1
目を覚ましたニーナは、眩い光に目を細めた。
「……何、これ……?」
額に何かが触れて、払う。
柔らかな感触がして、目を瞬いてよく見ると、それはとても薄く編まれた布地だった。
さあ、と風が吹き、布地がまた頬を撫でていく。
上半身を起こして辺りを見渡し、ニーナはぽかんとした。
頬に触れていた布地は、ベッドの天蓋だった。
ニーナは真っ白なシーツに包まれたベッドに横たわっていたらしい。
薄い布を幾重にも重ねた天蓋は、今もふわふわと風に揺れている。
透けた布の向こうには、大きな窓があり、そこから水辺が見えた。
蓮の花が咲き乱れる、大きな湖のようだ。
湖の周囲には、白で統一された塔が回廊でつながっており、どれも不思議と背の低い建物ばかりである。
「……綺麗な場所」
ニーナがそう呟くと、後ろから声がかかった。
「……起きた……?」
「え?」
物静かな声に振り返り、ニーナはぱちりと瞬く。
背中に届く真っ白な髪を一つに束ねた、青い瞳の青年が、部屋の入り口から入ってくるところだった。
彼は白い貫頭衣を身に纏っている。緋色の髪の青年が着ていた服と似ていた。
「貴方は……?」
首を傾げると、彼はふわっと微笑む。
「初めまして。僕の名前はザシャ。……君の名前は?」
「……私は、ニーナと申します」
彼の雰囲気が上品で、ニーナは言葉遣いを改めた。
ザシャは一つ頷き、手を差し出す。
「会えて嬉しいよ、ニーナ。……デニスから聞いたよ。とても辛い目に遭ったみたいだね。でも、大丈夫……。もう、怖くないよ」
「……」
ぼんやり握手を返した彼女は、すうっと息を吸った。
起きたばかりで頭が回っていなかったけれど、ニーナは、宴の席に参加していたのだ。
レオンの不貞を目にし、会場に戻ったら髪が真っ黒に染まっていて、魔物だと叫ばれた。
レオンの浮気も、自分を忌む人々の目も悲しくて仕方なくて、父の故郷に行きたいと願ったら、緋色の髪の青年が現れ、ニーナは気を失ったのである。
ニーナは自分の髪を見て、眉を顰める。髪は、青と黒が斑に交ざった色をしていた。
「どうして……髪の色が変わって……?」
ただの独り言だったが、ザシャが応じた。
「それは、君が『神の愛し子』だから」
まさか答えが返って来るとは思っておらず、ニーナはきょとんと彼を見上げる。
せっかくの答えだが、『神の愛し子』という言葉を、彼女は知らなかった。
「どういう意味ですか……?」
尋ね返しながら、ニーナの胸は沈む。
――こんな気味の悪い髪色になってしまって……もう、レオンには会えない。
彼女の思いは複雑だった。
誰もがニーナを化け物だと叫んで逃げ出し、兵は彼女を殺そうと剣を抜いた。
自ら婚約解消を訴え、レーゲン王国から逃れたいと望んだにもかかわらず、二度とレオンの元へは戻れないだろうと思うと、ニーナの胸はしくしくと痛むのだ。
同時に、アメリアとのキスシーンを思い出すと、涙が溢れそうになる。
――どうして……っ。
他の女性に気持ちが移るのはいい。人の心は移ろいやすい。だから理解できる。
でも、どうしてニーナとの関係を継続した状態で、他の女性とも情事を重ねるのか。
彼のその行為だけは、どうしても、受け入れらなかった。
――婚約中に、他の女性とも関係を持つなんて、汚い。不潔だ。
