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ニーナが緋色の髪の男に連れ去られた二日後、レオンは議会の席についていた。
いつにもまして表情がない彼の前には、数百の議席に腰掛ける議員がいる。二階建て分の高さを利用して設けられたその席に座る彼らは、口々に声を上げていた。
「彼女は国の許しもなく、隣国の者を引き入れ、消えたのだ! なんらかの計略があった可能性が高い!」
「レオン殿下に取り入り、王宮内の間取り図を作っていたのやも知れませぬ! 彼女は王家の私室にも出入りしており、危険です!」
「いつ攻め込まれるかも知れぬ。先手を打つべきだ!」
議会は、ニーナが間諜であったのだとみなし、先んじて隣国を亡ぼすべきだと主張する、ベルクマン侯爵の一派と、事態の動向を見守るべきだという一派で二分されようとしていた。
会場の真正面・中央に設けられた玉座に座るレーゲン国王は、血気盛んに訴える者たちを穏やかな眼差しで見守る。
彼は、自らの右手――一段下に設けられた最前列の席に座る息子に目を向けた。
レオンは冷静な表情で軽く俯き、黙りこくっている。
その顔色からは何も読み取れぬが、長い足を組み、膝の上で両手を重ねる姿には、余裕すら窺えた。
王の視線を受けて口を開いたのは、王太子ではなく、その隣に腰を据えた大将軍・アウグストである。
彼は大らかな笑みを浮かべ、首を傾げた。
「しかしなあ。私は現場に立ち会っておったけれども、ニーナ嬢は、幼子のように泣きじゃくっておっただけだ。皆に怖がられ、悲しそうであっても、邪悪な計略をしているようにはとても見えなんだぞ」
レーゲン王国でも武功を挙げ続けた、歴史あるミュラー侯爵家の当主である彼の発言は、力を持つ。
声高に兵を挙げよ、と口にしていた一部の議員は、黙り込んだ。しかしこれに対し、他でもないベルクマン侯爵が皮肉げに返す。
「貴殿は誰よりも剣の腕が立ち、御身を自らの力で守れるためか、いつも呑気に構えておられる。万が一隣国の魔物らが王家の皆様を呪い殺したら、どのように贖われるおつもりだ。アレは私の許しもなく、魔物を国内に呼び寄せ、共に逃げたのだ。後ろ暗い事情がなければ、ここに留まろう」
アウグストは、幾ばくか気に入らぬ色の目を向けた。
「過去四百年、隣国はいかなる国にも戦をしかけておらぬが、事情が変わったと申されるのか? 卿は妹御と絶縁していたと記憶しておるが、実は縁を持ち続けており、妹御の夫より、何らかの計画でも聞いたか」
この問いに、ベルクマン侯爵はかっと頬を染め、声を荒げる。
「――何を、馬鹿なことを……! 私の忠誠に、偽りなどない! 私を侮辱するか‼ 妹をたぶらかした男と連絡を取った記憶など、結婚の挨拶に来た折と、子が生まれたと報せる手紙を一通受け取ったきりだ! 挨拶の時は即刻追い返して会話もしておらぬし、手紙でも隣国の成人年齢が十な……っ、十八歳だということ以外、どんな情報も得ておらぬわ!」
事前に王家を害する計画を聞いていたならば、報告義務を怠ったとして、彼もまた罪に問われる。
咄嗟に怒りを露にしたベルクマン侯爵に、アウグストは朗らかに笑いかけた。
「侮辱などしておらんよ。確認したまでだ。貴殿の妹御の夫は、正式に国に申請を上げ、レーゲン王国に住まう許可を得た男だったな。……彼も、そしてニーナ嬢も、この国に住まうことを許されておった人間だと、言いたかっただけだ」
「……どういう……」
アウグストの言わんとすることがわからず、ベルクマン侯爵は眉を顰める。
アウグストは笑みを消し、議会の面々を見渡した。
「先ほどから、魔物、魔物と耳障りな言葉ばかりが飛び交っておるが、レーゲン王国は隣国の者も人として扱い、法的に認めている。ニーナ嬢は、魔物ではなく人だ。誤った言葉遣いは改められよ。――王太子殿下の婚約者に対し、無礼が過ぎよう」
