戻れるかもしれない⁉
甘く高いアニメ声が、途切れ途切れに聞こえてくるんだよ。
ここはぬるま湯、心地よい底なし沼の中だ。わたしは漂いながら、ずるずる下に沈むばかり。浮上することなど今は考えず、ただ落下して行く快感を貪っているだけ。
「……ねがい……けて」
だけど、この悲壮な声は何だ。しかもどこかで聞いたような声だ。
こんな声の知り合いはいないはずだが――ぼんやりとふやけた眠りの中の脳みそで、わたしは記憶を手繰り寄せる。
レムとノンレムの境目をいったりきたりする沼の中は、不安定で当てがなく、そこが心地よいのだ。
この地に足の着かない、どっちつかずな感じは贅沢だと思う。
「おねがい……たすけて」
今度は若干はっきり聞こえた。そして思い出した。
派手なアニメの映像――そうだこれ、「レイチェル」の声じゃないか。
童顔でエロいバディの美少女レイチェル。
レイチェルが助けを求めているわけではなかろう。嫌でも見当がついてしまう。
これは恐らく、マジカルジョークワールドの、ゴミ箱に入れられてしまった、デフォルトプリンセスの嘆きの声。
プリンスの永遠の恋人であるはずの人だ。
その人が、助けを求めている。誰に。
ごぶごぶぶ。
ぬるま湯の眠りの沼は本当に心地が良い。永久に沈んでいたい位だ。
ふよふよと足が浮遊する感覚。指先まで温かくくるまれている。
わたしは眠りが好きだ。
ヒキコモリニートになってからは、とにかく寝る事に時間をかけていた。睡眠の質とか考えたりしない。だらだらと、なんでもいいから目を閉じて、布団の中の世界に逃げ込むのだ。そこには何でもある。
一人きりでも何も困らない世界。温もり。安心感。時には素敵な夢を見ることもある。
まるで別世界に行く、素晴らしい夢――。
ふいに思い出した。
あのリモコンビスクが、眠りに落ちる前に囁いた言葉だ。
「眠りの中で、大きなヒントが得られるよう、調整が入りましたよ、プリンセス」
くすくすと笑うような声だった。
調整。誰が仕組んだ調整だろう。
このマジカルジョークワールドを好きなようにできるのは、あのプリンスだけなのではないのか。まさかプリンスが、わたしに接触してくるとは思えない。
(あれはもう、現実逃避型の駄目男だった……)
思い描いた通りの現実ではなかったら、解決方法を考えたり何か動いたりするのではなく、いきなり絶望して閉じこもってしまうガラスのメンタル野郎。
どういう意図で「調整」を仕組んだのやら、まだ見えない。けれど、どうやら一つ分かったことがある。
(恐らく、マジカルジョークワールドを操作できる人は、プリンス以外にもいる)
その「誰か」が、わたしの眠りの中に入り込んで、デフォルトプリンセスの声を届けている。
何のためか。わたしにどうしろというのか。
ずぶずぶ、ぐぶぐぶ。
沈んで行くわたしは、ただ眺めていることしかできない。
目を、開いて。
しぶとく眠りの沼を貪り続けようとするわたしに、命じた声がある。
お願い助けてと微かに繰り返す声と同じ、レイチェルの――デフォルトプリンセスの声だ。
毅然とした声は、あのアニメの中で、レイチェルが敵と対峙している時のそれと同じだ。
目を、開きなさい。
また来た――いやに威圧的である。わたしは仕方なく、薄目を開いた。
眠りの沼の中で目を開いて、今までロクな目にあったことがない。
半覚醒状態。つまり金縛り状態に陥ってしまうのだ。
だけど今回は、金縛りには遭わなかった。見えたのは幽霊ではなく、もっと具体的で、もっと意外なものだった。
それは、マジカルジョークワールドの城の中である。
わたしは人形のように体を起こし、ベッドから降り立つ。そのまま素足で部屋を横切り、扉を開いて通路へ。
しいんとした夜の城の中だ。件のダンスパーティは、もうお開きになってしまったのだろうか。
まるで人気のない、陰気な廊下を、ひたひたと歩いてゆく。
壁に取り付けられたランプは橙色に暗く輝き、ステンドグラスの影がいびつに何重にもなって、足元に落ちている。
「プリンセスルームを出て向かって右に曲がり、棺の部屋の扉を25個数えて進む」
