戦い開始
アリスはうさぎの穴に落ちて、不思議の国に行った。
だけど、現実に帰る時は、うさぎの穴なんか関係なかったんだよな。
「戻りますよー」
と、いう、ツアーの案内係さんみたいな掛け声が聞こえたかと思ったら、画面がぐにゃんと歪んで一瞬立ちくらみが起こった。乗り物酔いしたような気持ち悪さである。
「おうえええ」
あやうく吐くところだった。
おええ、と口に手を当てた姿で、いつの間にかわたしは、マジカルジョークワールドのプリンセスルームに戻っていたのであった。……黒山氏が、慈悲に満ちた顔で見ているじゃないか。
「トイレに行きますか」
と、ご親切にも言ってくれたので、ダストシュートとエクスカリバーを放り出して、どたどたばたんとバスルームに駆け込んだ。
瀟洒なバスルームはふんわり薔薇の香り。
その優雅な空間に、下世話な音が乱れて飛んだ。おうええ、げろげろ、げぼげぼ、じゃーっ。
(体質が変わったのかもしれん)
乗り物酔いなんか、したことなどなかった。
思えばマジカルジョークワールドに来てから、徐々に体質が変わってきたかもしれないな。のりしお味と炭酸水だけで生きていけるはずだったのに、今ではのりしお味のニオイを嗅ぐだけで「おえっぷ」とこみ上げる。
(しみじみと味わえる和食、最高……)
そうだ、ワカメの味噌汁を飲んで、今日もヨシがんばるぞと出勤して行く心地よさ。
わたしはそれに焦がれているのだ、今は!
しゃがみこんだ足元に広がる、紺のジャージドレス。
いらないものを吐くだけ吐いて、思いのほかスッキリした。無駄が出た感じがする。
気のせいか、ドレスの腹もゆとりがでてきたような?
(早く戻って、しっかりお仕事して生きよう。オカンの作る味噌汁を食べよう)
ずごー。
渦を巻き、照明にあたって光り輝きながら流れてゆくトイレの水。
流れて行けわたしの心を腐らせていたものたち。
「いらないもの」だなんて、自分の事を自分で決めつけるなんて、とんでもないはなしだ。
……。
そうなのだ。
嘔吐の苦しさがまだ少し残っていて涙ぐんで視界が曇っていた。
目をしばしばさせながら、わたしは心の霧が晴れてゆくのを感じていた。
「いらないもの、ごみ」
わたしのことをそう決めたのは、先輩でも、先輩の心を射止めたゆるふわ女でも、職場のみんなでもない。
誰のせいでもない。わたしがわたしを、ごみだと決めた。
(ごみはゴミ箱にいるべきだよね……)
引きこもった自室はゴミ箱。
一日中カーテンを引いて、薄暗い中で。
掃除もしていないから、ちらちら埃が待っていて、万年床は臭いが染みていて。
ぼりぼりのりしお味を喰い散らかして、ごみがごみを生産するような環境の中に、ずっぽりはまりこんでいた。
自分を思い切り卑下していると思っていたけれど、その実、あれが楽だったんだ。
(ゴミ箱の中程、ぬるま湯で安楽な場所はない)
よろよろっ。
立ち上がる。
未だちょろちょろと流れ続けるトイレを一瞥し、わたしはもう振り返らない。もう流れて行ってしまった。過去の事は戻らない。今は前に進むしかない。
(ゴミ箱から、引きずり出す……)
キイ。
バスルームの扉を開くと、レースのカーテンがそよいでいた。
ぐるぐるとビスクが宙を回っていて、相変わらず白目から赤いビームを放ちながら「あおんあおん」と吠えている。
黒山氏は腕を組んでディスプレイを眺めていたが、バスルームから出て来たわたしを見て、ちょっと微笑んだ。
慈悲深い微笑みである。
いいなあ。黒山さん。いい。
窓際族だろうと、地方の営業所にたった一人で飛ばされようと。というか、マジカルジョーク社は見る目がないんだ。
(こんな上司なら、自然体で仕事ができるんだろうな……)
まあ、黒山氏なら、仕事中にいきなりお腹が下りだしてトイレに飛び込み、安普請の壁が音を筒抜けにしていても、微笑んで見守ってくれそうだ。
人間だもの。いいじゃない。
