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戦え! プリンセス  作者: 井川林檎
第三部 ゴミはゴミ箱に
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味方

 鼻を摘ままれても分からない濃厚な闇の沼を落ち続け、一路、黒山大悟の元へ。

 片手に抱えたビスクは目をぐりぐりさせて余裕の表情だが、わたしの方はこれ以上ないくらい焦っている。


 (大林と麻柄が、マジカルジョークワールドにやってきて、デフォルトプリンセスに手を出そうとしている)

 つまり、マジカルジョークワールドを侵略しようとしているのだが、それが一体どれくらいたやすいことなのか、あるいはどれくらい難しいことなのか、見当もつかない。もしかしたら、こうしている間に外道二人がマジカルジョークワールドに君臨しているかもしれないのだ。


 (最悪なことになる前に、なんとかしなくては)

 なんでこんなに必死になっているやら。わたしとしては、ただ現実世界に戻る術が見つかればいいだけなのだが、大林と麻柄の毒牙にかかるデフォルトプリンセスを想像すると、いたたまれない気持ちになる。


 デフォルトプリンセスの相手は、やっぱりプリンスなんだよな。

 別に何ら義理立てする必要はないんだが……やっぱり、あのプリンセスには、あのプリンスしかいないんだよ。

 (そもそも、プリンスがしゃんとしていれば問題はないんだよ)

 

 大林と麻柄の悪だくみを阻止しようとするのは、プリンスの尻ぬぐいをしてやることに等しい。そこに焦点を当ててしまうとムカつくだけである。どろどろの闇の沼を落ちてゆく速度が粘っこくて、妙に気色悪い――そら、なんか光が見えて来た、そろそろ黒山大悟のお出ましか。



 



 べん。

 右の横っ面を平たいもので張られた。

 驚愕した。

 

 例えるなら、窓ガラスに顔をうんと貼り付けた感じである。横っ面を思い切り押し付けられた状態で、わたしは目を見開いた。

 目の前に、恐怖の表情を顔に貼りつけた、脳天の禿げたおっさんがいた。口をぽっかり開いて――前歯が銀歯になっている――メガネの奥の目を充血させるほど見開いて、あわあわと真っ青だ。


 (黒岩大悟かよ)


 わたしは右のほっぺが押し付けられているガラスのようなものを手で触れてみた。つるっとしている。

 ほっぺを離して、真正面から禿げ氏を見つめてやった。白いワイシャツにネクタイ姿の禿げ氏は、手に何かを持っている――テレビのリモコンだ――そのリモコンをわたしの方に向けて、必死に指でボタンを連打しているが、思うような結果にならないようで、ますます青ざめて来た。


 「出た」

 とか、何とか震え声で言っている。人を化け物のように。

 わたしは両手をガラスの画面につくと、何とかここから出ようと試みた。すると、今までガラスの壁だった部分が突然ぐにゃりと柔らかくなり、わたしの両手はガラスの向こうへ突き抜けたのである。


 ぎゃっと禿げ氏は叫び、リモコンを両手で握りしめて後ずさりした。がらがらがっしゃんと派手な音を立てて、なにかが倒れた気配がある。

 禿げ氏の背後は蛍光灯の光でぼんやりと明るい部屋らしい。禿げ氏の他は誰もいないようだ。

 自販機や、「火の用心」の貼り紙が見えるから、もしかしたら会社の休憩室のような場所なのかもしれぬ。


 だとしたら、今わたしはどこから現れようとしているんだ?



 ぬう、と手がガラスの向こう側に突き抜け、勢いで頭もぬるんと出た。

 ビスクが「ああん、わたしも忘れないでくださぁい」と叫んでいる。急いで右手をひっこめてビスクを抱き直し、今度は気合を入れて、ぐいっと全身をガラスの向こう側に押し出すようにした。



 ずるずるずりぃっ!

 ひぃいいいいぃぃぃっ。


 髪の毛が乱れて顔にかかってしまった。

 わたしは色あせた畳の上を這っている。ここはどこだ。黒山大悟のいる場所なのは分かるが、さっきのマジカルジョーク本社の開発部に比べ、あまりにもショボくて物さみしい感じだ。


 禿げ氏――まあ、この人が黒山大悟氏なんだろうが――は、醤油の乗ったちゃぶ台の向こう側まで尻で後ずさっている。畳に黒い液体が広がり、白いマグカップが横たわっていた。その側で、ポットが畳に落ちて転がっている。

 さっきの派手な音は、黒山大悟氏がちゃぶ台の上のものを叩き落としてしまった音だったのだろう。惨憺たる有様だ。



 「貞子が」

 と、その黒山大悟はわたしを見て掠れた声で言った。未だにリモコンを両手で握りしめている。

 一体なんのことだと振り向いてみたら、なるほど、わたしはテレビの画面からこっち側の世界に抜け出るようにして現れたらしい。


 わたしの背後では、段ボールの上に乗ったテレビが「ざー」と砂嵐を起こしていた。

 


 (登場の仕方にもバリエーションがあるらしい)

 さっきはオフィスの机目がけて、天上から降って来たんだが。

 プリンスは一体なにを考えて、こんな設定にしたんだろう。企画段階のサンプルだから、適当にやっつけたんだろうか。


 マジカルジョーク社の地方営業所、黒山大悟はその所長であるはずだ。

 どれほどショボい営業所なのか。所長が休んでいる休憩室は狭くて、古びていて、昭和のニオイがした。

 何人社員を抱える営業所なのやら分からんが、とりあえず今、休憩室で休憩しているのは彼一人である。


 「貞子じゃないです」

 一応礼儀正しく断っておいた。未だにがくがくぶるぶると震えながらリモコンを握りしめている黒山氏に、マジカルジョークワールドのことはご存知ですよね、と極力ゆっくりと、優しい声で話しかけてみる。