愛しているのに、その愛している人を汚らわしく感じる自分も否定できず、ニーナはぎゅっと目を閉じる。
項垂れ、泣いてしまいそうなのを堪えるニーナの頭に、ザシャの柔らかな声がかかった。
「……ニーナ。この国にはね、君のように髪の色が変わる人間が、稀に生まれるんだ……。なんでも、神の血が宿っているとか……。本当かどうかは、知らないけれどね」
「神の血……?」
ニーナの父は、魔法は使えていたが、普通の人である。髪は青色で、その色が変色することもなかった。
ニーナは瞳を涙で潤ませたまま、ザシャを見上げる。
彼女の顔を見たザシャは、眉尻を下げた。軽く腰を折り、人差し指の背で、ニーナの涙を拭う。
「……伝説だよ。髪の色が変わる子は、大事にしないといけないと、言い伝えられている。……神の血を宿す子は、神の力の一部を身に宿すため、その珍しさから、神に愛される性質なのだとか。神は『神の愛し子』を手元に置きたがり、人が目を離したらすぐに、取り上げてしまうのだそうだよ」
「……」
信仰の一種だろうか。ニーナが何も返さないでいると、彼は身を離し、つけ加えた。
「まあ、髪の色が変わる子は珍しいから、かつてはよく人攫いに遭っていたのだと思うよ。子供の内は、魔法も上手くなく、捕まえるのは簡単だ。……昔は、突然子が消えてしまうと、神隠しに遭ったのだと思いがちだったし、巡り巡って、こんな伝承が生まれたのだろうね。……少なくとも、半分くらいの子の失踪は、この見識で正しいだろう。見世物小屋などに売られていたという記録もある」
「残り半分は……?」
それ以外の理由があるのか、と首を傾げると、彼は本気かどうかわからない、穏やかな笑みを湛えて応じる。
「残り半分くらいは、本当に神様に取られちゃったのだろうと思ってるよ……。だって、歴史上にも髪の色が変わる子の数は少ない。彼らは目立つんだ。探せば見つかりそうなものなのに、見つからなかった子もいる。そういう子は、きっと神様が取り上げたんだろうなと思うよ。それを示す記録も、極僅かだけど残っているし……」
「……遠い国に連れて行かれたただけじゃ、ないのですか……?」
彼は苦笑した。
「遠い国でも、僕らは探せるからね。僕達ネーベル王国の民は、皆が妖精の血を引き継ぎ、魔力を有する。この力を使えば、多少時間はかかろうが、見つけられるはず。デニスが、君を見つけたように」
――デニス。
自分を迎えに来たと言って、突然現れた青年の名だ。ニーナは俄かに、自分の状況を把握していないと認識し、身を乗り出した。
「あの、私……っ」
ニーナの声に重ねて、ザシャは口を開く。
「僕の父上が、君を探していたんだ。――本当は、君のお父上を探していたのだけど。……テオ殿は、もう亡くなってしまったのだろう? 君のお母上と一緒に」
「……は、はい……」
どうして父の名を知っているの、と当惑しつつ、ニーナは頷いた。
ザシャは、憂いのあるため息を零す。
「……デニスから報告を受けた父上は、酷く悲しんでいらっしゃったよ。とても大らかで、明るい性格の弟だったのに、そんなに早く命を落とすなんて、と。子があるようだと聞いて、ではせめてその子だけでも手元に置きたいとおっしゃり、デニスを送られたんだ」
「……」
ニーナはぽかんとする。
――弟?
