2
空は高く澄み渡り、ニーナは胸一杯に空気を吸った。
聞こえるのは水のせせらぎと、鳥の声。
ネーベル王国の王宮は、そこかしこに水場があり、どこに行っても水音が聞こえた。
王宮の奥宮近く、花の塔に部屋を設けられた彼女は、その塔の手前にある庭園にいる。
時折庭園脇の回廊を行き来する王宮の使用人がいるが、皆ニーナを見ても、どんな嫌悪感もその表情にのせなかった。恭しく膝を折って頭を下げられ、大仰な態度に、ニーナは恐縮するばかりだ。
彼らが着る衣服はレーゲン王国で見たメイド服とあまり変わりない。
しかしニーナが着ている服は、少し違った。
コルセットを着用しないで着るシュミーズドレスというもので、常よりも息がしやすく、心地よい。
袖は肩口でふわっと丸い形にした形が一般的らしいが、ニーナが着ているのは肘の辺りでキュッと締め、そこから手首までは鈴の形になる、変形型だ。
肩からショールを羽織った彼女は、長閑な宮殿の雰囲気に驚きを感じつつ、向かいに座っているザシャの話を聞いていた。
庭園の中央――湖のほとりに設けられた椅子に腰かけ、魔法について教わっているのだ。
二人の間にある机の上には、愛猫・シュネーが心地よさそうに丸まって寝息を立てている。
ネーベル王国に来てから、五日目の午後だ。
「魔力はね、大体十歳くらいから増え始めて、そこから練習して魔法を使えるようになるんだ。ニーナの場合は多分、お母上が魔力のない方だったから、魔力の成長に時間がかかったんじゃないかな」
話の中で、ザシャはニーナの一歳上で、既に王宮で文官として働いていると聞いた。
所属は歴史編纂局で、ネーベル王国の歴史について詳しいとか。本来は勤めに出る時間だが、ニーナがいるため、お休みを貰えたとのびやかな笑顔で話していた。
「魔法は、呪文を使うの?」
ニーナは、丁寧な言葉を使わないように話す。
会って数日の、王太子という身分の人にいいのかしら、という気分だけれど、彼がそう求めるので仕方ない。
今日は鮮やかな青の貫頭衣に身を包んだザシャは、二人の間にある円卓に肘を置き、頬杖をついた。
「使ってもいいし、使わなくてもいいよ。呪文は集中力を高める効果があるというだけのものだし。人が多い場所で魔法を行使する時は、呪文を使うことが多いという程度かな……。ニーナはもう呪文なしで魔法を使っているから、どちらかと言うと、考えるだけの方が楽だと思うよ……。火よつけ、だとか、花よ咲け、とか。――はい」
ザシャは足下に生えていた、花の蕾を一輪手折り、ニーナに渡す。
花を渡されたニーナは、困惑した。
花をじっと見たところで、咲くわけもない。
太陽の光にキラキラと光る、綺麗な白銀の髪を持つザシャを見返すと、彼はふふっと楽しそうな笑みを浮かべた。
彼の髪は、室内では白雪のように真っ白に、光の中では白銀に輝く。
「こうしてみたらどうかな……」
ザシャは人差し指を花の蕾に押し当て、一言呟く。
「――咲け」
言うと同時に彼が指を離すと、蕾がぽわっと淡い光に包まれ、白い花が咲いた。
ニーナは瞳を輝かせる。
「すごい……魔法みたい」
「ニーナ、魔法だよ」
ザシャがくすくすと笑って、ニーナの手から花を取り上げた。
「あ、そうね。魔法ね……」
ニーナが軽く頬を染めて言い直すと、ザシャはその花を、彼女の耳元に挿す。白い花で彩った彼女をしげしげと見つめ、笑みを深めた。
「うん。可愛いよ」
「――……」
ニーナはなんと返したらいいのかわからず、眉尻を下げて微笑んだ。
この国に来てからというもの、全て現実味がない。
桃源郷にでもいる気分だった。
誰も彼もがニーナに優しく、世界には魔法が当たり前にあり、時はゆったりと過ぎ行く。
髪の色もすっかり元の青色に戻り、心は平穏を取り戻したようだった。
レーゲン王国での出来事が、ただの悪い夢だったのだと言われたら、そうだったのだと信じてしまいそうなほどの長閑さだ。
ザシャがふと回廊の方に目を向け、呆れたような顔をした。
「……なんだい、父さん。また来たの? お暇ですね」
「――お前よりは、忙しい」
低く厳格な声音で応じた人を見やり、ニーナは立ち上がる。
