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 ベルクマン侯爵邸でレオンと宝探しゲームをした一週間後、ニーナはとある宴に参加していた。

 その館は、こげ茶色の外壁で統一された、シックな造りだ。財力は十分にあるらしく、日が沈む頃から開催される宴に合わせ、外灯がそこかしこで灯されている。

 清楚な乳白色のドレスに身を包んだニーナは、レオンのエスコートで会場入りしながら、周囲を見渡した。普段の宴よりも、厳めしい顔の男性客が多い。

「今日は、王立軍の方が多く参加してるのね……」

 七歳の頃からレオンと交流があるニーナは、王族の近衛兵だけでなく、王立軍の顔ぶれも把握していた。ぽろっと呟くと、レオンは楽しそうにニーナを見下ろす。

「今日の宴は、ベック侯爵家が主催だ」

「ベック侯爵家……ハンネスさんのお家?」

 ニーナはレオンを仰ぎ、いつもよりも柔らかい彼の表情を珍しいな、と思った。

「ああ。二十歳になっても婚約者の一人も作らないから、両親に命じられ、今日は私の護衛ではなく、宴の主催側になっている。着飾ったあいつを見るのが楽しみだ」

 レオンはくつくつと笑い、上機嫌に会場へ入っていく。彼の隣を歩いていたベルクマン侯爵が、こちらを向いた。

「彼は実直ですから。殿下の護衛で頭が一杯なのでしょうな」

「確かに、職務にばかり集中している感はある」

「ああ、そうそう。私の娘へ髪飾りを贈って下さり、ありがとうございます。殿下から小包が届いた日など、大層はしゃいでおりましてな」

 ベルクマン侯爵にエスコートされていたアメリアが、頬を膨らませる。

「もう、お父様! そんなお話しないで……っ」

 アメリアの髪には、ピンクと赤のリボン、そしてルビーを使った派手な髪飾りが挿されている。前回、ベルクマン侯爵邸を訪れた翌々日に届けられた品だ。

 彼女の趣味をよく把握した贈り物で、抜け目ないレオンらしいとも、彼らしくないとも思った。

 以前なら、彼はニーナ以外の、特定の令嬢に贈り物はしなかったのだ。王家よりという但し書きをつけて贈ることはあっても、自分の名で贈るのは珍しい。

 このところ彼は、アメリアに対してだけ、その姿勢を軟化させる一方になっていた。

 ニーナは静かに嘆息する。

 ――この間は煙に巻かれてしまったけれど、やっぱり早めに婚約は解消しなくちゃ……。

 隣国との国交交渉の材料にしたあとも、隣国の手前、レオンはニーナを捨てはしないだろう。しかしレオンの気持ちがアメリアに向いたなら、離婚はせずとも、彼女との関係を深めるはずだった。

 彼の心移りは、六度も見て来たので、絶対にある。

 五度目まではきっと、政治的な理由があるのだと信じられたけれど、六度目の懐妊で、ニーナはもう、諦めきっていた。

 彼は、政治的な理由ではなく、心が離れたから、ニーナを捨ててきたのだと。

 愛しげに自分の腹を撫で、勝ち誇った眼差しを向けて来た、前世での浮気相手――シンシア。

 自分と睦まじく過ごしながら、他の女性と夜を過ごしていたと知った時の、絶望と嫌悪感は、今も忘れられなかった。

 ――それに……いつも十七歳で殺される運命だもの。もしかしたら、国交交渉が成功すると同時に、事故に見せかけて殺される可能性だってあるわ……。

 毎回、レオンの側近を務める兵などに殺され続けているニーナは、もはや自らの延命に焦点を当てるべきだ、と感じ始めている。

 今後のレーゲン王国の政策方針についても、修正は可能な時期だ。

 隣国とは、これまで国交がなくとも平穏に過ごせていた。国交が開かれなければ、レオンの功績は減るが、現状維持でも問題はない。

 ニーナはレオンとの婚約を解消し、そしてベルクマン侯爵家を出て行くのだ。

 ――どうやって、婚約を解消しようって言えばいいのかな……。

 ニーナが物憂く考えていると、前方から声がかかった。

「ようこそ、お越しくださいました。レオン殿下、ベルクマン侯爵」

 朴訥そうな声に顔を上げると、会場に入ったところで待ち構えていたらしい、レオンの近衛兵・ハンネスが、恭しく首を垂れていた。レオンはニーナから手を離し、彼と握手する。

