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フェアリーキスピュア様よりその後のお話を書き下ろして書籍化!(同タイトル)
※本作品はWeb上では小説家になろう様でのみ掲載中です。無断転載および無断翻訳は固くお断りいたします。
大病を患い、王が政務から退いて二年。王国の玉座には、王太子・レオンが腰を据えるようになっていた。
齢十八という若さで、彼は既に国政を掌握しており、誰もが彼の戴冠を待つばかり。
そんな折、彼は自らの婚約者と高官らを謁見の間に集め、驚きの言葉を吐いた。
「婚約者を挿げ替える。私の婚約者を、ニーナから、バーナー家のシンシアへと」
一堂に会した高官らはにわかにどよめき、彼の足元――玉座の数段下に設けられた赤い絨毯の上に膝を折っていたニーナに視線を集中させた。
ニーナは、愕然と目を見開く。
レオンと婚約して二年。仲睦まじく過ごしてきた記憶しかない彼女は、レオンの言葉が信じられず、許しも得ず顔を上げた。
見上げた彼は、艶やかな漆黒の髪の隙間から、冷え冷えとした眼差しを彼女に注いでいた。
「――……な、なぜですか、レオン様……? 何か、問題が生じましたか?」
咄嗟にニーナが考えたのは、政治的な問題だ。ニーナの生家・クラネルト家は伯爵位で、王国内での立ち位置は弱い。対してバーナー家は現宰相の家であり、十二分に王家を支えられる家格であった。ただしバーナー家は、長く王家が貫いてきた民に献身的な政を嫌う、強硬派だ。より税を増やし、民はもっと政へ貢献するべしと声高に訴える一派の筆頭である。
膝を折るニーナの両脇に控えていた高官らは、婚約破棄よりも、王家の方針転換の方に動揺した様子だった。
レオンは軽く首を傾げ、つまらなそうに応じる。
「問題はない。ただ、私がお前に飽いただけだ。王家の指針は変わらぬ。これまで通り、王家は民を第一に考えて国を治める」
その言葉に、多くの官吏らがほっと胸を撫で下ろした。玉座の最も近くに控えていた宰相だけは、微かに面白くなさそうだ。
しかし、長く自身の娘を婚約者にと秘密裏に王太子に迫ってた彼は、溜飲を下げた顔で、ニーナに冷笑を向ける。
「残念であったな、ニーナ嬢。これも其方が努力を怠ったがためであろう。我が娘は、殿下のお気に召すよう、化粧にドレスにと、常に懸命だ」
嘲りを含んだ宰相の言葉は、ニーナを傷つけはしなかった。化粧にドレスにと、令嬢らしい愛らしさを追求する令嬢を、レオンは望んではいなかったからだ。彼は王国の未来のために学び、慎ましやかに、けれど強かに政にも対応できる、聡明な女性を望んでいたのである。
幼少期に出会って以来、彼を慕っていたニーナは、聡明な少女に成長していた。レオンもそんな彼女を認めて、数か月前にニーナを婚約者に置いたのだ。
「レオン様……理由をお教え下さい」
先だってレオンが吐いた言葉が真実だとは思えず、ニーナは重ねて尋ねる。
ニーナと顔を合わせれば甘く微笑み、優しく接してくれていた王太子は、これまでの日々が嘘のように、端的に応じた。
「何度も言わせるな。お前との婚約は破棄する。父親の領地・タオに下がるがいい。二度と王都へは来るな、ニーナ」
「――」
ニーナはひゅっと息を呑み、言葉を失う。既に政を掌握しているレオンの言葉は、王命に近かった。それは明確な、絶縁の言葉であった。
突如捨てられる結果となったニーナを、高官らは憐憫の眼差しで見つめる。ニーナは震えながら、視線を床に落とした。時を置かずして視界は涙で歪み、大粒の涙が頬を伝い落ちる。
わけがわからなかった。つい先日まで、仲睦まじく過ごしていたのに、どうして今日になって、ニーナをゴミくずのように捨てようとするのか。
聡明で思慮深かった王太子は、突如、豹変してしまっていた。
ニーナは両手で顔を覆い、声を殺して泣く。謁見の間はしんと静まり返り、彼女の嗚咽だけが響き渡った。
「――愛して、おりましたのに……」
震える声で、ニーナは彼への気持ちを吐き出す。その言葉を聞いたレオンは、眉を顰め、視線を逸らした。
「……つまらぬ言葉を残すな。下がれと言ったぞ、ニーナ。お前は二度と、ここに来てはいけない」
レオンの声は微かに揺れ、掠れていた。
――どうして?