回廊から、近侍を数名引きつれて、ネーベル王国の国王・クレーメンスが歩み寄って来ていた。
白地に金の刺繍が入る上下に、青い染料で染めたマントを羽織った彼は、ニーナと目が合うと、柔らく微笑む。
ザシャと同じ白銀の髪に、青い瞳を持つ秀麗な顔は、どことなくニーナの父の面影と重なった。
父の髪は青く、表情はもっと明るかったけれど。
クレーメンスは、ニーナがネーベル王国へ来てから、毎日一度は顔を見に来てくれていた。
「ああ、立たないでいい。座っていなさい、ニーナ」
「ごきげんよう、クレーメンス様」
座るにしても、挨拶をしてからにしようと、スカートを摘まんで膝を折ると、彼は満足そうに頷く。
「何度見ても、美しい挨拶だ。無駄がなく、優美」
「あ……ありがとうございます……」
前世の記憶を取り戻している分、ニーナの淑女としての所作はかなり熟練しており、指先の動き一つをとっても目を引く、流麗な動きをしていた。
それがたいそう気に入っているらしいクレーメンスは、ニーナの目の前まで歩み寄ると、彼女の両手を取る。彼の大きな手のひらの上に自分の手を重ねたニーナは、きょとんと顔を上げた。
「さて、私の可愛いひな鳥よ。今日は少々面倒な話がある。……西のレーゲン王国より、使者が参ったのだ」
「――」
ニーナは瞳を見開き、その表情を見たクレーメンスは、やや心配そうに表情を曇らせる。
ニーナの心臓が、急速に鼓動を速め、冷や汗が滲んだ。
レーゲン王国から使者が来たということは、なんらかの要望があるという意味だった。
脳裏を、ざあっと最後の宴の映像が駆け抜け、ニーナは震えだす。
誰もがニーナを魔物と恐れ、殺せと叫ぶ声があちこちから聞こえた。
もしも、逃走した魔物を引き渡せ――と指名手配書が回って来たなら、ニーナはあの国へ戻らなくてはいけない。そして、魔物として拷問を受け、殺されるだろう。
あまりにも長い間、ベルクマン侯爵から折檻を受け、多くの嫌悪の目に晒されてきた彼女の心は激しく乱れた。
ニーナは首を振り、震える唇で呟く。
「私……叔父様の元には、帰りたくありません……」
クレーメンスは怪訝そうに首を傾げ、ニーナは言い募った。
「……お、お願いです。王宮に住まわせて欲しいなどとは、申しません。辺境の、ずっと貧しい環境で十分ですから、どうか、どうか私をこの国に留めさせてください、陛下……!」
涙声での訴えを聞いた彼は、眉尻を下げてため息を零す。
シュネーが顔を上げ、空を見上げた。
風が吹き始め、空には湿気を含んだ雲が広がり始めていた。
「お、お願い致し……っ」
重ねて願おうとする彼女を、クレーメンスは抱き寄せ、温かな体温で包み込んだ。
「……ニーナ。お前は私の可愛い姪だ。いずれは、私の娘にしたいと考えている。お前の望まぬ国に、引き渡そうなどとはしない。それに、お前を国の辺境へ移らせもしない。私はお前とできるだけ長い間、共に過ごしたいと考えているからね……」
大丈夫だ、と背を叩かれ、ニーナは大きく息を吐く。心からの、安堵の吐息だった。
「……使者は、君の隣国での叔父――ベルクマンと言ったか、彼からではない。レーゲン王国の王太子からだったよ」
「――」
心臓が高く跳ね上がり、ニーナの体が強張る。
――レオン。
彼が何を望んでいるのか、今のニーナには欠片も想像できなかった。
王太子の元から逃げ去った、異国の血を引く婚約者。
なんの手続きもなく消えるなど、婚約者として不適格だと、多くの議員が彼に婚約破棄を提言したのではないだろうか。
そう考えると、使者が運んだ書面は――婚約解消の通告書。
それを望んでいたはずなのに、ニーナは緊張し、心臓は先ほど以上にどくどくとを音を立てて、脂汗が滲んだ。
温かなクレーメンスの体温も、感じられなかった。
指先まで冷え切った彼女の耳に、クレーメンスの穏やかな声が響く。
「……レオン王太子は、今一度そなたに相まみえたいと願っておるそうだ」
「……」
ニーナは黙って、続きを待つ。
――もう一度会ってどうしたいの? お前などいらないと言うために、わざわざ会いに来るの? それとも、国交締結の交渉に必要だから、妻になれと命令するの?