アウグストの冷静な指摘に、声高にニーナを魔物と称していた者たちが、ぎくっと身を強張らせる。無礼千万の振る舞いだったと気づいたのか、皆口を閉ざし、議会はしんと静まり返った。
その静けさの中に、低い声が響く。
「……婚約者は、挿げ替えられるがよろしいと、提言致します」
レオンは、ゆっくりと顔を上げた。
ベルクマン侯爵が、その瞳に隠しきれない期待を宿らせ、レオンを見つめる。
レオンは数秒、静かにベルクマン侯爵を見返し、首を傾げた。
「……何故だ?」
「……よろしいのですか。あれでは内務大臣の矜持が……」
議会に書記官としてひっそりと参加していたカールは、会議室から私室に帰るレオンの隣で、心配そうに尋ねる。
レオンは自らクラヴァットを解きながら、苛立たしげに尋ねた。
「そんなことより、ニーナの行方はわかったのか?」
自らの答弁により、議会をひとまず黙らせたレオンは、ベルクマン侯爵の矜持よりも、婚約者の行方の方が大事だ、と話を変える。
カールは眉尻を下げたまま、肩を落とした。
「……宴に参加した者たちから聴取致しましたが、皆一様にニーナ嬢は忽然と消失なされたとしか申しません。消えてしまったとあれば、後を追う術もなく。行方は杳として知れませぬ」
「――っだろうな……!」
私室に到着したレオンは、上着を脱ぎ、長椅子に投げ捨てる。
予想はしていたが、やはり王家の権力を行使しても、ニーナの行方は追えないようだ。
「……お行儀の悪い……」
カールが上着を拾い上げるのを尻目に、レオンは頭を掻きむしり、窓辺へ歩み寄った。
ニーナが消えて以降、豪雨に苛まれ続けている王都の遥か東――わだかまる霧の山を睨みつけ、ぎり、と親指を噛んだ。
「隣国へ連れ去られたなら……取り戻すのに時間がかかる」
隣国とは国交がなく、連れ去られたニーナを返せと頼むにも、連絡手段がなかった。しかも、誰が連れ去ったのかもわからない。
隣国の人間は、あらゆる色の髪があると聞くため、髪色は目立つ特徴にはならなかった。無数の人間の中からたった一人を探す捜査には、多大な時間がかる。
苛立つレオンの背中に、カールの穏やかな声がかかった。
「……使いを出しまして、隣国の門番に取次ぎを頼ませに行ったところでございます」
「何?」
聞き返すと、カールはレオンの上着を綺麗に整え直しつつ、微笑む。
「未来見殿によりますと、門番に手紙を渡せば隣国内のしかるべき機関に届けてくださるということでしたので、物は試しに、でございます。どうも、隣国の門番は、武器を掲げれば問答無用で抹殺するらしいのですが、普通に話しかければ応対してくれるそうで」
瞬時に使いの身を危ぶんだレオンは、カールの説明にいま一つ安心しきれず、目を眇める。
「未来見か……」
「そう。優しい未来見さんは、主人に無理難題を吹っ掛けられた文官殿を不憫に思って、助け舟を出してあげたんだよ」
真後ろから声が聞こえ、レオンは勢いよく振り返った。いつからいたのか、漆黒のローブに身を包んだ未来見(自称・神)のギードが、部屋の隅にあるソファに座っていた。
彼は立ち上がり、レオンに近づく。
「お嫁さんを見事に逃してしまった今の気持ちはどうだい、王子様?」
にやにやと笑って揶揄され、レオンは眉間に皺を刻んだ。
「煩い。ニーナは連れ去られたんだ!」
彼女は、緋色の髪の男の術で、この国から消えた。自ら逃げ出したわけではない。
そう言うと、ギードは眉を上げ、冷笑した。
「いいや、あれは彼女の意思だよ。忘れたのかい? あの子は、自ら父親の国に行きたいと言ったんだ。だから迎えが来てしまった。君は、ニーナを救えなかったんだよ、愚かな王子様」
「……お前……っ、迎えが来ると知っていたのか⁉ なぜ教えなかった‼」
――知っていれば、彼女が連れ去られぬよう、対処もできたというのに!