受け入れ切れず、ニーナが顔を上げた時、きい、と謁見の間の扉が開いた。レオンがちらりと目を向け、ニーナも振り返る。
扉を開けて入室したのは、鮮やかな赤の染料で染めた、豪奢なドレスに身を包む、バーナー宰相が愛娘・シンシアだった。
はちみつ色の髪に、栗色の瞳を持つ、愛らしい見た目の少女だ。
シンシアは、ニーナと同じく、レオンを慕う少女の一人だった。レオンは魅力的な王太子で、多くの貴族令嬢は彼に恋をしていたのである。だがレオンがニーナとの婚約を発表し、多くが彼を諦めた。ニーナほど聡明な少女は、この国にはいなかったからだ。
だがシンシア一人だけは、婚約後もレオンにアプローチをかけ続けていた。
その事実を知るニーナの心に、僅かな疑念がよぎる。
「シンシア様……」
涙に濡れた頬をそのままに、ニーナは彼女を呼んだ。謁見の間に入ってから、ずっとレオンを見つめていた彼女は、名を呼ばれ、初めてニーナに目を向けた。
ニーナと目が合うと、彼女は悲しそうに眉尻を下げながらも、溢れ出す愉悦を隠そうともせず、口角を上げた。
「……ごめんなさい、ニーナ様。殿下を取るような真似をして……。でも私のお腹には、殿下とのお子がいるの。だからどうぞ、貴方は身を引いてちょうだい」
「――」
ニーナは瞠目し、声を揺らして呟く。
「……殿下との、お子が……?」
シンシアは愛し気にまだ平らな自身の腹をさすり、勝者の笑みを浮かべた。
ニーナは呆気に取られ、レオンを振り仰ぐ。
レオンは微かに瞳を大きくし、動揺した様子だった。
「……私との婚約中に、他家のご令嬢とお子を成したのですか、レオン様……?」
確認のため口にした内容は、言葉にすると、酷くおぞましい。
ニーナは我知らず、嫌悪を顔に載せていた。
――これは、不貞である。
国一番に聡明で美しい少女に、汚らわしいものを見る眼差しを向けられ、レオンは虚を突かれた表情になった。
「いや、これは……っ」
彼は何事か、言い訳を口にしようとしたが、訳知り顔の宰相が割って入る。
「殿下にお手を出す気にもさせなかった小娘が、何を非難めいた眼差しを向けるか。殿下が子を作ることは、王家の将来にとっても重要な職務の一つ。既に婚約者ではない其方に、殿下を責める権利などない。はよう下がれ! 命に背けば、牢へ入れるぞ!」
王太子と自らの娘は一切悪くないと言わんばかりに、宰相はニーナを追い払った。
ニーナはレオンをもう一度見つめる。彼はもの言いたげにニーナを見下ろしたが、ふいっと視線を逸らし、ため息交じりに言った。
「下がれ、ニーナ。二度と私の前に現れるな」
ニーナはそれまでの愛情が、一気に冷えるのを実感した。
「……かしこまりました、レオン殿下」
首を垂れ、レオンに最後の挨拶をする。
「これまでのご厚情、誠にありがとうございました。どうぞシンシア様と、末永くお幸せに」
「……」
レオンは何も返さず、ただため息を零した。
自分という婚約者がありながら、他家の令嬢と閨を共にしたレオン。
それは、ここに集う高官らが想像するよりもずっと、下劣な行いであると彼女に認識させた。
愛していた人は、彼女と睦まじく過ごす一方で、他の女性と肉体関係にあったのだ。考えるだけで浅ましく、彼が低俗な人間に感じられた。
ニーナは玉座に背を向け、扉へ向かう。シンシアが妖艶な微笑みを湛え、すいっと扉前から脇に避けた。その笑みさえ、汚れて見える。
ニーナはシンシアには目もくれず、扉に手をかけた。
――二度と戻らない。
決して振り向かぬ、強い意志を湛えたその背中に、声がかかった。
「…………ニーナ」
どこか寂しげな声に、ニーナの足がとまる。それは自分を乞うているかのようで、ニーナはつい、振り返った。
玉座に腰を据えたレオンが、かつてと同じように、ニーナを愛しげに見つめ、ぽつりと零した。
「――愛していたよ」
「――」
不意の告白に、ニーナは瞠目する。冷えていたはずの胸に、熱いものが込み上げ、ニーナはまた、涙を零した。
まだそこに、自分を愛してくれている聡明な王太子がいる気がして、嗚咽が漏れた。
――どうして、そんな言葉を残すの……?
