プリンス
やけに肉厚な男の背中が見える。
暗い部屋の中、デスクトップ型のパソコンのディスプレイが青く光って僅かな周囲を照らしている。
ごたごたとした部屋の中。
床に棚に溢れているものは、フィギュア、漫画、アニメDVD……暗がりで見えにくいけれど、壁にはべたべたと少女アニメのポスターが貼ってあるようだ。
「ラブリーガール☆レイチェル」
アニメのタイトルがちらりと見える。
不本意ながら、記憶にある名前だ。
(それ見たことあるわ……)
ヒキコモリニートになりたての時、近所のレンタルショップで借りまくった、アニメやらドラマのDVDの中に、そのタイトルがあったと思う。
なぜそのアニメを選んだのか――今となっては謎だ、当時の絶望しまくっていた自分に問いただしたいものだ――確かそれは、ごく普通の女の子が、実はミラクルワールドのプリンセスであり、異次元世界の闇と戦うために魔法の武器を駆使する話だった。
あらすじとしてはそんなものだが、絵柄が物凄くロリっぽい。ロリ顔のくせに、バインバインのボンキュッボン。
主人公のレイチェルが慕っている男は、ご近所の冴えない幼馴染君――本当はデキル彼なのに、不器用すぎてどこか上手くいかない彼に、レイチェルが尽くしまくるという設定だ。
「わたしが戦うのは世界を救う為じゃない、愛する人のため」
というのが決め台詞。変身シーンがやたら厭らしい。
どうやらこれは、女の子向けじゃなくて、男の子、それもおっきい男の子向けのアニメだぞと気づいて、観るのを止めた。
かちゃかちゃとパソコンをいじっている、たるんだ体の男。
こいつは、その「レイチェル」を愛してやまないらしい。ごちゃごちゃ溢れている厭らしいフィギュアは、どいつもこいつも「レイチェル」じゃないか。
ストレートの金髪をなびかせ、紫の瞳を輝かせた少女。
プリンセス仕様の衣装は薄ピンク、レースのヒラヒラ。あれ、どっかで見たことがあるなこのコスチューム。
わたしはぎょっとする。
フィギュアが纏う姫衣装こそ、さっきまでわたしが着せられていたピンクのヒラヒラなのだった。
他にもいろいろなバージョンがある。
下着姿やら、夜会服やら、ちょっとアレンジが入ったピンクのドレスが何種類か。
なにか、読めた気がする。
マジカルジョークワールドのプリンセスのセンスは、まんま「レイチェル」から流れている。
ドレスのデザインでピンときた。
わたしは、じいっとパソコン男を見つめる。
今わたしは、上から覗き込むようにして、パソコン男の部屋を俯瞰している。
きったねえ部屋だ、わたしはよく知っている。
この湿気、空気のこもり具合、埃の溜まり方、ものの散らかり方。だいたいヒキコモリが二週間くらい続けば、余裕でこれくらいの境地に至る。
汚いのが気にならなくなるのだ。
ゴミをゴミだと思えなくなる。感覚がおかしくなるんだよね。よおく分かる。
(まあわたしの場合は、地獄絵図になる手前でオカンが部屋に乱入してきたからなあ)
「ちょっとあんたっ、あんたの部屋からうちが腐り始めるじゃないかっ。臭い臭いっ。汚い汚いっ。そうれ布団、黴が生えてあんたも黴人間になるっ、せっかくここまでデカく育てた子供が黴塗れっ、ふざけんじゃないわようおりゃあああっ」
どべらーん、ばふんばふん。
わたしが布団に立てこもっているのにもお構いなし。窓を全開し、敷布団ごと掴むと、ぶわっさぶわっさと振って埃を飛ばしまくる。鬼かあんたは。
ごろごろどすん。無気力無表情、半開きの目で、こけしのように畳に転がり壁にぶち当たっても身動きしないわたし――寒かった、はぎ取られた布団が恋しかった――そうだよ、ヒキコモリには、布団が臭くなるのだってある意味快感なんだ。
自分の匂いで満ちているんだもんね。ナワバリみたいな感じだろうか。
「これがプリンスよー」
幼女のようなアニメ声が、耳元でキャピキャピと囁いた。
プリンス。
わたしは眉をひそめる。
どいつのことか。まさか、このパソコン男のことなのか。プリンス。
「昔はね、もっと痩せていて、イイ男だったのよお」
アニメ声はキャピキャピと続ける。それにしても耳障りな声だな。
「安心して。ダンスパーティに現れるのは、今の彼じゃなくて、イイ男だった頃のプリンスだからねえ」
……。
は。
ダンスパーティ。
そうだ、メイドさんは確か、今夜はダンスパーティがあると言っていた。オカンの顔した女王陛下も、ダンスパーティに備えてよく休んでおきなさいと言っていた。
(一体なんのためのダンスパーティだ)
今更ながら、わたしは戸惑う。
城でダンスパーティが開催される目的なんて、昔から一つしかないじゃないか?
