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レーゲン王国の一行がネーベル王国を訪れたのは、使者を帰してから半月と少し経った頃だった。
王太子の渡りとしては、かなり迅速な行動だと言える。
レーゲン王国とネーベル王国は国交がないのだ。隣国内の経路も把握しておらず、護衛や行程について、双方何度かやり取りをしてからとなるのが通常で、一般的に数か月から半年はかかった。
それをこの速さでなしたということは、使者が持ち帰った返答を受け、即断したのだと誰の目にも明らかだった。
「……門に到着したら、召喚魔法で直接この城に移動させるから、心配ないよ」
水鏡でレオン達の移動を眺めていたザシャが、傍らに佇むニーナに話しかける。
レオンの顔を見ていただけで、何か話した覚えがなかったニーナは、きょとんと彼を見返す。
二人は、王宮にいくつもある庭園の一つ――中央塔の傍にある、噴水脇にいた。
噴水脇に腰を下ろしていたザシャは、にこっと笑う。
「レオン殿が心配……という顔をしてたから」
「そんな……」
否定しようとしたが、ザシャはわかっている、という風に彼女の言葉を遮った。
「一国の王太子が、こんな少数の護衛で移動するなんて珍しいよね。普通、王太子が強行しようとすれば、周囲は慌てて護衛を無駄に増やしてしまう傾向にあるけど、彼はどうやら、臣下を宥めるのがお上手なようだ」
「レオン殿下は、武人の方なので……。護衛も、近衛部隊の方がほとんどのようです」
レオンの隣にはハンネスがおり、その周囲は見知った近衛兵で占められている。その一団を、ニーナは複雑な気持ちで見つめた。
馬車にも乗らず、馬に騎乗して移動しているレオンに笑顔はなく、いかにも軍人然とした厳めしい眼差しを前方に注いでいる。
馬車を使っていないのは、移動時間の短縮を優先したのだろうが、彼らはまるで戦にでも向かうような武装で、ニーナの瞳は不安で揺れた。
――命を、取りに来ている。
漠然と、そんな気持ちになるのだ。これまで何度も殺された彼女は、そろそろ自身の命運が尽きる頃だと感じている。
ニーナが十六歳になって、レオンは彼女を婚約者に据えようとしたが、ベルクマン侯爵をはじめとする複数の反対に遭い、婚約には時間がかかった。
ベルクマン侯爵と議会を納得させる頃には、ほぼ一年が経過しており、ニーナは、数日後には十七歳になろうとしていた。
そしてニーナが殺されるのはいつも、十七歳だ。
ネーベル王国へ来てから、毎日ザシャと話をする中で、彼はニーナの誕生日も確認し、それが近いと知ると、誕生日には成人の儀式を開こうねと話した。
ベルクマン侯爵は十八歳だと言っていたが、こちらの成人は、十七歳らしいのだ。
そしてその時に、気持ちが固まっていれば、婚約ないし、兄妹の契りの儀式もしようとも聞かされていた。
十七歳になることを喜ばしいと捉えているザシャに対し、ニーナは不安を募らせ、憂いを顔にのせる。
「武人か……。文官の僕とは、正反対だな」
ザシャは噴水脇に生えていた花の蕾を一輪手折って立ち上がり、水面から視線を逸らさないニーナの髪に触れた。垂れた髪を耳にかけ直した彼を見ると、ザシャは意味深に笑んだ。
「剣と魔法、どちらが強いのだろうね、ニーナ?」
――どちらかしら。
半月ほどで、魔法の基礎を身につけた彼女は、小首を傾げる。
わからない、という顔をしたニーナの前に、ザシャは蕾を差し出した。
「はい。花を咲かせようか?」
「……」
ザシャと蕾を見比べ、ニーナは少し照れる。
「あの、自分で持ってもいい?」
「ダメ」
にべもなく却下され、彼女は眉尻を下げた。薄く頬を染めて、身を乗り出す。
ニーナは、魔法を少し使えるようになった。でも行使する方法が少し特殊で、ザシャはそれを面白がっているのである。
彼女はそっと目を閉じ、蕾に優しくキスをした。瞼を開けると、淡い光が蕾を包み込み、花がゆっくりと開いていく。
ちらっと見上げると、ザシャは笑いをこらえてニーナを見つめており、彼女は唇を尖らせた。
「はい、今日も可愛くできました。上手だよ」
「……ありがとう、ございます」
ザシャは少し、意地が悪い。
ニーナは今のところ、キスでしか魔法が使えなかった。
これは、練習が原因だ。ザシャの曖昧な指導がさっぱり理解できず、自室でも魔法の練習をしていた折の、ちょっとしたハプニングである。