「お招きありがとう、ハンネス。気合いが入ってるな!」

 レオンは揶揄い交じりに、ハンネスの腕をポンっと叩いた。実に上等そうなエメラルド色の地に、金の刺繍が入る衣装に身を包んだ彼は、居心地悪そうに苦く笑う。

「これを着ろと煩くて、参りました……」

 レオンは朗らかに笑い、彼がベルクマン侯爵らと挨拶をしたあと、ニーナの背に手を添えた。

「ニーナ、ハンネスだ。まだまともに話したことがなかったのだったか」

 促され、ニーナはハンネスに一歩近づく。日に焼けた茶色の短髪に、碧の瞳を持つ彼は、ニーナに視線を向けた。さらりと青い髪が揺れる様を見た彼は、微かに頬を強張らせる。

「あ……ようこそ、ニーナ嬢。どうぞごゆるりと、お過ごしください」

 彼は一瞬言葉を失いかけ、声音を落として挨拶をする。そしてニーナの顔も見ず、手で会場を示し、身を引いた。会場の中へ進め、という仕草である。

 レオンに会話を勧められたにもかかわらず、遠回しに拒否したのだ。ニーナは眉尻を下げ、淡い微笑みを浮かべた。

「……ありがとうございます、ハンネス様。お招きに感謝致します」

 ハンネスはニーナの言葉に口は開かず、軽く首を垂れ、そのまま前を通り過ぎるのを待つ。その態度を見たアメリアが、くすっと口を押えて笑い声を漏らした。彼女はニーナと視線が合っても、目を逸らさない。その目には、相手にされなかったニーナを嘲笑う色が宿っていた。

「……じゃあ、行こうか」

 レオンはふっと短く息を吐くと、ニーナをエスコートして、会場の中へ向かう。

 ハンネスは昔から、ニーナを責めているような険しい眼差しを注ぐ人だった。その目に晒されると、今にも『魔物め』と呟かれそうで恐ろしく、ニーナの方も彼に歩み寄るのを躊躇ってしまうのだ。

 二人を横目に見送ったハンネスは、棘のある眼差しでニーナの青い髪を見つめる。そして、眉根を寄せた。

「……なんだ、あの色は……」

 当人は気づいていなかったが、ニーナの髪先は、一部が黒く染まっていた。


 会場に参加している客人は、軍事関係者が多いからか、次から次にレオンの元に挨拶に来た。軍事関係者は朗らかな者が多く、ニーナにも気さくに話しかける。その内実はわからないが、少なくともハンネス程あからさまな人はいなかった。

「おお。ニーナ嬢! 今宵もお美しい」

「このような美姫のお心を手に入れられるとは、自分もやんごとなき身分に生まれたかったと思わずにはおれません」

「誠に。俺も可愛い奥さんが欲しい」

 冗談交じりに話しかけてくる兵たちに、レオンは片眉を下げる。

「俺が王子だから、ニーナを手に入れられたような物言いだな」

「滅相もございません。殿下の努力には、王立軍一同、感服しております!」

「そうそう。俺たちはずっと見守ってましたからね。殿下が何年もかけて、じっくりゆっくり計画的に外堀を埋――っ」

 レオンはなぜか、話していた兵の口を途中で塞ぎ、にこっと煌びやかな笑みを浮かべた。

「余計な情報は言わなくていい」

「――失礼」

 鍛錬の時間などを一緒に過ごしている、レオンと彼らの間に流れる空気は他と違う。微笑む以外は厳めしい顔が常のレオンも、彼らの前では年相応の少年のようになった。

「ニーナ嬢は弦楽器に興味はおありだろうか? 私の息子がハープを嗜んでおりまして、今宵の宴でも演奏する予定なのですよ」

 いくつかの雑談のあと、そう話しかけてきたのは、王立軍の大将軍を務める、アウグストだ。齢四十八になる壮年の彼は、特に気負いなくニーナにも話しかける気さくな人である。白髪交じりの金髪に、茶色のつぶらな瞳、そして髭。人に安心感を与える鷹揚な話し方をし、剣技の実力もあるため、レオンも彼には信頼を置いていた。