胸倉を掴んで詰問すると、ギードは片目を眇めた。
「……知っていたとして、なぜ君に教えないといけないのかな? 忘れたかい? 私はニーナが欲しいんだ。――君と同じようにね」
「……っ」
レオンは顔を歪め、ギードから手を離した。
ギードは笑顔で、追い打ちをかける。
「彼女のためにも、婚約を解消してあげてはどうだい、王子様? この国は、あの子に相応しくないようだ」
レオンは額を押さえ、項垂れた。
――本当は、気づいていた。
会場中が悲鳴に包まれ、自分の背後で泣きじゃくっていたニーナ。
可愛い笑顔が、大好きだった。
『レオン』と名を呼び捨てにされるだけで、無上の喜びを感じた。
自分なら彼女を守れる。そう信じていたが、彼女の髪が黒く変色したことで起こった、会場の混乱すら鎮められない。
それだけでなく、兵は――他でもない、レオンの側近であるハンネスは、剣すら抜いた。
レオンが下がれと命じているにもかかわらず。
あの時レオンは、怯えて震える恋人の姿に、悔しさを覚えた。
――自分が兵の信頼を獲得しきれていないばかりに、恋人を怯えさせている。
心から、すまない、と懺悔したかった。せめて抱きしめて安心させたかったのに、彼女はレオンを見て、別離を選択したのだ。
『……私……お父様の国に行きたい……っ』
震える彼女の声が、今も耳にこびりついて離れない。
彼女は確かに、この国から逃げ出したがっていた。
取り戻してはいけない。このまま、彼女を手放してやるのが一番なのではという思いが、頭をよぎる。
レオンは眉根を寄せ、床を見つめた。ニーナを失ってから、一時の暇もなく、彼女のことばかり考えている。延々考え、己を抑制しようと試みた。それが彼女のためなのだと。
――けれど。
レオンは吐息を零し、力なく呟いた。
「――でも、俺は……彼女が好きなんだ……」
ただの、恋だった。
ニーナに出会い、心を奪われ、そして妻にしたいと思った。
諦められない。どうしても、手放したくない。
――愛しているから。
隣国との国交締結交渉について計画立てたのも、民のためにと考えたからだが、彼女を楽にしたいという気持ちが先だっていた。
隣国と国交が開き、民が自分たちと違う髪色の人間に慣れれば、ニーナを厭う者は減る。だから計画を推し進めたのだ。
私的な理由であっても、それくらい――許されていいだろう?
――彼女は、あんなに辛い環境下で、誰よりも努力し、婚約者に相応しくあろうと努力してきたのだから。
彼女以上に、聡明な少女はいない。
レオンは悄然と項垂れ、ぐっと拳を握った。
「……本当に、俺が嫌なら、手放す。だが、彼女の口からそれを聞くまでは、諦めたくない」
六度も失敗している。今世こそは、彼女を幸福にしたいのだ。共に暮らし、彼女を毎日笑顔にさせたい。
もう、彼女の命を誰にも奪わせはしない。そう――決意したから。
情愛と執着を灯す瞳で見返されたギードは、肩をすくめた。
「……そう。じゃあ手始めに、隣国に乗り込むんだね。閉じこもってしまった姫様を、取り戻せるかどうか、僕は知らないけど。……まあ、あの騒ぎで、君の間抜けな不貞話は吹き飛んだみたいで、よかったね」
「あれは……っ」
レオンが大きく口を開くと、端で聞いていたカールが、すかさず首を突っ込んだ。
「……おや、浮気をなさったので? それはいけませんねえ」
即刻浮気と認定され、レオンは眉を吊り上げる。
「――違う!」
「誠でしょうか。男というのは、上等すぎる女性を手に入れますと、自身の器量を勘違いして、他の女性に目が移りがちです」
「だから、違うと言っているだろう!」
にやにやと笑って二人を眺めていたギードは、誰にも気取られぬ仕草で、扉口に視線を動かした。
扉前に控えていたハンネスが、笑顔もなくレオンを見つめ、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「……何が……上等すぎる女か……」