8 年に一度の宴Ⅴ
同時に海斗がその場を離れる気配がした。クソ、と小さく呟いていた気がする。
何が起きたかは分からない。だが異常事態なことは分かる。だから深矢は海斗の気配を辿ろうとし――誰かにぶつかった。
深矢はよろけ、誰かの手がジャケットを掠めた。
――いや、違う。
スられた?
深矢の中に眠る泥棒の遺伝子がそう判断し、気付けば深矢の体はその『誰か』を追いかけていた。
何が起きたんだ?
辺りは静まり返っていた。そこは流石のスパイ集団だ。慌てふためく人はおらず、誰もがみんな状況を探ろうと感覚を研ぎ澄ませている。
誰も、この状況を受け入れている人はいない――本当に?
本能の赴くままに暗闇を駆けながら、その倍以上の速さで脳を回転させる。
海斗だ。あいつは照明が落ちた瞬間に逃げた。
海斗は状況を先読みするのが得意だ。この会場で、何かが起きることを予想していたとしてもおかしくはない。
じゃあ一体、何を予想していたんだ?
暗闇に目が慣れてくる。会場のフロアから離れ、舞台へと向かっているようだ。そして深矢の前を走る人物は、白のシャツに黒のベストを着ている――ウェイターだ。
つまり青嶋の生徒。そういえば照明が落ちる前、海斗は何かを言いかけていた。確かフィールドワークで――
ぴったり三十秒が経ち、照明が点く。その時には、深矢とその少年――青嶋の生徒は、舞台袖の誰もいない所にいた。そこには照明がなく、フロアからの明かりで仄かに少年の後ろ姿が照らされていた。
「今日はフィールドワークで来てるんだってな」
ウェイターの格好をした少年がゆっくりと振り向く。
少年は何かを舐めるように口を動かしていた。その左手には深矢のケータイが握られている。
「どんな課題が出てんのかは知らないけど、それ返してくれない?」
少年はどこか眠たそうに、しかし頷くわけでも否定するわけでもなく、ジッとこちらを見据えていた。冷たさを感じるその視線に既視感を覚える。
そして少年は静かに口を開いた。
「あんたが殺したのか」
ふわりと微かに甘い香りが鼻をくすぐる――チョコレートか。
いや、そんな勘繰りより注視すべきは唐突なその質問だ。
誰か、なんて聞かずともその人物は浮かんでしまう。
「物騒な質問だな。どうしてそんな事を聞く?」
「答えは二択だ」
眠そうな目つきなのに、まるで拳銃を向けられているかのような緊張感。全くもって意図が読めなかった。仕方なく、深矢は答える。
「殺すわけがない」
「証拠は」
「ない。これで十分か?」
しかし少年は微動だにしなかった。
「お前、そんなこと聞いて何がしたい?」
それを聞いても、少年は反応しようとしない。
「分かった、答えやすい質問にする。名前は?」
「アキ」
「本名は?」
そう深矢が尋ねたと同時に、少年の手元で深矢のケータイが震えた。
少年の意識が一瞬深矢を離れ、ケータイに移る。
――今だ。
その隙に深矢は少年との五メートル程の距離を詰め寄り、少年の手からケータイを掠め取った。
瞬間移動かと思わせるような早技に、少年が目を丸くする。
それを見下ろしながら、深矢は通話に出た。
相手は海斗だった。
『悪いな、お取り込み中』
「今どこにいるんだ?」
『ちょうど深矢の頭上だな。見るなよ。それより今から状況説明してやるから黙って聞いてろ。いいな?』
「……あぁ」
『俺は今、青嶋の生徒から逃げている。俺が手紙を持ってるからだ……最初は持ってなかったんだけどな、団長に押し付けられた。その手紙を持っている誰かを見つけ、それを奪うこと。これが今日会場にいる生徒達の任務だ。ただウェイターしに来てるんじゃないんだよ、あいつらは。それに生徒達は一つの手紙を狙ってるけどな、俺の予想じゃ、あともう一つ誰かが持ってる。数なんて言われてないだろうからな。とにかく俺はこのゲームが終わるまで時間稼ぎをしたい。頼んだぞ』
一方的に喋るだけ喋って、海斗は通話を切った。
時間稼ぎって……突然言われても困る。
「さっき一緒にいたお友達だろ」
少年――アキといったか――は相変わらず虚ろで鋭い視線を向けてくる。
取り敢えず、こいつからかな。
「そう。お前達のやってるゲームのルールを知らなかったから、教えてくれたんだ」
そう言ってから、深矢はズボンのポケットに軽く触れた。
「これを取ったら勝ち、なんだろ」
白い封筒をチラつかせると、アキは嘲笑した。