ニーナは震えながら言葉を待ったが、クレーメンスはそれ以上何も言わなかった。
彼女は顔を上げる。
クレーメンスは、ニーナを心配そうに見つめていた。
「……それだけ、ですか……?」
「それだけ、とは?」
「その、婚約を解消するために、ですとか、死刑に処する手続きを取る、ですとか……何か、会う理由は書かれていなかったのですか……?」
ニーナの言葉を聞いていた彼は、とうとう顔を顰める。
「聞きしに勝る、劣悪な環境で育ったと見える。もうよい。隣国の者には、何も話すことはないと言って帰そう。――何が死刑か。私の可愛い娘を殺させるわけにはいかぬ」
最後は独り言として吐き捨て、クレーメンスはニーナを座らせ、近侍を振り返った。
「隣国の使者には、会わせる者はいない旨記載した書面を渡し、お帰り頂け」
「――お待ちを」
これで話は終わりだ、と去ろうとするクレーメンスに、ザシャが語調を変えて話しかける。
机に肘をつき、両手で頬を包み込んで二人のやり取りを見守っていた彼は、父王に笑みを向けた。
「ニーナと、その隣国の王太子は、一度は婚約を結んだ仲でしょう。先方も、婚約をしたままニーナが姿を消してしまっては、対応に苦慮するのでは……?」
「では婚約を解消する旨も記載しよう。――ニーナの夫となるのは、レーゲン王国の王太子ではなく、ネーベル王国の王太子・ザシャだと」
「――」
震えながら俯いていたニーナは、びくっと肩を揺らす。
クレーメンスは、ニーナを一目見るなり気に入った様子で、すぐにザシャとの婚約を打診してきていた。
クレーメンスにとってニーナの父は、何者にも代えがたい大切な弟だったそうだ。
物心つく頃には国を出て諸国を渡り歩き、土産を持ち帰っては愉快げに異国の話をする。
次期国王となる予定だったクレーメンスにはできない生き方をするニーナの父は、クレーメンスの憧れだった。
王族がそんなに自由に行動できるのかと驚いたが、ニーナの父は別格だったらしい。
誰よりも魔力に長け、聡明で、しかし十五歳で王位継承権第二位を放棄し、民草へ降りると宣言した変わり者。
彼がこうすると決めれば、誰もとめられない。
それが、ニーナの父・テオという男だったらしい。
いずれネーベル王国に戻らなくなるだろうとは予感していたが、数年連絡が途絶え、クレーメンスは心配になって彼を探し始め、事態を知った。
まさかこんなに早く彼を失うとは思っていなかったと、悲しそうに話してくれたのだ。
そしてクレーメンスの方は、数年前に妻を病で亡くし、このところ悲しい出来事ばかりだと嘆いていた。
父子のみの寂しい家庭だから、もう一人増えると嬉しい。そう言って、ニーナに家族になろうと乞うてくれたのである。
ニーナは、まだレオンと婚約しているからと、話をうやむやにしていた。
それが、既に決まったような口ぶりに、怖気づく。
レオンの妻となるために、十分な教養は身につけているはずだが、ニーナはこの国の常識などさえ、詳しく知らないのだ。突如現れた王弟の娘という少女を、この国の民はそう簡単に受け入れるだろうか。
そして何より、ニーナはまだ、心の整理ができていなかった。
胸を染める、嫉妬心と――まだ消えていない、レオンへの恋心。
机を見つめたまま、体を強張らせるニーナを見やり、ザシャはふっと苦笑する。
「僕は、結婚に対しては特に希望はありませんから、それでも構いませんが……彼女はどうかな。ここ数日で彼女から聞いた話によれば、ニーナはレーゲン王国の国境付近で長閑に育ち、その後王都へ移って王太子に出会ったとか。彼女は僕のような、生まれながら王宮で育った、王族の思考を持つ者ではない。……普通のご令嬢には、もう少しロマンチックな結婚が好みではないかと、思いますが」
「では、お前がニーナを口説き落とせばよかろう。小賢しく言っておるが、お前とてニーナが気に入らなければ、頑として婚約など受けぬと言うはずだろうが。ふわふわしているように見せかけて、根は頑固者だからな」
歯に衣着せぬ物言いで言い放たれ、ザシャは半目になった。