甘く高いアニメ声が、静かに告げる。
何かのありかを示そうとしている。
ひたひたと、わたしは進む。壁には規則正しく、両開きの黒い扉とランプが取り付けられていて、延々と同じ風景が繰り返されている。数えて進むしかないのだ。じゅういち、じゅうに……。
25個目の扉を過ぎたところに、ちょっと違う扉があった。
わたしは足を止めた。
「ここよ。ここにいるの」
その扉は、他の扉と同じく黒い両開きである。
ただ、他と違うのは、扉全体に派手な黄色いテープでバツを付けられているところだ。
「関係者以外立ち入り禁止」
テープには、赤字で繰り返し、そう印字してある。
KEEP OUT
……。
がたがたがた。
不意に、テープで閉ざされた扉が、内側から音を立て始めた。
がたがた、どんどんどん。
たすけて、お願いたすけて、出して――消えてしまう、もうすぐ消えてしまう。
「わたしが消えてしまったら、もうプリンスはこの世界には来ないわ」
ふいに耳元でささやかれた。
幻のデフォルトプリンセスが、今にも消えそうな透明な姿で、側に立っている。
アニメのヒロインそっくりのプリンセスは、美しく妖しい青い瞳で、じっとわたしを見つめるのだった。
「まだわたしがダストボックスの中に残っている間は、あの人はこの世界に興味を持ち続けている」
デフォルトプリンセスはそう言った。
そういうことならと、わたしはテープされた扉のノブを両手で持って、開こうとした。
テープがぱさぱさと乾いた音を立てる。ノブはがちゃがちゃと自由に回るが、そのくせ、どうしても開くことができない。押しても引いても、びくともしない。
そうしている間も、内側から救いを求めて扉を叩く音や振動が伝わるのだった。
「開かないんだけど」
わたしが抗議すると、デフォルトプリンセスはすうっと消えながら、一言、謎めいた言葉を残したのだった。
「棺の部屋に飛び込んで」
棺の部屋。
あの、無数に並ぶ、未来のプリンセスたちのからだが入るはずの部屋。
確か今は、なんの設定もされていないから、何もないはずだけど。
しかし、デフォルトプリンセスは完全に気配を消す前に、わたしの脳みそに一つ、情報を刻んでくれたのだった。
おかげで気持ちの良い眠りは急激に引いて行き、底なし沼から唐突に浮上してしまったのだけど。
「……」
夜明けにはまだ遠いらしい。
月明かりが差し込む静寂のプリンセスルーム。
薄ピンクの天蓋付きベッドの中にわたしはいて、はあはあと息を切らしながら起き上がっていた。
枕元には意味深な目つきをしたリモコンビスクがお座りをしている。
このマジカルジョークワールドは、企画段階のサンプルであり、設定もいい加減である。
棺の部屋は、本来、利用者となるはずのプリンセスたちが、この次元でのからだを眠らせ、元の現実に戻るための場所なのだ。
つまり、棺の部屋は、現実世界にリンクしている。
それぞれのプリンセスの現実にリンクしている――予定だった。
だが、この企画段階のサンプルでは、そんなプリンセスなんかいない。
棺の部屋がリンクしているのは、現実は現実でもプリンセスのものではなく……。
(マジカルジョーク社の、開発部のメンバーの現実にリンクしている)
企画立ち上げ当時のメンバーの現実だ。
あくまで仮のリンクだから、リンク先は、もしかしたら会社のデスクかもしれない。
けれど重要なのは、誰に繋がっているリンクであろうと、現実世界に繋がっているという事だ。
(帰ることができる)
ぐっと拳を握りしめてしまった。
唐突にデスクの上にわたしが飛び降りて現れることになるだろうから、社員さん達はそりゃあびっくりするだろう。
だけど説明しさえすれば、開発メンバーの方なら納得してくれるはずだ。
こんな、現実ではありえないようなことでも、プリンスの元同僚ならば、多分。
「朝いちで現実に戻るぞ」
思わず呟いてしまったが、それを聞きつけたか、お座りしているビスクの目玉が、ゆうらゆうらと動き、口元が僅かに上がった。嫌な顔をしやがる。
「そんな簡単にはいきませんよぅ、プリンセス~」




