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戦え! プリンセス  作者: 井川林檎
第二部 プリンス
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他の方法

 護衛を引き連れた女王陛下が、プリンスとプリンセス二人きりのシーンに乱入し「濡れ場けしからん」と叫ぶのは、どうやらデフォルトの仕様そのままなんだろうな。

 普通、あの状況を見て「濡れ場」とか、誰も思わないだろう。


 「今後、プリンセスは、一切城から出ることは叶わぬ」


 と、型通りの言葉を落として、怒りさくったオカン女王陛下はバスルームを去っておしまいになった。

 あの冷たい目つき、本当によくできているもんだ。ヒキコモリニートになってから、オカンはよくああいう目つきで部屋に籠るわたしを見下ろし、カンカンと言葉をぶつけてきたもんだ。



 「あんたっ、いつまでそんなことしてるつもりっ。お母さんだっていつまでも元気で働けるわけじゃないしっ。もういいかげんイイトシなんだからっ。一刻も早く再就職してっ。それか、見合いでもしてっ」

 お母さんを安心させてよっ!

 ……。



 (あ、嫌なもん思い出した)







 びちゃびちゃのバスルームはそのままで、わたしは照明を落とした薄暗い部屋に戻った。

 運動神経皆無のプリンスが派手にバスタブにダイブした被害を、ずいぶん受けている。

 

 せっかくメイドさんがこしらえてくれたプリンセスヘアスタイルも、ぐちょぐちょに濡れて乱れ捲っている。

 全速力で逃亡している際、紛失してしまった飾り帯とショールは自分のせいだとして、薄ピンクの上等なドレスに飛沫がかかっており、しかも薔薇の花びらがべたべたと貼りついていた。


 パンプスの中にまで水が入り込んでいるし、つま先がネチョネチョと気色が悪い。このままにしておいたら足が臭くなるんだよ。

 部屋に入って最初にしたのは、パンプスを脱ぎ散らかして鏡台の前の椅子にどっかり座り込み、片足ずつ膝の上にあげて、足の指のあいだまで念入りにドレスの裾で拭くことだった。


 (ひとまずこれで良し)


 隠れ水虫持ちなんだよ。

 ちょっと油断したらすぐに臭痒くなっちゃう。

 女子力だの洒落っ気だの、皆無のヒキコモリニートだけど、足が臭いのは耐えられぬ。


 スンスン足の匂いを確認している時、音もなく近寄って来たメイドさんに声を掛けられて腰を抜かしかけた。

 お召替えをしてお休みくださいませと言われ、されるがままに、髪の毛を梳かれ、きゅうくつなドレスからヒラヒラピンクのネグリジェに着せ替えられ、薫り高いクレンジングで化粧を落としてもらった。


 オレンジ色の暗い光の中で、メイドさんの生真面目な顔が、朝と全く変わらない。

 一体なにが起きてこうなったのか、一切問いただしたりせず、ただ淡々と自分の仕事をこなしている。


 プロだ。



 わたしはビスクを無意識に抱きしめていた。

 メイドさんの容姿や態度がデフォルトのままであり、決して生きている人間ではないと分かっていつつも、その淡々とした仕事っぷりに、何か胸が痛くなるものを感じた。

 

 そうだ。仕事ってこういうもんだった。

 自分の感情や都合ではなくて、淡々と、ただ目の前にある仕事をこなして次につなげる。

 それができて初めてプロのこだわりだの、自分のやり方だのという段階が来る。かつて、働き始めた頃のわたしは、本能的にそれを学び、自分をできる限りフラットにして仕事に臨む癖をつけていた。


 フラットに。

 そりゃ、職場にはいろいろな人がいる。

 怖い先輩。人を見て態度をあからさまに変える、助平心丸出しの営業のおじさん。意地悪で嫌みな同僚。

 だけど、そんなものは関係なく、自分を平らにならして仕事に臨む。仕事だけに集中する。そうしたら良い仕事ができる。間違いのない仕事になる……。



 (楽しかったんだよな、確かに)

 いつのまにかメイドさんは、わたしの髪の毛をすっかり梳きほぐし、自然の状態にしてくれていた。

 お肌も綺麗にクレンジングされ、たっぷりとクリームを刷り込まれている。

 両手のネイルも落とされており、まるで湯上りの様にこざっぱりとした姿になっていた。


 「おやすみなさいませプリンセス。御用の時は呼び鈴をお使いくださいませ」

 恭しく膝をまげると、メイドさんは静かに部屋を去っていった。

 部屋に残ったのは、ネグリジェ姿のわたしと、リモコンビスクである。


 

 

 ドルルンドルルンテケタカテケペカブイーンブヤーンバババンババーン。

 

 穏やかなプリンセスの寝室。だけど、流れてきたのはハードロックである。

 これまではクラシックが静かに流れていたのだけど――そうだ、わたしはさっきトイレに座りながら、リモコンビスクを調整していたんだった。


 部屋に常に流れているクラシックを、大好きなハードロックにするためのボタンを押したんだった!


