そんなつもりじゃ
待てと言われて待てるくらいなら、逃げたりはしない。
べとんどべんどすん。
およそ、プリンセスにあるまじき足音をたてて、わたしは走る。
飾り帯ははずれて、ベルトの上にぼっこり乗った腹肉がどぶるんどぶるん踊りまくるのが露になった。
ばしゅっ。
勢いよく後方にすっとんだ艶やかな飾り帯。すたっと小気味よい音が聞こえたのは、お迎え係君かプリンスのどちらかがハードルよろしく飛び越えたものだろう。
「プリンセス、トイレはいかがでしょうっ」
したたたた。
どうやらお迎え係君の方だったらしい、飾り帯のトラップを華麗に飛び越えたのは。
サバンナをかける猛獣並みに俊足らしい。はっと横を向くと、生真面目なメイド顔のまま、息もきらさず走っているお迎え係君がいた。
「プリンセス、トイレは……」
「行きたいッ。部屋ッ、部屋のトイレッ」
ぜえぜえはあはあ。
かぱかぱに乾いた口の中で唾が粘ついて喋りにくい。これでも全力疾走だ。ヒキコモリニートの体力の限界を超えている。
(明日は筋肉痛……)
一方、我々の遙か後方では、わっと叫んで、どたんと倒れる派手な音がする。
プリンスが、くるくる回りながら吹っ飛んだ飾り帯に足を取られて転んだらしい。泣きっ面に蜂とはこのことで、おまけにわたしのショールが外れてばさばさ飛んでいった。
「君っ、ちょ、ちょ、ちょっ、がばあっ」
ばさっ。
恐らく、足に絡みつく帯から抜け出そうともがいているところに、薄くて体にまとわりつくショールが顔面に衝突したんだろうな!
情けないプリンスの叫びを尻目に、ついにわたしは見覚えのあるプリンセスルームの扉にたどり着いた。
ドアに手をかけようとしたら、すっと白い手が抜き出てきて、わたしより一瞬早く、扉を押してくれる。
どこまでも無表情で優雅なお迎え係君が、自分の仕事とばかりに恭しく扉を開いてくれたのだった。
「どうぞプリンセス。ごゆっくりお使いくださいませ」
(そうゆっくりもできんがな)
わたしは必死の思いでプリンセスルームに入った。
メイドさんはすでに退室している。今部屋は一人きりだ。
今にも爆発しそうな腹をおさえながら、がしっとベッドの上のビスクを掴むと、窮屈で痛くてたまらない細いベルトを力づくで取り払った。
腹よ自然の姿に帰れ。
今にもプリンスが追って来るじゃないか。
こうしてはいられないので、わたしはバスルームに飛び込み、内側からしっかりと施錠した。
バスルームは優雅な仕様になっている。薔薇の香りがたちこめていて、穏やかな照明がともされているが――ここでも深く追求してはいけない――その照明の出所がいまいちわからない。
もうもうと薫り高い湯気があがっているバスタブ。
これは、いつもそうだ。常に風呂が使えるようになっているらしい。
(追及してはならない……)
猫脚の優雅な形のバスタブには真紅の薔薇の花びらが浮いているのだった。
(何度見ても、嫌らしいホテルみたいなバスルームだよな)
プリンスの趣味を疑いたくなる。
その麗しいプリンセス風呂を眺めながら、金のレバーがついた洋式便所にやっとのことで腰掛けた。
薄ピンクのドレスなんざ、がばっと背中までまくりあげて、既にもうわたしは、この格好を続ける気がない。
(このままダンスパーティをトンズラして朝を待とう)
腹に籠っていたものは、えげつない音をたてながら無事に、しかるべき場所に放出される。
どぶるんばぶるん。
のりしお味と炭酸ジュースよ、もはやお前たちを口にすることはあるまい。今夜のことは人生のトラウマとなり、忘れることはないだろう。
(思えば長い付き合いだった)
のりしお味ポテチと炭酸飲料。
ヒキコモリニートになる以前から大好物だったな。
小学校の時には、オカンがおやつを取り締まっていたから、めったにありつくことができなかった。
中学校に入り、おこづかいを貰い始めてから、学校帰りにこっそり仕入れて隠れて部屋で喰いさくっていた。
ヒキコモリニートになってからは、のりしお味一袋がそのまま昼めしになることもしばしば。
旨かった。
それさえあれば人生極楽だとまで思っていた。
さらば愛しき伴侶。お別れなり。
どぶるどぶる。
未だ続いている。しばらくここから出られまい。
トイレに座りながら、わたしはリモコンビスクに話しかけた。
「あのさっ、色々と調整させてよ」
はぁーいなぁにプリンセス。ダンスパーティはまだ終わってないはずでしょ。
気が抜けるようなアニメ声でビスクは答える。ぐるりんと青い目玉が動いた。
