逃亡
シャンデリアのキラキラが蝋燭の輝きを乱反射し、そこに松明の強烈な紅蓮が加わって、広間は明るいと言うより赤い。
つるぺかの床はごんごんに赤い光を反射して、なんだかちょっとホラーじみている。
ざわざわ。
なんて素敵なプリンスなんでしょう。知的なご様子でいらっしゃる。
プリンセスもなんて華奢でお美しいこと。絵のようだわ。
(プリンスはともかく、プリンセスが華奢ってのはもう止めてくれや)
飾り帯の下でぶるんぶるんしている腹肉とガス爆発寸前の腸をもてあましながら、わたしは思う。
デフォルト設定が残っているのは分かるが、なにかにつけて褒め言葉に細いやら華奢やら出てくるのは、このでぶった体を気にしている身には酷だ。嫌みかと思うじゃないか。
オカン女王の探るような目つきを横目で眺めつつ、とりあえずわたしは椅子に座ったまま、これからどうするべきか忙しく考えた。
考えるまでもなく、今この瞬間は、敵国のプリンスとプリンセスの出会いであり、おそらく一目で恋に落ちる感じなのだろう。今プリンスは、丁寧にオカン女王の前で腰をかがめて国代表としての挨拶を述べている。
その眼鏡の奥の怜悧なまなざしがこっちを見るのは、もうすぐだ。
(デフォルトプリンセスじゃなくて、このわたしがプリンセスだって分かった瞬間の奴の顔が見もの)
ぼこぼこ暴れる炭酸飲料とのりしおポテチ腹を必死でこらえながら、わたしは思う。
面白がっているわけではない。わたしだって、相手に見られて失望されるのは不本意だ。
(どうしてデフォルトプリンセスじゃないんだって思うだろうな)
さて、プリンスの挨拶が終わったようだ。
すっと顔をあげ、女王陛下をはさんだ席に座ろうとする――その瞬間だ――そっとわたしの方を見て――くるぞくるぞ――カッと目を見開いたのが何とも印象的であった。
お ま え 誰。
心の声が聞こえてきそうな顔をしやがった。
あんまりにも驚いたからだろう、プリンスはこっちを見たまま固まっている。
ざわざわ。
……。
広間のギャラリー共の目には、この状況がどう映ったものか。
「ま……」
「さすがのプリンスも、美しくて華奢で柳のようにしなやかなプリンセスを見て、くぎづけになられたご様子ですわ」
「恋に落ちたのかもしれませんわ」
「素敵」
多分これらもデフォルトのままのざわめきなのだろうが、この状況でそれを聞かされるのは痛い。
(いい加減に華奢やら柳やら言うのやめんか)
このままではいつか、訳のわからないキレ方をしてしまいそうである。
パーティが終わったらすぐに、あのリモコンビスクを押しまくってやろう。プリンセスに対する褒め言葉をなんとかするスイッチが、どこかにあるに違いない。
(どんな褒め言葉になるんだろうな、調整したら)
ちらっと、それが不安に思えた。
ぼこんどすん。腹の中のガスのダンスパーティはいよいよ激しくなってきやがった。
ブレイクダンスどころじゃない。大盛り上がりのランバダみたいじゃないか、ズンチャチャズンチャチャズンズンチャッチャ。
例えば。
「プリンセス、なんて可愛らしい事。丸々とした大福のようなお腹と、はちきれそうなお顔。お尻は安産型でいらっしゃってよ」
「細い三日月の様なお目め。開いているのか閉じているのか分からないご様子が奥ゆかしくて素敵」
(嫌み度更にアップ)
「あの」
プリンスがついに何か言おうと口を開いた。
確かにいい男なんだ。すっと通った鼻筋、細くて無駄肉のない長身の体。
眼鏡の奥の目は澄んでいて鋭くて、見つめられたら何でも見抜かれそうでドキドキするかもしれない。
さっきから、この視線が痛くて変な妄想に逃げていた。いかん。現実逃避している場合ではない。
女王陛下の表情がすうっと冷たく固まり、意地の悪い目つきで我々二人を睨み始めている。
そしてわたしの腹は。
ホオーオ、フオオーオーオオー。戦いの前のホラ貝はいよいよけたたましく。
ズンズンチャッチャズンズンチャッチャ、アハーイ、イエーア、オウイエレッツダダダダ、ダーンス。
(あかん肛門様もっと頑張れ)
肛門様。
「ふぉっふぉっ、わしはもう呉服屋を引退した爺ですから」
無責任にもそう言い放ち、今にも筋肉を緩めようとしやがる。冗談じゃない。この壇上で大音響でガス爆発など、とんだ見世物だ。