 アウグストの誘いを聞いたレオンは、ニーナを見下ろして、微笑む。

「そう言えば、ニーナが楽器を扱うところは見ていないな。いい機会だから、見てみたらどうだ? 気に入ったなら、講師をつけてあげる」

 レオンが至極当たり前の顔で言い、ニーナはきょとんとした。彼と一緒に過ごす時間はあとわずかだ、と感じていた彼女には、意味のない提案だと思ったのである。しかしレオンや周囲の兵たちがそれを知るはずもなく、アウグストは豪快に笑った。

「おお、それはいい。ニーナ嬢がハープを奏でれば、きっと雅な光景になるでしょうなあ! では早速ご紹介致そう」

 父親が子供を連れていく勢いで手を取られ、ニーナはよろける。

「えっ、あ、その……っ」

「おっと、いかん。大丈夫ですかな?」

 大将軍の大きな手が、よろけたニーナの肩をさっと支え、態勢を整えさせた。ニーナが転ばない姿勢になったのを確認し、彼はまた手を引いていく。

「よし、では参ろう。今演奏しておるので、ちょうどいい。ベック侯爵婦人が、あれの腕を大層気に入っておりましてな」

「そ、そうなのですか……」

 ニーナはレオンも一緒なのだろうか、と視線を向けた。しかし彼は、周囲を取り囲む客人たちに「酒を飲みましょう、酒!」と新たに話しかけられ、ニーナと離れ離れになっていた。彼はちらっとニーナに目を向けると、眉尻を下げ、軽く笑んで手を振る。

 ニーナはどうやら、一人でアウグスト大将軍のお相手をせねばならぬようだった。

「あれがわしの息子です。今年二十一になる」

 指を指して示された、会場の前方で生演奏をしていた彼の息子は、アウグストの息子とは思えぬ、線の細い、色白の青年だった。金色の髪は背中にかかるほど長く、指の動きは流麗。奏でるハープの音は華麗そのものだった。