ちっとも魔法が使えず疲れ果てた彼女は、軽い出来心で、『これで咲いてくれたらいいのに』と蕾にキスをしたのだ。そうするとできてしまい、それ以降、キスつきでないと魔法が使えないのだった。
彼は可笑しそうに笑い、ポンポンとニーナの頭を撫でる。
「あと二、三時間で君の婚約者が到着するだろうから、着飾っておいで、ニーナ。そうして彼らと顔を合わせた最初は、笑顔を浮かべるんだよ。この国では、笑みは友好の証だから」
「……はい」
話を戻され、ニーナの体がまた緊張する。ザシャはふっと笑みを残し、背を向けた。
ネーベル王国では、対面時、よほどの敵対関係にない限りは笑みを浮かべるのが礼儀なのだそうだ。緊張していても、絶対に笑顔。
魔法の勉強の他に、この国のマナーや習慣も教えて貰いつつあるニーナは、去り行くザシャの背を見つめ、胸を押さえた。
彼の態度は、日に日に兄のようになっていく。ザシャの傍にいると、本物の家族に見守られているようで、ニーナはほっとした。
ニーナは彼が好きだ。――恋人ではなく、家族として。
レオンとの婚約を破棄しても、きっとニーナは、ザシャと結婚しない。
ニーナは視線を水面に戻す。ザシャの魔法がなくなった水面は、ゆらゆらと揺れるだけだが、ニーナはまだ、そこにレオンの顔が見えるかのように、細いため息を零した。
鼓動は速まるばかりで、落ち着かない。
レオンに会える。その嬉しさと、彼との別れへの不安、そして死を間近に控えた己の未来への恐怖。
抱えきれない感情を持て余し、ニーナは静かに項垂れた。
深い霧で覆われた、ネーベル王国の門前まで辿り着いたレオン一行は、門前にそびえる門番の姿に、ごくりと唾を飲み込んだ。
門前に立っているのは、身長三メートルはあろう、巨人である。
彼は巨大な手槍を持ち、遥か高みからレオン達を見下ろした。
「――何者だ……」
当人は普通に話したつもりだろうが、レオン達の鼓膜には、空気が割れるような大声で届く。
傍らにいたハンネスが、無意識か恐怖からか、腰の剣に触れようとするのを見て、レオンは手を伸ばした。目立たぬよう静かに、しかし強く彼の腕を押さえ、横目で命じる。
「待て、ハンネス。争いの意志を見せてはいけない」
レオンの斜め後ろの馬に跨っていた男が、含み笑った。
「……そうそう。ゴーシュは怖がりだからね、喧嘩腰で行くと殺されてしまうよ……」
それは、レオンにその事実を教えた未来見・ギードである。
ギードは、レオンが隣国へ渡ると聞いて、自分も一陣の中に加えろと言った。
隣国内は不案内だろう、と言われたら確かにそうで、何を考えているのかわからない節がある彼を同行させるのに思うところはあったものの、レオンは許可を出したのだった。
他のメンバーは、彼が未来見だと言えば、その特殊な能力から異論はなく、ここまで問題なく共に移動できていた。
レオンは遥か上空に向け、声を張る。
「レーゲン王国より参った、レーゲン国王・ユストゥスが嫡子・レオンと申す! 貴国に運ばれた、ニーナという少女との面会を求める!」
「……あい、わかった……」
門番はあっさり頷くと、彼の体よりもさらに高い門をゆっくりと押し開き、レオン達は強烈な風に煽られた。
「――う」
「うわ……っ」
護衛についていた兵の面々が呻く中、レオンは薄目を開けて門の中を見やる。
空に届こうか、という巨大な樹木があちこちに林立し、そしてその合間に白い壁の家が無数に建ち並んでいた。
大地は煉瓦で整然と整備され、空には鳥と、見覚えのない不思議な羽が生えた生き物が飛んでいる。
風の音と水の音、そして鳥の声が溢れ出し、レオンは建物が並ぶばかりの自国と全く違う景色に、口を開けた。
風が収まると、ぶうん、と蜂の威嚇音のような音が上がる。
ようやく目を開けられた護衛たちが、目前に浮かび上がった眩い青色の光を見て、悲鳴を上げた。
「――なんだ、あれは!」
「うわわっ」
レオン一人だけが、悲鳴も上げず目の前の光景を冷静に見つめる。
彼らの前には、青の光で構成された、巨大な魔法陣が展開されていた。
そして次の瞬間には、レオン他総勢二十五名の一団は、忽然と門前から消失する。
一団が消えると、辺りには静けさが戻り、門番はゆっくりと門を閉めた。
そこは再び深い霧に閉ざされ、門番は一人また、宙を見つめ続けた。