(放屁したとしても、デフォルトのギャラリーの台詞は同じだろうけれどな)
その時、完全に時と場合を無視したタイミングで、壇の下から「プリンセス、そう言えばトイレはいかがでしょうか」と声が聞こえた。
さっきここまでリードしてくれた、太ったおっさん――ただし顔は生真面目なメイド顔――が、満面の笑みを浮かべ、うやうやしく腰をかがめながら、こっちを見上げている。でかい声だ。だから、トイレという単語は広間中に響き渡り、もちろんプリンスの耳にも入ったのだった。
(デフォルトじゃない部分がある)
素早くプリンスは思ったのに違いない。さっと顔色が蒼白になる。
そして、殺されるのではないかと思うくらいの恐ろしい目つきになった。
愛しいプリンセスは、お前じゃない。
デフォルトプリンセスはダストボックスの中か。
プリンスの頭の中は、高速で回転しているはずだ。
じりじりとわたしににじり寄りながら、強張った顔で今にもなにか言おうとしている。
わたしを問い詰めたい思いと、ダストボックスに入っているはずのデフォルトプリンセスを早く救い出さねばという焦りが混乱しているんだ。
(なにしろ、ダストボックスに入ったもんは定期的に消去されるというし)
「プリンセス、トイレは……」
馬鹿のひとつ覚えのように、壇の下からまたおっさんが言った。
「ねえ」
引きつった顔のプリンスが右手を差し出すのと、わたしがばねのように椅子から立ち上がり、勢い余って豪華な椅子が後ろにひっくり返ったのは同時だった。どんがらがしゃーん。
もっと重たいもんだと思っていた。金銀きらきら豪華なお椅子。
あるいはわたしの立ち上がり方が派手すぎたのか。
「……」
こういう事態をプログラミングされていないのか、女王陛下は無言でこちらを見つめ続けている。台詞はない。
そしてわたしは。
「トイレ行ってきます」
まるで、小学校の授業中に挙手して、先生に言う時のようなぎこちなさで叫ぶと、脱兎のごとく壇から飛び降り、ドレスをからげて赤いじゅうたんの上を走り出したのだった。
来た道を逆走である。
「まあ、華奢で軽やかで蝶のよう」
「細いお体が妖精のよう」
好き放題なんでも言うギャラリー。
目ぇ血走らせてどすんばたんべとんと走るわたしが、蝶やら妖精やら。
和やかなクラシックミュージックが滑らかに流れ続ける中、わたしはばたばたと走って広間の大扉に体当たりした。
どべん。
物凄い勢いで扉の外に飛び出る。前のめりになり、おっとっと、と転び掛ける。
支えが欲しくて抱き着いたのは、扉を護る番兵さんの腰だった。鎧部分じゃなくて、その下のズボンのあたりだったから、予想もしていない事が起きた。
ずるっ。べとっ。
ベルトが緩かったのか。
番兵さんの茶色いズボンはずり落ちて、わたしも一緒に床にずり落ちた。
番兵さんは生真面目な顔のまま、純白のブリーフ姿で立ち続けている――自分で直せないのか。
どぶっ。
放屁しかけて堪えた。
げっぷが出てくる。のりしお味が忌々しい。
番兵さんは、扉を護っている間は直立不動という決まりでもあるのかもしれない。
ブリーフのまま立っている姿があまりにも不憫で、わたしは必死でずり落ちたズボンを腰まであげてやった。
「恐れ入りますプリンセス」
番兵さんからお礼を言われたが、申し訳なさ過ぎて返事すらできねえ。
そのまま立ち上がると、また裾をからげて走った。
お迎え係君が扉の外で待ち構えていて、わたしを追って一緒に走ってくる。
「プリンセス、トイレはいかがでしょう」
叫びながら追って来る。
(今こそトイレなんだよ)
だだだだだ。
どどどどど。
えんえんと続くプリンセスルームへの道よ。
この廊下がこんなに長いのは災難である。
ガス腹に震動はきつい。何度も上にこみあげてきて、嫌なゲップが出た。
(おうふ。限界近い。だめ……)
「君っ、ちょっと待って」
そこに、プリンスまでが追手に加わったらしい。
後ろから声が聞こえて、わたしはますます足を早めなくてはならなくなった。どどどどど。
城にトイレは他にあると思うのだが。
とりあえず、わたしが知っているトイレは一つしかない。
(プリンセスルームへ早く。一刻も、早く)