 音も見事なのだが、奏者をちらちら見る令嬢も少なくなく、ニーナは彼の外見に注目してしまう。伏せたまつ毛が長く、女性かと見まごう美しい人だった。

「私の妻に似ましてな。あんな見てくれだから、男女問わず言い寄られ、当人は苦労しているようです。最近は、楽器はそろそろやめ、軍部に入りたいなどと言っております」

「……そうですか。見事な腕前と存じますが、なさりたいことをされるのが一番でしょう……」

 そう応じつつ、ニーナは大将軍の奥さんはどれだけ美しいのかしら、と想像を巡らせずにはいられなかった。

 一曲分、彼の音楽を聴いた後、アウグストがニーナを紹介し、彼は見た目にピッタリの、物静かな声で応じた。

「初めまして、お会いできて光栄です。貴方が、殿下の選んだ方なのですね……」

 彼はたおやかな笑みを浮かべ、ニーナの顔を見る。

「……見てくれというのは、先入観を与えますから、面倒なものですが――殿下が無理を押される意味が、きっとあるのでしょうね」

 言外に青い髪について言及され、ニーナは眉尻を下げた。

 ――意味ならある。これは、政略的な結婚だ。けれどそれも、大した価値はない。

「これ、ディーター。不躾な物言いをするな。そうじゃ、ニーナ嬢。殿下と一曲踊られてはいかがでしょうかな。今宵はまだでしたろう」

「あ、はい……」

 ニーナは、そういえばまだ一曲も踊っていない、と会場に目を向けた。しかし見渡しても、レオンの姿はない。

 ディーターが、静かに言った。

「先ほど、殿下が庭園へ向かわれる姿を見ましたよ……。貴女と同じくらいの背丈の、ハニーブロンドの髪の少女と一緒に。あれは恐らく、アメリア嬢でしょう」

 ニーナの頬がさっと強張り、大将軍が気まずそうな顔になる。

「あー……何、ダンスならいつでもできましょう。なんなら、わしの息子にお相手をさせても」

「……どうぞ、殿下の元へお行きください、ニーナ様。私はまだ演奏をせねばなりませんので」

 大将軍の下手なフォローをスパッと切り捨て、彼の息子はニーナに微笑んだ。

「見て見ぬ振りなど、できぬでしょう?」

 彼はニーナの心を見透かす言葉を吐いて、またゆっくりと、ハープを奏で始めた。


 一緒に参ろう、という大将軍の気遣いを断って、ニーナは一人で庭園へ向かった。外は、冷えた空気に包まれていた。

 宴会場脇に設けられたテラスや庭園にいる人は、まばらだ。宴は始まったばかりだから、これが普通である。人いきれで頬が火照り出す、宴の中盤以降になって、参加客は外に出て空気を吸うのだ。

 外灯で照らされた庭園は、咲き乱れる花々と木立、そして像などで整然と整えられていた。さっと見渡した中に、レオンの姿はなく、ニーナは花の匂いに満ちた庭園を、緩やかに歩き始める。

 嫌な胸騒ぎがして、歩みを進めたくなかった。けれど、この目で確認しなくては、安心できない。

 ――アメリアと、二人きりで外に出たの……?

 レーゲン王国では、婚約もしていない男女が二人きりで過ごすのは、よしとされていなかった。それは男女関係にあると判断されても仕方のない行為で、偶然でも二人きりでいる場面を他者に見られたら、互いの名誉のため、婚姻せねばならないくらいだ。相手の男性が既婚なら、浮気相手だとみなされ、悪い噂が広まる時もある。

 いくらニーナのいとこで、幼い頃から一緒に過ごしていたとしても、二人きりで過ごすのは外聞が悪い行動だった。

 庭園の少し奥、木立が林立する場所に差しかかり、ニーナはこくりと喉を鳴らす。そこは外灯の光が遮られ、薄暗くなっていた。ニーナは騒ぐ胸を手で押さえながら進み、そして丈の高い花が足元で絡んで、視線落とした時、微かな声を聞いた。

「……ゃ!」

 小さくて聞き取れなかったが、それはアメリアの声だと、即座にわかった。悲鳴のような声に感じられ、ニーナは急いで花をかきわけ、その奥に進む。

 そして、花園の中に、アメリアとレオンを見つけた。

 さああ、と冷たい風が吹き、ニーナは呆然とその光景を見つめる。

 アメリアは、レオンの腕の中にいた。彼はアメリアの腰に両手を回し、半ば覆い被さるような恰好で、アメリアにキスをしていた。風が彼とアメリアの髪を乱して絡み、レオンの肩に触れていたアメリアの手が、ぴくっと動いた。