 相手は怯えた小動物みたいなもんだ。これ以上怖がらせたら、協力を仰ぐどころか、話もきかずに一目散に逃げだすかもしれない。

 ビスクドールを抱き、ジャージドレスを纏ったプリンセスが、禿げのおっさんを追いかけまわす図――都市伝説にでもなりそうだ。


 

 黒山大悟氏は、大林氏や麻柄氏のように、こっちが何も語らないのに素早く事態を察してニヤニヤするような鋭い頭は持ち合わせていないようだ。ハアハアと涙目で小さくなって怯え、まずは心の平穏を取り戻すところから始めている。

 おっさん、頼むから落ち着いてくれや。見たところ、指輪はしていないし、畳の上に転がっている昼食は弁当ではなくカップラーメンだ。


 独身か。

 

 (この人から得られるものなんか、あるんだろうか)


 わたしがここまで冷静に分析している間、黒山氏はやっと呼吸を整えて、眼鏡を鼻の上に推し上げていた。

 ついでに脳天のバーコードを整え、首元のネクタイを少し緩め、はーっと息をつくと、握りしめていたリモコンを操作した。


 ざーと砂嵐を起こしていたテレビは、ぷつんと電源が落ちた。

 


 「マジカルジョークワールド……」

 茫然とした様子で、オウム返しに呟いている。

 チックタックチックタック。一秒も惜しい時に、彼の頭の中はゆっくりと過去を引き寄せ、のろのろと色々なことを思い出しているようだ。


 じれったくなるような時間が過ぎ、やっと黒山氏は合点がいったような顔をした。ああ、そうか、とか言っている。

 「君はマジカルジョークワールドに迷い込んでしまった、一般ユーザーなんですね。はあんなるほど」


 喋り方もゆっくりである。汗を拭きながら黒山氏は、また大息をついた。いちいち胸をおさえ、激しく瞬きしている。非常に気の弱い人のようだ。


 「だとしたら、あのサンプル、まだ削除されずにずーっと残っていたという事ですか……なんて不用心な」

 黒山氏の理解が追いついたようだ。良かった、やっと用件を喋ることができる。

 わたしは畳の上に座り直した。ついでにビスクを膝の上に座らせた。


 「棺の部屋のリンク先が、当時の開発部のメンバーになっているんですよ。それで、黒山さんのところまで出てこれたんですが」


 さっき、大林さんと麻柄さんのところに間違って落ちてしまいまして――口早に説明するわたしの前に、ことっと黒山氏がひび割れた湯呑を置いてくれた。ティーバックが突っ込まれたままになっている。

 「粗茶ですが」と黒山さんは言った。いい人なんだけど、なんかちょっとじれったい。


 黒山さんは畳を拭き始めている。

 背広を着た体を丸めて、ぎゅっぎゅっとフキンで汚れた畳を拭いている。これが営業所の所長の姿かよ。

 涙が出そうになるじゃないか?



 わが身に起きたことや、プリンスとの経緯を要約して説明し、大林氏と麻柄氏の言った不穏な内容を言ってしまってから、湯呑の茶を飲んだ。お紅茶である。薄い。ぬるい。


 「えっと、その、このままだとマジカルジョークワールドが侵略されてしまうんじゃないでしょうか。それって、マズイことなんじゃないでしょうか。いやー、分からんのですけれど。全く持って、この事態の重大さの度合いが分からんのですけれど」

 最悪、わたしがもといた自分の居場所、オカンのいるあの家に戻ることができればそれでいいんですけれど、どうもこのまま放っておいて良い状況なのかどうか――ねえ黒山さん、どう思います、どうしたらいいですかね。


 わたし自身、この状況について自分がどう動くべきかあやふやな状態だったので、最後は相手に問いかける形になってしまった。だけど実際、マジカルジョークワールドがどうなろうと、なんとかしてやる義理も人情も、わたしは持ち合わせていないのだ。


 ただ、あのデフォルトプリンセスの様子や、自ら「いらないもの」になり下がったプリンスの有様を目の当たりにして、ただただ気分が悪いのである。何というか、まるで自分自身を映し出されたような気持ちの悪さだ。



 それだけなのだ、わたしが拘っている理由は。




 黒山氏は、黙って畳の上を片づけていた。

 やがて、わたしが語り終えた頃、立ち上がって休憩室の隅の小さな流し台に立ち、汚れたフキンを洗って絞った。


 表情の乏しい黒山氏である。

 眼鏡が光っていて、どんな目つきをしているのかも分からない。


 黒山氏はフキンを広げてちゃぶ台に置いた。ポットもちゃぶ台に戻した。

 無言で何分かやり過ごした後、やがて重たい口を開いた。




 「極めて、不味い状況です」

 彼はうつむいたまま言った。



 「僕は、彼に恩があるんです。だから、この事態を放っておくわけにはいかないんです」




 この場合、黒山氏にとっての「彼」は、すなわちプリンスのことなんだろう。

 正座をし、俯いて考え込んでいる黒山氏である。

 わたしも無言で黒山氏を眺めて、彼の次なる発言を待った。それしかできることがない。


 一方、膝の上のビスクは。

 「ぐーぐー、すぴい」

 アニメ声で、寝ていた。

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