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戦え! プリンセス  作者: 井川林檎
第四部 ダストボックス争奪戦
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落日のプリンス

 禿げの中年体型背広のおっさん、まるで異世界に君臨した救世主のようだ――と、わたしは思った。

 リモコンビスクの脳天にチョップを下し、自在に現実からマジカルジョークワールドへの異動をしてみせた。早くもこの時点で、黒山氏がこの上なく得難い味方であることを認めざるをえない!


 (当時の開発部のメンバーだったんだよな、黒山さん)


 今わたしたちは、あの昭和の哀愁漂う休憩室ではなく、マジカルジョークワールドの棺の部屋の出口付近にいるのだ。薄く光が差している両開きの黒い扉を、黒山氏は静かに開いた。なんら、驚きも戸惑いもない仕草である。


 黒山氏の背中について、わたしは通路に出た。

 バタンと扉を閉めてしまってから、改めて黒山氏を観察する。


 手に持ってきた革靴を、うんとこよいせと彼ははいている。こちらに背を向け、尻を突きだす不細工な恰好で。

 ぱつんぱつんのズボンは縫い目が裂けそうである。年季の入ったスーツなんだろう。


 「よいしょっと」

 実際に掛け声を口に出しながら、黒山氏は起き上がって振り向いた。通路の天井から差し込むステンドグラスの色彩が眼鏡に反射している。乏しい表情が、余計に読めない。


 乱れたバーコードを片手で整えると、わたしよりちょっと背の低い黒山氏は、言った。

 「まず、違いの目的を擦り合わせましょうか」

 穏やかな声だ。呑気なほど、ゆっくりとした口調である。

 

 ひなたぼっこ中の爺さんみたいだ、とわたしは思う。

 多分、10年前、くだんの開発部にいた頃も、今とそう変わらない雰囲気だったんだろうな。


 棺の部屋の真ん前、無人の通路にて、わたしたちは真剣な立ち話を始めるのだった。





 「あなたは、現実世界に戻りたいんですね」

 黒山氏が穏やかに問いかけた。


 一瞬、わたしは本当に戻りたいのだろうかと戸惑ったが、ここで自分の事情をごねても始まらない。現実がいかに面白くなかろうと、オカンを一人ぼっちにして、あんな宙ぶらりんな状態で、帰ることができないまま寿命を迎えるわけにはいかないだろう。


 頷くわたしを見て、黒山氏も頷いた。そして、黒縁のメガネを人差し指でクイと押し上げた。

 今気づいたが、黒山氏のメガネはフレームが歪んでいる。これも相当年季が入っている。


 (身なりを気にしないのか、金がなくて買えないのか、ずぼらなのか)

 

 だけど黒山氏の両手の爪はキレイに切ってあるから、ずぼらではないんだろうな。

 あの休憩室のポットのお湯は古かったけれど、ああいうことは女性が気づくもんだ。スーツも古くてヨレているけれど汚くはないし、白いワイシャツも清潔である。

 妻帯者ではない中年男性にしては、身ぎれいなほうだと思う。

 

 基本、黒山氏は清潔マンだ。

 「にゃーん」

 と、腕の中のビスクがアニメ声で鳴いた。どうしたビスク、なんかおかしいぞお前……。



 黒山氏は静かに語り続けた。


 「もちろん現実世界に戻すことは可能です。今すぐにでも戻してあげることはできますが、あなたはどうしたいですか」

 眼鏡がステンドグラス色で、どんな目つきで喋っているのかわからない。

 あくまで穏やかでゆるい口調なのだが、突きつけられている問いかけに、わたしはたじたじとした。


 「わたしはね、彼に恩があるから、なんとかして事態を変えようと思っているんですよ」

 黒山氏の口元が僅かにほころんだ。微笑しているらしい。


 「10年前、この異次元がサンプルとして作られた当時、わたしは随分彼に助けられたんです。その話を今しようとは思っていませんが、とにかく彼には大きな借りがあります。その借りを全く返せないまま、彼がマジカルジョーク社を去ってゆくのを見ているだけしかできなかった自分が、不甲斐なくてなりませんでした」


 このサンプルを作り上げる手伝いを、わたしはさせてもらったんです。

 通路のあちこちを見回しながら、誇らしげに黒山氏は言った。当時20代半ばの若造に過ぎなかったプリンスだが、黒山氏はそれよりも更に年少だった。憧れの先輩だったのだろう。