 彼の肩越しにこちらを見たアメリアは、瞳を大きくし、レオンも振り返る。ニーナと視線が合った彼は、明らかに、動揺で目を見開いた。

「……ニーナ……っ」

 ニーナは眉尻を下げ、笑う。

 ――ほらね。やっぱり……運命は変わらない。

 ニーナは踵を返し、宴会場に向かった。人目を忍んでキスをしていた、本物の恋人同士の邪魔をしてはいけない。

「――待ちなさい、ニーナ!」

 ――待たない。

 視界は熱い涙の膜で覆われ、すぐに雫が頬を伝い落ちた。彼女は歯を食いしばり、前だけを見据える。

 ――レオンが他の女の子に惹かれる運命は変えられない。きっとニーナじゃ、ダメなのだ。

 どんなに王太子である彼に相応しくあろうと勉学に努めても、礼儀作法を身に着けても、何も変わらない。

「ニーナ……!」

 傍近くで名を呼ぶ声が聞こえ、強く腕を掴まれた。

「……っ」

 ニーナはすでに宴会場の手前――テラスまで来ており、辺りにいた人々がざわめいて視線を集中させる。

 強引に振り返らされたニーナは、涙を零しながら、レオンの顔を見た。

 レオンは青ざめ、両腕でニーナの頭を抱え込む。

「――ニーナ、落ち着きなさい。違うんだ。誤解するな……っ」

 彼らしくなく、まくしたてられ、ニーナは唇を噛んだ。

 ――何も違わない。レオンは人気のない庭園で、アメリアとキスをしていた。

「離して……! もういいの……っ」

 ニーナは渾身の力でレオンの胸を押し退け、身を離す。

 焦っているレオンの顔を睨みつけ、ぽろぽろと涙を零しながら、首を振った。

「もう、婚約は解消しましょう、殿下。私は、貴方に相応しくないのです……!」

「――何事だ」

 その時、テラスに面した宴会場の扉が開き、ニーナはびくっと肩を震わせる。それは、ベルクマン侯爵の声だった。騒ぎを起こした自覚があるニーナは、咄嗟に折檻を恐れ、口を押えて彼を振り返る。

 油で塗り固めた金色の髪に、口ひげを蓄えた彼は、庭を見渡し、驚いた。彼が予期する前に、その腕に彼の娘・アメリアが飛び込んだからだ。

「おっと、アメリア。どうした」

「――どうしようお父様。私、レオン殿下とキスをしてしまったわ……っ」

 声高くキスをした事実を報告し、アメリアは恥ずかしそうに父の胸に頬を擦りつける。王太子の不貞を、宴の参加者に告げるような行動に、ニーナはすうっと全身から血の気を失った。

 これで完全に、レオンはアメリアに責任を取らなくてはならなくなった――。

 ニーナがそう思った瞬間、真横から恫喝にも似た声が上がる。

「――アメリア‼」

 アメリアはびくっと肩をすくめ、彼を振り返った。ニーナも、女性に向けて怒りを露にした声を上げるレオンは初めてで、驚いて目を向ける。

 レオンは鋭い眼差しをアメリアに注いでいた。

「いい加減にしなさい。君の我儘に付き合って、庭園に出たのは確かだが、誤解を招く発言はしてはいけない」

 自分には甘い笑顔しか見せてこなかったレオンの怒りを見て、アメリアは涙ぐんだ。

「だって……っ」

 アメリアは瞳を揺らし、救いを求めるようにニーナを見る。そして彼女は、大きく口を開けた。ニーナを指さし、驚愕の表情で言う。

「何……その、髪……?」

「え……?」

 意味がわからず、ニーナは自分の髪を見下ろす。胸の上で、漆黒に染まり上がった髪が、風に揺れていた。

 ――何……これ……。

 ニーナは心の中で不思議に思い、同時に上がった悲鳴に、びくりと飛び上がった。

「いやああああ――! 化け物だわ! 髪の色が変わった! あの子やっぱり、魔物だったのよ‼」

 アメリアが上げた悲鳴を皮切りに、あちこちから悲鳴が上がり、ニーナは呆然とする。

 顔を上げると、庭園にいた客たちは「呪われる……!」と叫んで会場内へ走り、ベルクマン侯爵が声を張った。

「護衛兵をここへ――! 魔物を捕らえよ‼」

 つい数時間前まで、姪として共に過ごしていたニーナを、危険動物でも捕らえさせるような物言いで命令を下している。

「くそ……っ」

 バサッと頭に何かが被せられ、ニーナは誰かの背に隠された。震えながら、ニーナは彼の背を見上げる。ニーナに上着をかけたレオンが、目の前に立ちはだかり、会場から流れ出てくる兵たちを一喝していた。