「そんなんで騙せるとでも思ってるのか。手紙はあのお友達が持ってるんだ。だから停電の瞬間逃げた」
「その前に俺がすり替えていたとしたら?」
「まさか。俺はずっとあんたを見張ってた。見逃すわけがない」
「それじゃあ、お前の目は節穴ってことだ」
挑発しながら、右手を掲げる。その人差し指には、深緑色のブレスレットが引っかかっている――ケータイを掠め取った瞬間に、アキの手首から頂戴したものだ。
アキは咄嗟に自分の手首を触って確認し、眠気が吹き飛んだように驚き目を丸くした。そして直ぐに恨みがましい目で深矢を睨んだ。
「……母親譲りってわけか」
「へぇ、ずいぶんと俺のことに詳しいんだな。ファンか?」
「そいつを返せ!」
焦っているようだった。よほど大事なものなのだろう。
「それじゃあ一つ交渉だ。ここで十分間、お前は……」
しかし言い終わらないうちに、アキは手近にあった金具を手に取り、深矢の頭上に向かって――海斗が潜んでいるところだ――投げつけた。それは刺すような勢いで一直線に飛び、天井裏の通路にぶつかる音と共に海斗の叫び声が微かに聞こえた。
そして首元のマイクに向かって指示を出した。
「ターゲットはA1エリアにいる。追え!」
それから取り分け用ナイフを取り出し、何の躊躇いもなく同じ方向に投げようとし――咄嗟に深矢はその腕を掴んだ。
危ない。海斗が負傷するところだ……それにしても、焦り方が異常過ぎやしないか?
「分かった。返してやるよ。だからそれをしま……」
アキがニヤリと口を歪めるのとナイフを構え直すのが見えた。
次の瞬間には、深矢の喉元があった場所にナイフが突き出されている。間一髪で避けた深矢は直ぐに距離を取った。
何を考えているのか、さっぱり読めない。
「初対面のお前の恨みを買った覚えはないんだけどな」
アキがナイフをもう一度構え、的確な狙いで突き出してくる。大した集中力と命中率だ。
「恨みじゃない。あんたが噂通りの奴かどうか確かめてるんだ……ん?なんだって?」
突然、アキは手を止め左耳を抑えた。仲間からの連絡だろう――意識が逸れた隙に、深矢は素早い動きでナイフを持った腕を捻り上げ叩き落とし、壁にアキの体を押し付けた。
クソ……ッ!と唸るアキを無視してその左耳に聞き耳をたてる。
『だから、もう一人手紙を持ってる奴がいたんだ!応援を頼む。追い詰めたはいいけど、この女……』
どうやら、海斗の読みは当たったらしい。しかもその相手というのが……
『この女、化け物だ。一人でほぼ全員を相手しやがって……B班で立てる奴はもういない。至急応援を頼む!』
……なるほど。
女。一人で複数人を戦闘不能にする凶暴さ。
そうくれば自ずと答えは分かる。
「どうする?仲間に加勢しにいくか、このまま俺とやり合うか」
アキを押さえつけたまま、深矢は尋ねた。同じタイミングでフロアの照明が一部暗くなり、アキの表情がぼやける。
読み取りづらい薄暗さの中、アキの体から力が抜けるのが分かった。諦めたのだ。
「……どっちみち、もうタイムオーバーだ。もうすぐ大学長の挨拶が始まる」
会場の方から司会の声と拍手の音が聞こえてくる。
ため息を吐き、振り払うようにアキは深矢の腕から逃れた。
「あー、任務は失敗。俺たちの負け。ターゲットが一つなら勝てたのに」
自分の後輩でもある青嶋の生徒達を、茜が次々となぎ倒す姿を想像し、深矢は苦笑を漏らした。
「確かに、分が悪かったかもな」
でも敗因はそれだけではないだろう。個人の能力、特にあの集中力は秀でているが、チームの中での単独行動に、過剰な自信からくる隙の多さ――まるで自分の事を言われているようだが――まだ工作員としては未熟だと、深矢にも分かる。
「まぁ別に、俺はアンタと話がしたかっただけだから、個人的な任務は果たせた」
深矢に背を向け、乱れた襟元を整えながらアキは言葉を溢す。
そして会場へと足を向けながら、途中でふと止まった。
「そうだ、答え忘れてたな。俺の苗字」
半身で振り返ったアキは、眠たそうな虚ろな目をしている。しかしその奥には氷のような冷たさが見え隠れしていた――どこかで見たな、その視線。
引っかかりを感じて、すぐに思い当たる節を探す。見たのはつい最近だ。それも頻繁に見ている気がする……今日だって。
あれ、と深矢は思わず息を飲んだ。
「……俺の苗字は『秋本』だ」
既視感の正体は、鏡で見る自分の顔だった。
「それじゃ、またどこかで。兄さん」