 (えっらい変わりようだな)


 ガガガガガ。俺はお前の全てを喰らうぜイエアイエア。血潮がブシャーでドルルンバリリンドカベキャバキドドーン。


 確かに好きな曲だよ。

 流れているのは、マイナーなロックバンド「イカサマナニサマオレサマ」の伝説のアルバム「骨まで喰らい尽くすぜそれが愛」の三曲目、「お前の血潮で世界は変わる」だ。

 この歌詞がいいんだよ。うん。


 だけど、寝る時に聴くようなもんじゃないかもしれない。

 それでわたしは、リモコンビスクの左の耳の穴を、ぐいっと押して十秒待った。「ウウーン」と、電源が落ちるような音が小さく聞こえて、部屋はキッパリと静かになった。


 ビスクの扱いに慣れてきたのかもしれない。



 「あのさー」

 わたしはビスクに話しかけてみた。

 リモコンビスクは青い目をぐるりぐるりと動かして、ゆらゆら目玉を動かしていたが、やがて焦点をこちらに合わせたようだ。薄っすら、ピンクの唇が微笑みを広げた――怖い。


 「とりあえず、これからどうしたらいいんだろうね」

 頼みのプリンスはあんなザマだし、一体どうしたら現実世界への道筋を掴めるのか。

 そう聞いてみたら、ビスクはさらにニマーとして、こう言ったのだった。


 「えっ、プリンセス、もういいじゃないですか。こっちの世界で」

 

 一瞬、頭の中がフリーズした。

 こっちの世界でいいじゃないか――人形のくせに何を言う――ムカッとしたのは確かだが、同時に納得しかけている自分もいて、それが酷く不快だった。


 「明日からのゴハンはのりしお味三昧ではないですし、みんなからの賛辞も、細いだの柳の腰だのいう、嘘八百のお世辞ではなくなるし、好きな時にハードロックは聴けるし、その他、わたしをいじってもらえれば、どんどん住み心地が良くなってくるんですよ」

 なにより、プリンセスという地位は格別でしょう!

 お城は綺麗だし!


 「プリンセス、本当に現実世界に戻りたいんですかぁ」



 


 結婚おめでとうございまーす……。

 きゃー、お似合いの夫婦じゃないですかー……。


 ……。


 「ごめんな。本当はみんな招待したかったんだけど、切らざるを得なくってね」

 憧れのあの人の笑顔。

 あのあったかい手で、ぽんぽんと頭を軽く叩いてくれた。頑張ってるな凄いぞって。

 

 (わたしは、切られた)

 切られた……。




 一番重たい記憶がのしかかってくる。

 ごくささやかなことだ。人によっては、そんなことでヒキコモリニートになるのかと思うだろう。

 でも、わたしはあの日、失恋と屈辱を同時に味わったのだった。


 あの人が選んだのが、仕事に身を入れていない、ゆるふわ女だったということと。

 あの人が結婚式に招待した人たちの中に、わたしが入っていなかったということと。

 (切り捨てられた。捨てられた。捨てられるのはゴミ。わたしはいらないもの)


 

 病的な精神状態と言えばそうなのかもしれない。

 裏切られたと、心のどこかでわたしは思い、これまでの人生を全て否定されたような重たい傷を負ったのだった。

 誰にも何も語ることがないまま、そのままわたしはヒキコモリの道を選び、築き上げてきたもの全てを「捨てた」。



 (戻りたいの、本当に、あの現実に)

 改めて突きつけられると、すぐに言葉が出ない。

 現実なんかに戻りたいわけがないのだ。それくらいなら、ヒキコモリニートなんかやらなかった。





 だけど、人形の不安定にゆらゆらする青い目を睨んでいたら、一番嫌な記憶の向こう側で、こちらを振り向いている、怖い顔のオカンが見えたのだった。

 女手ひとつで育ててくれたオカン。

 わたしが二階の部屋に閉じこもっている朝、ガタガタと冷たい玄関の音を残して出勤して行くオカン。


 オカン。





 「戻らなくちゃいけないだろうがよ」

 沈黙の後で、わたしは答えた。

 ビスクは唇の笑みをゆっくりと広げて――本当に怖いんだ、人形がじわじわと表情を変える様は――ううん、それじゃあスイッチが切り替わりませんねえとアニメ声で言ったのである。


 スイッチ?



 「プリンセスが心の底から望んだこと以外、反応できないようになってるんですよ。だから、今のお言葉じゃあ、なにも変わりませんねえ」

 (このリモコンビスク、どこまで何ができるんだ……)


 現実世界に戻る方法は一つしかないと、こいつは言った。

 プリンスと親密になり、心を開かせる以外ないと。

 しかしもうそれは不可能に近い。


 にもかかわらず、ビスクは思わせぶりなことを言う。多分、何かあるんだ、現実に戻る方法が他に。



 


 とりあえず寝ようと思った。

 腹のグズグズはまだ少し残っていたが、トイレに座る気力はもうない。

 それに、よく寝たら腹の具合も整うかもしれないじゃないか。


 ビスクを枕元に置き、あったかいお布団にくるまって目を閉じた。

 流石に疲れている。凄まじい一日――そうだよ、まだここに来て一日しか経っていない――おやすみ、もう限界、グウ。



 安らかな眠りの真っ暗闇は愛おしい。

 自分の匂いと温もりの世界。

 

 しかし眠りに落ちる一瞬前、あの甘いアニメ声で、ビスクはこうささやいた。

 「眠りの中で、大きなヒントが得られるよう、調整が入りましたよぉ、プリンセス」


 



 調整?

 問いただそうとして、それができないうちに、わたしはアッサリと眠りの中に落ちて行った。

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