「――下がれ‼ 何人たりとも、彼女に触れるは許さん‼」

「殿下、お離れ下さい! 危険です!」

 声を上げたのは、ハンネスだ。彼は剣を抜き、レオンの背後にいるニーナ目がけて、駆け寄ろうとする。が、その腕をガッと掴む者があった。

「待たぬか。殿下は下がれとご命じだ」

 それは、ついさっきまでニーナと話していた、王立軍の大将軍・アウグストだった。

 ハンネスは気色ばむ。

「しかし、あれは魔物です! はやく殺さねば、殿下が呪われてしまうやも……!」

 レオンが苛立たし気に吐き捨てた。

「彼女は魔物ではない!」

「――殿下は、騙されているのだ! はよう殿下を奴から引き離せ!」

 ベルクマン侯爵が声を上げ、ニーナはまたびくっと体を震わせた。何度も繰り返し受けた、ベルクマン侯爵からの折檻を思い出し、驚きのあまりとまっていた涙が、また込み上がってくる。

 ベルクマン侯爵の折檻は、痛くて痛くて、怖くて仕方なかった。でもきっと、これから起こるのは、もっと痛くて、苦しい拷問だ。

 何度も死んでは転生したニーナは、知っている。王太子を誑かし、騙した罪は、命を持ってあがなわねばならなかった。しかし今世では、きっとすぐには殺してくれない。

 ベルクマン侯爵のことだ。いたぶるだけいたぶりつくしてからでないと、死なせてくれないだろう。

 ――私、もう痛いの、嫌だよ……。

 ニーナは涙を零し、しゃくり上げだしていた。ざああ、と大粒の雨が降り始め、彼女の泣き声に気づいたレオンが振り返る。

「嫌だ、雨まで……っ。あの子のせいよ、きっと! 変だと思ってたもの。あの子が悲しそうにすると、天気が悪くなるの。あの子、魔力を持っているわ! 私たちを呪おうとしているのよ‼」

 アメリアが甲高く叫び、ニーナと向き合ったレオンは、その表情を見て顔を歪めた。

「……っ。ニーナ、泣くな。大丈夫だ、俺が……っ」

 彼が何を言っているのかも、ニーナはよくわからなかった。動揺し、混乱した彼女は、子供のように泣きじゃくりながら、思う。

 ――もう見たくない。レオンが浮気をする姿も、私を厭う人たちの目も。

 彼女は震える声で、呟いた。

「……私……お父様の国に行きたい……っ」

「う――っ」

 刹那、ごうっと凍えそうに冷たい強風が一同に吹き付け、あまりの勢いに彼らは顔を伏せる。

「……かしこまりました」

 中性的な声が、背後から聞こえた。ニーナの腹に、するっと長い腕が回る。背中に体温を感じ、ぎこちなく振り仰ぐと、いつか会った、白色の貫頭衣に身を包んだ緋色の髪の青年が、ニーナを後ろからそっと抱きかかえていた。

 目を開けたレオンが、声を荒げる。

「貴様、何者だ! 彼女に触れるな!」

 レオンの声で顔を上げた人々は、また口々に悲鳴を上げ始めた。

「今度は血色の髪の男が現れたぞ……!」

「何をしておる! あの男ともども、はよう斬り捨てよ!」

「待てと言っているだろう! 控えぬか!」

 煽る者と制する者、そして怯える者の声が飛び交い、場は混とんを極めた。

 緋色の髪の青年は、静かにその光景を見渡してから、レオンに視線を戻す。抑揚のない声で、呟いた。

「我が名はデニス……。姫の求めに応じ、お迎えに上がりました」

 彼はニーナを見下ろし、涙を零し続けている彼女の両目をそっと手で塞いだ。

「転移致します故、今しばらくお眠りください……」

 視界が真っ暗になり、ニーナはかくりと彼の腕の中で気を失った。デニスはそれを確認し、レオンに頭を下げる。

「それでは……」

 言うや、彼の体と一緒に、ニーナの体もすうっと消え始めた。レオンは愕然と目を見開き、声を上げる。

「――待て! 待て、やめろ……! 連れていくな……‼」

 デニスは消えつつ、薄く微笑んだ。

「……貴方は私の主ではない故、お聞きできない」

 そうして彼は、ニーナを連れて消えた。忽然と、跡形もなく。

 会場には再び悲鳴が上がり、レオンはその場に立ち尽くす。

 雷鳴轟く遥か上空には、雨に濡れながら一連の騒動を冷えた目で眺める、銀糸の髪の男――ギードが浮かんでいた。


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