「……父上は、情緒がないよね……。まあ、ニーナを可愛いと思っているのは、認めますよ。でも彼女とその婚約者殿は、一回くらい会わせてあげるべきだと進言致します。先方が会いたいと言ってきているのは、会わないといけないなんらかの理由があるのでしょうから。いくら魔法を厭う人々とはいえ、他国の地で剣を抜くような真似はしないでしょう。万が一、先方がそのような愚か者だったとしても、我らの魔力の前に、彼らは無力だ」
いくらでも回避できる――と言うザシャを、クレーメンスは数秒見つめ、ニーナに目を向ける。
「それでよいか、ニーナ?」
「……」
ニーナは答えを迷い、視線を泳がせた。
顔を合わせて以降、ザシャは、魔法を教えるのと一緒に、ネーベル王国についても聞かせてくれていた。
この国が、門戸を固く閉ざし、霧の中に隠れている理由も、その中で知った。
この国は、余計な争いを避けるため、門を閉ざしたのだそうだ。
かつては門戸を開き、多く交易をしていたけれど、やがて人々は魔法で作られた道具――魔道具や、魔法使いそのものを支配しようと邪悪な思考を抱きだし、戦が起こった。
争いで多くの人間と魔法使いの血が流れ、これを嘆いた数代前のネーベル王は、門戸を閉めることを決めたとか。
以降、ネーベル王国の国民が外に出ることは許しているが、よほどの理由がない限り、他国の者は国内へ入れない。この定めが今解かれ、門戸が開かれようとしているのだ。
レオンが門を越えてやってくる。そう考えると、どうしても胸が騒いだ。
――会いたい。でも、会うのが怖い。
もう、『お前などいらない』と冷えた目で自分を見るレオンを、見たくなかった。
何度も繰り返した前世の記憶が、彼女の意気地を折ろうとするのである。
やっぱり無理だ、と首を振りかけたニーナに、ザシャは優しい声で言った。
「ニーナ。逃げるだけでは、進めないよ」
それは、ニーナの思考を見透かすかのような一言で、彼女はハッとする。
宴でレオンの浮気を目の当たりにし、自分を厭う目に晒され、委縮するあまり忘れていた。
前世の記憶を思い出した直後、ニーナは、これまでとは違う人生を進もうと決意していたのだ。
レオンとの婚約は諦め、自らを変えようと。
隣国内での彼女は、見た目のせいで自信もなく、周囲の目を気にして生きていた。
しかし今、あるべき土地へ移り、どんな攻撃も受けない環境にある。
魔法だって忌むべきものではなく、むしろ学ぶように勧められている。――好意的に。
これは、大きなチャンスだ。
――変わるべきは、自分。
前世を思い出した頃と同じ答えを導き出し、ニーナは大きく息を吸った。
クレーメンスに瞳を向け、頷く。
「はい。レオン殿下と、一度だけ、お会い致します」
――この恋を、終わらせるために。
レオンとの別れを意識したニーナの瞳に、涙が滲んだ。
まだ、胸が苦しかった。レオンが今も、好きだから。
けれどもう、好きでなくならなければいけないのだ。
自分の未来のために。
クレーメンスは、潤んだ瞳で自分を見上げたニーナに眉尻を下げ、優しい笑顔を浮かべた。
「……よろしい。では、今日も焦らずよく学びなさい、ニーナ。これから、時間は飽くほどにあるからな」
「はい、クレーメンス様」
頷くと、彼は背を向け、足音高く、王宮へ向かって戻っていった。
温かな風が吹いて、ニーナは空を見上げる。
雨雲に覆われていた空は、元の晴れた空に戻っていたけれど、ぽつりぽつりと晴れ雨が降り始めていた。
「……変わらなくちゃ」
瞼に滴が落ちて、ニーナは呟く。
心をコントロールして、誰にも迷惑をかけないよう、魔力を使いこなせる人になるのだ。
そうして、誰にも怯えずに、一人で立てるようになりたい。
自然と、そんな志を抱いた彼女を、ザシャは静かに見つめていた。
彼の眼差しに気づいたニーナは、その瞳を見て、気恥ずかしく頬を染める。
それは、ずっと昔に失った、家族の温かな眼差しと、とてもよく似ていた。
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