだけに思われ、身分相応にへりくだるべきではないか、と思ったのである。
レオンは、ニーナのそんな戸惑いには気づかない様子で歩み寄り、隣に腰かけた。ベッドが軋んで、ニーナの心臓がドキッと跳ねる。
婚約が決まってから、初めての逢瀬だった。レオンの雰囲気がこれまでと違うように感じ、ニーナは少し緊張する。
今までの彼は、決してニーナの部屋を直接訪れなかった。会う時は庭園や応接間など、必ず人目があるところで、二人きりになる場合は部屋の扉を少し開けたままにするのが常だったのである。
それが、今日は直接部屋を訪ね、扉も閉めるよう命じた。
婚約した途端、こうも対応が変わるものかと、ニーナはドギマギと俯く。
薄ら頬を染めたニーナをしばし眺め、レオンは太ももの上に置いていた彼女の手を取った。
ニーナがびくっと肩を揺らすと、彼は苦笑して、指先に視線を向ける。
手の甲を撫でた彼の指先が、ワンピースの袖口をさりげなくたくし上げ、手首を露にした。
レオンがすうっと息が吸う音が聞こえ、ニーナはハッとする。
「あ……っ」
手首の少し上に残っていた痣が、見えてしまっていた。
慌てて袖口を下ろすと、レオンは疑わしげな眼差しをニーナに注いだ。
「……今のは、なんだ? 痣に見えたが、どこかに打ちつけたのか。――それとも、誰かに打たれたか」
その低く硬い声に、ニーナはヒヤッと寒気を覚えつつ、首を振る。
「な、なんでもないの……。気にしないで」
いつも通り何も言わない彼女に、レオンは目を眇めた。僅かに苛立った空気を放ち、質問を重ねる。
「ニーナ。なんでもないわけがないだろう? 痣ができた理由を聞いているんだ。もしも暴力を振るわれているなら、言いなさい。俺は自分の婚約者に暴力を振るわれて、黙っていたくはない」
「――本当に、なんでもないの」
ニーナの口から事実を引き出そうとするレオンに、彼女は首を振った。
ニーナは一度も、ベルクマン侯爵に折檻されていると話したことはなかった。ベルクマン侯爵から、決して誰にも言うなと命令されているからである。
――養われている以上、ベルクマン侯爵からの仕打ちを非難できる立場ではない。
五歳の折よりそう言い聞かせられて育った彼女には、事実を口外する意思そのものがなかった。
だからレオンも、実際に彼女が折檻されているかどうかは知らない。ただニーナの雰囲気から何かを感じ、時折こうして、確認するのだ。何度も、彼女を心から心配するように、繰り返し。
レオンはニーナの手を握り、まっすぐに瞳を見つめる。
「ニーナ。君は俺の婚約者になった。もう、なんでも言っていい。……俺が君を守るから」
「……」
優しい言葉に胸が温まり、瞳を潤ませかけたニーナは、ふと表情を強張らせた。
――もしかしてこれは、ただの同情ではないの……?
ニーナとレオンは、恋に落ちていた。出会い、共に過ごす内に大好きになっていった。
少なくともニーナの恋はそうだったが、もしかして彼は、ベルクマン侯爵に折檻されているニーナを憐れんで、救うために恋仲になったのではないか。
前世の記憶を思い出した彼女は、自分たちのこれまでの恋路に疑念を抱いた。
レオンは、優しい青年だった。
出会ってから一度だって、ニーナに差別的な言葉を吐かなかったし、ベルクマン侯爵に蔑まれる珍しい色の髪だって、美しいと褒めてくれた。
ニーナの見た目を厭うて外出を禁じるベルクマン侯爵にじっくり交渉し、数年をかけて、社交界の宴に参加できるまでに待遇を改善してくれた。
まるでガラス細工に触れるように、真摯にニーナに触れ、贈り物も惜しまない。
七歳の時、恋心を告げると、口づけで答えてくれた。
ニーナはレオンが大好きだ。
でも彼は一度も、ニーナを愛しているとは言葉にしてくれていなかった。
言うタイミングがなかっただけかとも思っていたが、彼が愛ではなく、憐憫の情からニーナを娶ろうと決めたのだったとしたら――?
「ニーナ?」
名を呼ばれ、ニーナはレオンを見返す。彼は壊れ物を扱うような手つきで、ニーナの頬を優しく撫でた。
――同情で婚約を決めたなら、心変わりも納得だ。
ニーナは、七度も恋に落ちた、変わらぬ顔の恋人を見つめ、言葉を失う。
愛していたのは自分だけだったなら、こんな虚しい関係はない。
レオンの大きな手が顎にかかり、ニーナは我に返った。
キスをされそうな気配に、彼の胸を押し返す。
「ま、待って……」
何度もしたキスも、ただの慰めでされていただけなら、もう結構だ。
そう感じて拒もうとした彼女の顔を、レオンは首を傾げて覗き込む。
「……扉が閉まっているから、怖いのか? しかし人前でキスをするのは、嫌だと言っていただろう?」
「ひゃ……っ」
言いながら、レオンはそっとニーナの体を抱き寄せ、こめかみに口づけた。と、体にレオンの体重がかかり、ニーナはぽすっとベッドに押し倒される。
「……レオン……?」
真上から自分を見下ろす恋人を、きょとんと見返した。どうしてベッドに寝かせるのか、意味がわからなかった。
レオンは、普段の調子で自分を呼んだニーナにふっと苦笑し、眉尻を下げながら、彼女の眉を親指で優しくなぞる。
「……やっぱり、扉を閉じるのはよくないかもしれないな。何も知らない婚約者に、悪さをしたくなってしまう」
「――……っ」
悪さ、という表現に、ようやくニーナは彼の意図を察した。一気に顔を赤く染め上げ、身を起こす。
「ななな、何を言って……っ」
「別に普通だろう? 婚約したのだから、もう遠慮はしない」
「え……っ」
くつくつと笑い、レオンはニーナの首筋に顔を寄せた。彼は艶やかに瞳を細め、肌に口づけようとする。心臓が高く跳ね上がり、ニーナは身をすくめた。
首筋にキスなんて、今まで一度だってされた記憶はない。
これまでの触れ合いと言えば、たまにキスはしても、それ以外は手を繋ぐ程度だったのだ。
それなのに、急に距離が縮まり、ニーナは狼狽えた。
「あ、あの……っレオ――」
もう少しで唇が触れる、というその時、不意に部屋の扉が開いた。
「レオン殿下! いらっしゃっていたのね、知らなかったわ! ねえ、お昼は取られた? アミーとご一緒に昼食を頂かない?」
「――っ」
ニーナの肌を吸おうとしていたレオンは、するっと身を離す。
二人が振り返ると、ハニーブロンドの髪に、大きな金色の瞳が印象的な少女が、満面の笑顔で立っていた。