「父上は、君さえ望むなら、君を自分の娘として迎え入れたいとおっしゃってる。……ねえニーナ。僕の妹になる?」
ニーナは全く話が見えず、呆然とザシャを見返した。
彼は楽しそうな笑みで、返事を待っている。
「……ザシャ様。そう性急にお話をされても、姫様はお目覚めになったばかり。即答は難しいでしょう。……それに、相変わらず説明がお上手でない……」
「……あれ、そうだった……?」
ザシャが振り返ると、その足元に、いつの間にか緋色の髪の青年――デニスが膝を折っていた。
いきなり現れた彼の姿に、ニーナはびくっと肩を揺らすも、ザシャは一つも驚いた様子はない。
デニスは顔を上げ、申し訳なさそうにニーナに目を向けた。その腕から、白い塊がポロリと落ちる。
「あ……っ」
ニーナは少し高い声を上げ、両手を広げた。
「にゃうっ」
真っ白な毛並みに金色の瞳を持つ愛猫が、デニスの手から飛び降り、ニーナの胸に飛び込んだ。
「シュネー……! ごめんなさい。貴女を一人にするところだった……っ」
抱きしめた愛猫は、ゴロゴロと喉を鳴らし、頭を擦りつけてくる。彼女の体から香った匂いに、ニーナはぽつりと零した。
「雨の匂いがする……」
「……レーゲン王国は、姫様がこちらへお移りになって以降、豪雨に見舞われ続けておりますので、その湿気の匂いでしょう。貴女をこちらへお連れする途中、ベルクマン侯爵邸を横切りましたら、その猫がニーナ様を連れて行くなと立腹しておりまして。気になりましたので、ニーナ様をお連れした後、その猫もこちらへ連れて参ったところです」
「……猫の言葉が、わかるのですか……?」
あまりにも当然の口調だったので、驚いて尋ねると、デニスは平然と頷いた。
「魔法を使えば、わかります。相手の気分や性格にもよりますが。頑なに意思を伝えようとしない動物も、中にはおりますので……」
「そう、なのですか……」
あまりにも自分の知る常識と異なる話に、ニーナは戦いた。びっくりして、二の句も継げないでいると、デニスはニーナをもの言いたげに見つめ、言いにくそうに口を開く。
「……その……姫様に置かれましては、お力のコントロールが必要かと……」
「……?」
「現在、隣国はニーナ様の魔力の影響が強く残り、雨に苛まれ続けております。このまま続くようであれば、かの国は、遠からず水の底に沈むかと……」
「……え? そ、それは、私のせいなのですか……?」
雨を降らせた自覚がないニーナは、瞳を大きくする。それに応じたのは、ザシャだった。
「そうだよ。君は天候を操る力を持っているみたいなんだ。僕らも魔力は持つけど、さすがに天候にまでは手出しはできない。『神の愛し子』は、力が強すぎるきらいがあるね……」
「ど、どうしたら……」
レーゲン王国が水に沈むなんて、大変だ。
冷や汗をかくニーナに、ザシャは穏やかに笑い返した。
「練習したらいいよ。デニスによると、君の感情で天気が変わるようだから、心をコントロールするんだよ」
「心を、コントロール……?」
漠然としていて、どうすればいいのかよくわからない。助け舟を求め、視線を向けると、デニスはさほど隣国に興味はないのか、一つ頷き返すだけで、話を変えた。
「ニーナ様、ここはネーベル王国の王宮でございます。ザシャ様は、ネーベル王国国王・クレーメンス様のご嫡男で、我が国の王太子殿下。そして姫様のお父上・テオ様は、クレーメンス様の弟君にございました」
「…………」
ニーナは呆然と彼を見返す。
デニスは再び頭を下げ、抑揚のない声で続けた。
「そしてクレーメンス王は、姫様を自身の娘として迎え入れたいご意向です」
ザシャが、ふふっと笑う。
「デニスは、もうニーナを姫様って呼んでいるね」
デニスはザシャを見上げ、眉尻を下げた。
「――姫となられるのは、決まったようなものと考え……」
「父上は寂しがり屋だものね。それに彼女は、この国でも珍しい、『神の愛し子』だ。ニーナを見たらきっと、誰がなんと言おうと、娘にしちゃうね。多分、お嫁にだって出したがらないだろうから……僕のお嫁さんに、とか言い出しそう……」
「――」
ニーナは息を呑んだが、ザシャはなんでもなさそうに、朗らかに笑う。
俄かには信じがたい話だった。
けれど、よくよく考えると、ニーナは父の家族についてを、一切知らない。
彼らの話が真実なら、ニーナとザシャはいとこ同士。
――結婚は、可能だった。