彼の真意は欠片もわからず、ニーナは身を翻す。レオンの望む通り、王都を離れ、領地へ戻るために。
それから、彼女は生まれ故郷・タオで数か月、両親と共に静かな生活を送った。だがある日、国王軍が家を取り囲み、彼女は一家もろともその場で殺される。
王太子の暗殺を計画したという、身に覚えのない罪を着せられ、討伐されたのだ。レオンの側近であった一騎士に、弁明の余地も与えられず、心臓を一突きにされて。
――齢十七。王太子に恋をし、一度は婚約者となった少女の人生は、残酷なまでにあっけなく幕を閉じたのだった。
「……最っ低……」
ぱちりと目を覚ますと同時に、ニーナは機嫌悪く呟いた。
王都中央近くにある、ベルクマン侯爵邸の一室である。
二階に設けられた彼女の部屋には、シングルベッドと、鏡台、そしてチェストが一つあるだけだ。床にはふわふわの絨毯が敷かれているが、元は簡素な板張りであり、これはごく最近設えられた。
ニーナには一切無駄な出費をしたくない叔父・ベルクマン侯爵も、王太子が出入りするようになるとあっては、対面を気にして、それなりに彼女の部屋を調えたのである。
板張りの壁に急きょ張られた壁紙は、趣味の悪い大輪の薔薇模様。質素なベッドフレームを隠すために置かれた天蓋は、変に分厚いビロードで覆われ、下ろすと息苦しささえ感じる。
全ては、つい数週間前に王家より通達された、婚約通知書が原因だった。
レーゲン王国の王太子・レオンは、ベルクマン侯爵の姪・ニーナを、婚約者に指名したのだ。
自身の愛娘・アメリアこそを婚約者に、と望んでいたベルクマン侯爵の悲嘆は隠しようがなく、彼はなんとかして考えを改めるよう、説得を試みていた。
内務大臣であるベルクマン侯爵は、愛らしさ、教養、血筋、どれをとってもニーナよりもアメリアの方がふさわしいと訴える。
しかしそれを聞いた王太子は、ベルクマン侯爵家で養われているニーナもその条件は備えており、問題はないと言った。そして逆に、なぜそれほどニーナではいけないのか、と尋ねる。
いくら言っても考えを改めない王太子に、ベルクマン侯爵は我慢ができず、本心を述べてしまった。
ニーナは隣国・『霧向こうの国』の穢れた血を引く、忌むべき妖精の娘だ、と声を大にして答えたのだ。
『霧向こうの国』とは、正式にはネーベル王国という。
それは、国境に大きな門があり、尚且つその門は常に深い霧で覆われている、レーゲン王国とは国交がない国だ。国民は皆が妖精の血を身に宿す、魔法使いばかりだと言われている。
誰も入国できない国の実情を知るすべはなく、この話が事実かどうかは、定かではない。
だが魔力を持たない人間にとって、未知の力を持つ者は、本能的に恐ろしいのだろう。
魔力を持たないレーゲン王国の民は、隣国民を嫌悪し、魔物が住む国だと、実しやかに語り継いでいた。
そんな中、どこで出会ったのか、ニーナの母は、隣国出身の青年と恋に落ちた。そして家族の反対を押し切って、その青年と結婚し、ニーナをもうけたのである。
隣国は魔物が住む国だと信じているベルクマン侯爵は、隣国の青年と結婚した妹と絶縁した。けれど妹夫婦がレーゲン王国で事故死し、憲兵にニーナの引き取りを促されて、渋々彼女を受け入れたのだった。
国民の多くが隣国を恐れている以上、ニーナは王太子妃に相応しくない。
ベルクマン侯爵がこう声を上げると、レオンは酷く不快そうに顔を顰めた。
『未知のものを恐れる感情は、理解する。しかし人の姿かたちは、神の御意向あってのものだ。人は皆、神の祝福の元、この世に生まれる。誰一人として穢れた者などない。貴殿は我が国に伝わるこの信仰を、否定なさるか』
レーゲン王国に伝わるアルメヒティヒ神信仰の中にある、神の祝福に関する項目を否定するのか、と問われれば、ベルクマン侯爵に反論の余地はない。
王家は、民の不安を承知の上で、ニーナを婚約者にすると決めていた。
広大な領地を治めるレーゲン王国は、王家に近しい者になるほど、隣国への恐怖心や忌避感は薄く、その感覚に差がある。
王家はこれを、隣国への認識を改めるよい機会にしようとも考えていたのだ。
そう諭されたベルクマン侯爵は、それ以上抗う術を持たず、一つだけ条件を出して、ニーナとレオンの婚約を泣く泣く了承した。