 世界に誇るマジカルジョーク社の開発部、その中のエリート、貴公子、プリンス。

 会社の女性社員は皆、多かれ少なかれ、彼に恋をした。

 颯爽と歩くプリンス。彼が出勤しマジカルジョーク社の廊下を歩けば、モーゼの十戒よろしく、パアッと道が開いた。押し合いへし合いしながら女の子たちは、一目彼を見ようと息を飲んでいる――今日もお素敵ですわ、ああ、今日は見ることができた、きっと何か良いことがあるわ――プリンス、開発部の奇跡のイケメン。



 「あの人はね、見た目より強い人ではなかった。あの人が誰になにを言われようと自分の仕事を貫くことができたのは、支えがあったからなんですよ」

 支え。それは、「レイチェル」。


 「あの頃、あのアニメの本編は既に完結していて、テレビの放送もとっくに終わっていたんですが」

 また眼鏡を直しながら、黒山氏は言った。

 「それでもファンが多くて、番外編のOVAとか、漫画の連載が始まったりとか、ライトノベルになったりとか勢いがまだまだ衰えない、超ロングヒットアニメだったんです」


 魔法を使って戦うレイチェル。

 うん、ロングヒットなのは知っている。そういうのに疎いわたしですら知っていて、暇つぶしにDVDを見ていた位だから。


 レイチェル。レイチェル。

 書店に行けば、必ずどこかにポスターが貼られ、コンビニのキャンペーンでもレイチェルが起用されていた。

 ゲームにもなっていた。

 

 ゲーセンではレイチェルの人形がUFOキャッチャーで大人気。

 スーパーではレイチェルのテーマソングが時々流れていた。あまりにもよく聴く音楽だから、もはや国民的アニメソングだった。


 女児のパンツにもレイチェル。

 学校で使う自由帳の表紙にもレイチェル。

 果ては、ご当地レイチェルまで出ていたっけ。


 マンゴーの被り物をしたレイチェルだの、寒ブリを抱えたレイチェルだの。

 まさに、仕事を選ばない活躍っぷりの魔法のプリンセス、レイチェル……。




 「しかしね、その『レイチェル』がとうとう勢いを失い、新しいアニメに負けて、世の中から忘れられてゆくにつれて、彼の心の支えも脆くなっていったんです」


 ぽつんと黒山氏は言った。


 「あのアニメは何度も映画化されてきたんですが、最後の映画上映の結果が惨憺たるもので、それ以降、『レイチェル』はどんどん影を潜めて行ったんです」



 


 そうだ。

 確かに、「レイチェル」は、今ではどこにも見当たらなくなった。

 コンビニでは別のアニメのキャンペーンが組まれるし、あんなに盛り上がっていたご当地レイチェルも、もう売られていない。


 古き良き名作として、殿堂入りしてしまい、もう新たな動きはない「レイチェル」。


 

 プリンスは、その現実に負けたのだという。



 「『レイチェル』が輝いている限り、彼も輝き続けることができたんです。だけど、『レイチェル』が現実から消えてしまったら、彼も自分を失ってしまった……」




 あんなに才気あふれた男だったのに、仕事で連続して大きなミスを出し、言動もおかしくなり、そのうち遅刻は日常的になって行き、挙句の果てには無断欠勤が続いた末、ほとんど懲戒扱いで、会社を去った。


 「去りゆく彼を見送る人は、誰もいませんでした」

 穏やかに黒山氏は言った。


 「ああ、わたしは見送りましたが、彼はわたしを一瞥もしなかったんです」

 もう、彼は他人などどうでも良かった。生きていることすらダルくて仕方がない状態だったのでしょう……。




 この、マジカルジョークワールドは、落日のプリンスが最後の力を振り絞り、己の憧憬の全てを込めて作り上げた企画だったという。

 しかし、その企画は通らなかった。


 「彼は負けたんです。現実に負けてしまった。引きこもって人生を捨ててしまった彼に、わたしはどうすることもできなかった」


  

 一度だけ、電話をしたことがあったんです。

 黒山氏は低く落とした声で言った。

 プリンスが辞めて少したった時、どう過ごしているか気になって連絡をしたというが……。




 「レイチェルさえいればいい。俺は永遠にレイチェルを一緒に生きていく。そのレイチェルですら俺から離れてしまったら、俺はもう死を待つばかりだ」

 

 プリンスはそう言って、電話を一方的に切り、それ以来、着信に応じることはなかった。 

 ……。



 「えっと、あの、今の状況って、『レイチェルですら俺から離れてしまった』状況なんでしょうか」

 やっとのことで、わたしは言った。

 

 嘘だろう。

 なんだそれ。

 デフォルトプリンセスは自分からプリンスから離れたわけじゃない。むしろ、プリンスが助けてやるべき立場だというのに。


 半信半疑で問いかけたわたしであるが、黒山氏は「そういうことです」と、いともあっさりと答えたのだった。





 (最早、この時点で生きる屍、プリンス)

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