つまり、プリンセスの結婚相手を決めるため。
候補者がわらわらと集い、プリンセスに迫りまくる。だけどプリンセスが選ぶのは一人だけだ。
すなわち、プリンス。
もう何日洗っていないんだろうと思う程、垢じみて汚い黒のジャージ。
丸々と肉がついた背中と、肉の中に沈み込んだ首。
ぼっさぼさでフケだらけの髪の毛。
かちゃかちゃと、一心不乱にパソコンに向かってなにかやっている。
「あったまイイんだよ、プリンス」
アニメ声が、誇らしげに言った。
「有名大学出てるしね、マジカルジョーク社の開発部にいた時は、将来有望株だったもん。凄かったんだよー」
有名大学。マジカルジョーク社の開発部。
なるほどなるほど。だけど、なんで過去形なんだ。
かちゃかちゃ。かちゃかちゃ。
ヒキコモリニート君は、汚い部屋の中に、みっともなく太った体を沈み込ませ、必死にパソコンをいじっている。
まるで、何かから目を逸らそうとしているかのようだ、と、わたしは思った。
病的な必死さだ。せめて部屋の電気位つけようぜ。
「この人一体なんなの」
思わずわたしは聞いてみた。
声を出しても、パソコン男の耳には届いていないようだ。無言でカチャカチャとパソコンをいじり続けている。
「彼は……ね」
幼女アニメ声が、いきなり不安定になった。ぼわんと浮いたり沈んだり。
わたしもぼうっとしてくる。
なにか、たまらなく心もとなくなる。
ぐいぐいと上に浮上して行くような。問答無用の力が働いている。
ああそうか、わたしは今昼寝中で、そろそろ目覚めようとしているんだと気が付いた。
その時、パソコン男がいじくるデスクトップ型のスピーカーから、優雅な音楽が流れ始めた。
クラシックだ。
はっと目が覚めた時、そこはプリンセスルームの天蓋付きベッドだった。
お昼寝タイムは終わりらしく、リラクゼーション音楽ではなく、クラシックが――夢の中で、プリンスの使うパソコンのスピーカーから流れていたのと同じ曲だ――静かに流れている。
ぼうっとしていると、「創造主なの」と、聞こえて来た。
幼女アニメ声が耳元でささやいている。小さい冷たい手が頬に触れていて、目だけ動かすと、真っ青なガラス玉の瞳と、かっきりと視線が合った。
ベージュのドレスを纏う、高級ビスクドール。
微笑んだ表情のままで、「彼女」は言った。
「プリンスは、マジカルジョークワールドの創造主。現実世界とこっちを行き来したいなら、プリンスに接近するしかないのよー」
微かに表情が動いている。このビスクドール生きている。
(気色が悪い)
「あんたは一体」
とりあえず聞いてみた。
ビスクドールは、青い目をゆらゆら動かしながら、ちょっと頬を赤く染めやがった。照れるところか。
「わたしはリモコンなのよー。こっちの世界の仕様になってるのよー。プリンセスの案内役ってことになってるのよー」
ねっ、だから、壊れたと思ったら、叩いて振って投げていいのよおん。いつもそうしてたじゃない、ねっ、ねっ、ほらっ、ねっ。
(マゾ体質だったんか、うちの部屋のテレビのリモコンは)
たまに反応が悪かったのは、あれは、叩いて欲しかったからなのかい。