ネーベル王国は、十六歳で成人を認めるレーゲン王国と違い、十八歳が成人年齢であるため、結婚は彼女が十八歳になる一年と少しあとまで待って欲しいと頭を下げたのである。また、十八になった暁に当人の意思を問い、望めばベルクマン侯爵家の籍に入れるとも。
国交のない隣国の制度について、レーゲン王国は承知していなかった。ベルクマン侯爵の言が事実であるか確認はできなかったものの、王家は彼の顔を立てる形で、その要求を呑んだ。
ニーナとレオンの婚約が確約されたその夜、ベルクマン侯爵は酷く憤り、ニーナを折檻する。
家人らを全て下げ、彼女を地下室に引きずっていき、怒りを爆発させた。
頬は腫れ、全身に痣ができた彼女は、しばらく外出できなかった。レオン自身が対面を求めても、体調不良だと言って、ベルクマン侯爵は彼女の傷が癒えるまで、誰にも会わせない。事実体調不良で寝込んでいたのだから、ベルクマン侯爵の顔に焦燥はなかった。
折檻の最中、気を失ったニーナは、三日三晩寝込んだ。そしてたった今、目を覚ましたところである。
彼女はのそっと上半身を起こし、古びた木枠のヘッドレストに背を預けた。きい、と木が軋む音を立て、彼女の枕元で眠っていた白猫が、ふと顔を上げる。
――起きたの? おはよう。
とでも言っていそうな調子で「なー」と鳴き、ニーナの愛猫・シュネーは膝の上に上ってきた。
シュネーは、両親が亡くなった直後に現れた雌猫だ。
葬儀の場で泣いていたニーナを慰めるかのように、どこからともなく現れて、以来ずっと傍を離れない。
ベルクマン侯爵は猫などいらぬと何度も彼女を捨てたが、どんなに遠くに放しても、彼女はニーナの元に戻ってきた。辺境まで捨ててこさせても戻るため、シュネーを気味悪く感じたのか、ベルクマン侯爵は今や、彼女を見えないもののように扱っていた。
シュネーは上半身を起こし、じゃらしで遊ぶように、ニーナの長い髪をちょいちょいと弄る。
愛らしい愛猫の仕草に、ニーナは瞳を細めた。
窓から明るい光が差して、彼女の横顔を照らし出す。天蓋は降ろすと息苦しくなるため、柱に括りつけたままだ。
鮮やかな水色の髪が光を弾き、澄んだ青色の瞳はサファイアが如く、より深い色となった。
伏せた瞼を覆うまつ毛は長く、その肌は白磁のような白さ。鼻は愛らしく小ぶりで、唇はふっくらと柔らかそうだ。
ニーナは、華奢な肢体と、見事なまでに整った造作が印象的な、誰もが認める美少女であった。
王太子・レオンの心を奪うのも納得の、美貌である。
しかし彼女は、その美しさを鼻にかけなかった。
彼女のような青い髪の人間は、レーゲン王国には一人としていない。『霧向こうの国』の人間によくある髪色らしく、ベルクマン侯爵は彼女の髪を見ては、毎日のように醜い娘だと罵るからだ。
毎日外見を否定されては、自信など持ちようがなかった。
彼女はその青い髪を耳にかけ直し、今しがた見た夢について、小さな声でぼやく。
「……酷い話よね。なあに、あれ。……他の女の子に手を出しておいて、別れ際に愛の言葉を吐くなんて、最低最悪よ……」
ベルクマン侯爵に折檻されている最中に気を失ったニーナは、眠っている間、奇異な夢を見ていた。
否、彼女自身だけは、それが夢ではないのだとわかっている。
何せ、これでもう七度目だ。
「なーう……」
シュネーがニーナの顔を覗き込み、鼻でキスをしてきた。しなやかな彼女の体をするりと撫で、ニーナは眉尻を下げる。不快感と共に目覚めながらも、夢の断片を思い出すと、彼女の心は潰れるように痛み、瞳に涙が滲んだ。
愛しい人を奪われる記憶。
――どうしていつもいつも、婚約の後に思い出させるの……。
ニーナが夢に見た映像――それは何度も繰り返した、前世の記憶だった。
拙作をお読みくださり、ありがとうございます。
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コンスタントに更新していく予定ですので、お読みいただけますと幸いです。
また、現在フェアリーキス様より
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