ゲロ吐きまくってトイレから出て来たわたしを見る彼の目は、そう言っている。
さて。
黒山氏は表情を引き締めた。
わたしもはっとする。
ディスプレイの中はどうなっているのか。
黒山氏の横に立って見上げてみた。
「わあ……」
例によって、RPG風のドット絵の画面である。ダストボックスの中で、四角い枠を破壊する二人の野郎ども。そして、枠の中でうろうろする、白い衣装のお姫様。
今、その四角い枠は――プレハブ造りだっけか――細かくボロボロと欠けている。ドット絵の表現ではそうだが、きっとプレハブが穴だらけになっていて、今にも崩壊しそうになっているのに違いない。
容赦なく剣でピコピコ枠を叩く二悪党、大林と麻柄。
ドット絵だから可愛らしいが、恐らくイヤラシイ顔つきでワクワクしながらやっているんだろうな。
このままではデフォルトプリンセスが大変なことになる。
(R18展開に突入。それだけは避けねばならねえ)
プリンセスを引きずり出して、二人のけだものが――オウ――ドット絵でソレをどんなふうに表現するのか見てみたい気もするが、いやいやいや、ちょっととんでもないぞ、これはヤバイ状況である。
「まあ、こうやって色々とやったんですけどね」
呟きながら、黒山氏がそっと画面をなぞった。
ヒューと間抜けな音を立てて上から灰色のタライが降ってきて、がんごんと二悪党の頭に当たるのが見えた。全然効き目なし。大林も麻柄も、頭にタライが激突しようが関係なく、ピコピコ剣で破壊工作続行中だ。
「ぜんぜん、だめでした」
言いながら、黒山氏は画面をなぞり続けている。
ぴゅーん。これまた平和な音を立てて、画面左横から白いクリームをたっぷり乗せたパイみたいなやつが飛んできて、べちゃべちょと二人の顔にぶつかった。
ドット絵では、一瞬二人の顔が真っ白になる。パイのクリーム塗れをドットで表現するには、それしかなかったのか。
さすがに二人の動きは一瞬止まる。パイで目隠しされて、動きようがないだけの話だろう。
でも数秒後、ドット絵の画面では、二人の顔を白いものが綺麗に消え去ってしまった――拭いたか食ったか。拭くようなタオルもないだろうから、ここはやっぱり、食ったと考えるべきか――ぴこ、ぴこぴこ。音は間抜けだが、破壊工作は順調に進んでおり、ついに姫を護るプレハブの枠の一部が綺麗に壊れてしまったのである。
「あー……」
わたしは思わず叫んだ。
「あー……」
黒山氏と目が合った。
黒山氏の、牛乳瓶底のメガネの下の目は、穏やかだが雄弁だった。その眼を見ただけで、わたしは次に自分がすべきことを悟ったのである。
(それを、早く、今すぐ)
黒山氏の声にならない指示を、わたしは正確に受け止めたと思う。
カエルのように飛び跳ねると、カーペットの上に放り投げたままだったエクスカリバーとダストシュートを拾いあげ、飼い犬が飼い主を見上げるように黒山氏を振り向いた。
黒山氏は大きく頷くと、「やってくれますね」と言った。
なにを「やる」のか。
よくわからん。けれど、とりあえず、やってみますよ黒山さん!
黒山氏はビスクを抱きとると、また目玉に指を突っ込んでぐりぐりした。
「はううん」と、ビスクは短く声をあげる。それが合図だった。
ぐにゃん。乗り物酔い再び。
凄まじい揺れ感に、わたしは耐えきれずしゃがみ込む。
あっという間に場面暗転――揺れがおさまったと思ったら、そこは既にプリンセスルームではなかったのである。
がんがん、ごん、がんがん……。
うひょー、見えてるぜレイチェル檄似じゃねーか。ってゆーかもこれ、レイチェルそのものだろう。
物音と下卑た声が聞こえる。そして、のりしお味の臭い。
わたしは、シュロぼうきとダストシュートを持って、暗闇のダストボックスの中に立っていたのだった。
(えっと、これからどうすればいいんだ)
教えてください、黒山さん!