未だ不安定な腹から思考を切り離そうと躍起になりながら、わたしはできるだけ小さな声で、ひとつまたひとつと、調整したい要望を告げたのである。
まずは、のりしお味と炭酸飲料の食事の変更だ。
「お口を押してね」
と、ビスクが言うので、小さく開いたさくらんぼ色の口に人差し指をあてがい、ぎゅっと押した。
ぐにゃん。空間が小さく歪んだ気がする。
(これで食事は変わったか……どう変わったんだろう……)
ビスクは無言のままでこちらを見上げている。いささか不安だ。どうなるやら見えないのは不便だ。
せめて、コンソメ味にしてくれや。明日の朝飯は。
のんびりしている暇はない。立て続けに調整しなくてはならぬ。
次は、トイレ攻撃をゆるめなくては。五分おきにトイレトイレと言われるのは勘弁なのだ。
わたしは、ふんとビスクを逆立ちさせると、まくれあがったスカートの中を静かに押した。
強く押しすぎたら極端なことになると学んだから、加減して。
それでもビスクは「ふうん」と変な声をあげたのでヒヤヒヤした。
再び、ぐにゃんと空間が歪み、戻る。
(ど、どうなったことやら)
あとは、細いだの華奢だのという褒め言葉の変更。
ついでに、プリンセスルームに常に流れている優雅なクラッシック、あれ全然わかんないんだよ。あいつを大好きなハードロックに変えられないか。
それからそれから……。
短時間で、ものすごい勢いでビスクに質問しては、人形の体のあちこちを押しまくったと思う。
トイレの中で一体何をやっているのか。リモコンビスクのほうも、押しどころによっては「うふん」だの「あっ」だの、いちいち気になる声を立てる。まるで変態だ。
思いつく限りのことを調整したつもりだ。
うまく調整できているかわからないが、ビスクが何も言わないところを見ると、なんとなかっているのだろう。
未だに腹はおさまらない。
「ううう」
ポテチと炭酸飲料責めは、胃腸に過酷なことだと身に染みて分かった。
トイレに座っている間も、げっぷは連続して出続けている。なかなか苦しい。
(一晩、トイレ漬けだな)
と思ったが、そうは問屋がおろしてくれなかった。
ばたんと部屋の扉が開く音と、つかつかとこちらに近づく気配がして、まもなくバスルームの優雅な金ノブが、がちゃがちゃと回り始めたのである。
「君っ、ちょっとっ、ぜいぜいはーはー、ちょっとっ……」
ぜーはーぜーはー。
大息をついている。弱弱しいプリンスだな。
なんとかここまでたどり着いたプリンスが、バスルームを開こうとやっきになっていた。
「そこにいるの分かってるっ……ばーばーぞーぞー……開けなさいっ……でーでーげーげー」
気管がどうにかなったのではないか。凄まじい息の音だぞ。
いかにもデキル男然としたイケメンプリンス。
マジカルジョーク社の元エース。
だけど、このころから体力はヒキコモリニート並みだったんだな。
ごとっ。
扉によりかかる音がする。ついに倒れかけたか。
(こんな弱弱しい男が、デフォルトプリンセスと恋だの愛だのやってたのかね)
ぎちゃぎちゃ。
白い扉はプリンスの体重がかかって軋んでいるし、金のドアノブはひっきりなしに回り続けている。
まるでホラーだ。
扉をたたき割って、「アイムホーム」とか言って、ぬんと顔を出すんじゃないだろうな!
仕方なくわたしは、未だ荒れる腹をこらえながら、身なりを整えた。
ずごごごご。金のレバーを引いて流すべきものを流してしまうと、しつこくガチャついているバスルームの扉の施錠を外したのである。
頭は良いが、物分かりが異様に悪いプリンスと、冷然と対峙し話し合う場面を思い浮かべていたんだよ、わたしは。
ところが、次に起きたことは、そんな格好のよいことではなかった。
ふわ?
薄ピンクのドレスをひるがえして、とっさにわたしは身をかわす。一瞬遅れていたら、顔を真っ赤にして、汗まみれになったプリンスに正面衝突していたに違いない。
扉によりかかっていたプリンスは、勢いよくバスルームの中に前のめりに飛び込んだ。
とっさにわたしの二の腕を掴んで堪えようとしたが、わたしの方が生理的に受け付けなかった。
「触るな」
思わず叫んでしまった。
思い切りよく腕を振り払うと、勢いでドレスの裾をまくりあげ、純白のパンプスでプリンスの黒くて細身のズボンの尻を蹴り上げていた。
「ぎゃっ」
プリンスはそのまま前方へよろめき、そして大きく倒れ、薔薇の花びら漂うプリンセス風呂に頭から突っ込んだのだった。
ばしゃー。
酷い。美麗なるエリートプリンスが大変なことに。
無残。ああ。
(そんなつもりじゃなかった……)




