他人の恋路を邪魔する奴は半魚半馬に蹴られて死んでしまう
確かに類型の無い問題だろう。妖魔の大人が人間の女児(5歳)と遊ぶ。彼女は要注意人物だが、具体的に何を注意すればよいのか分からない。幼女のお守りに任ぜられた妖魔としては一体何をすべきなのか、その妖魔、魔王の側近ガゼルロッサはもちろん、任じた魔王本人さえ判然としていなかったのである。いくらマリアが聖なる何者かから絶大なる加護を受けていたとて、まさか煮えたぎる溶岩の水路や鉄の棘が生えた床の階層で遊ばせるわけにはいかないが、彼女を「泳がせる」という目的がある以上は自由に行動してもらわないと困る。だが側近がまず行ったのは、食堂へ向かい幼女に栄養バランスの良い食事をさせることであった。
広々とした食堂の壁一面には大きな窓が配され、極々僅かな陽光を取り込んではいたがどうにも仄暗かった。規則的に並べられた円卓には妖魔が疎らに座り、己の食卓の上に自ら明かりを灯している者が多い。節電である。まるで暗い舞台の上にスポットライトが当たったかのように、皿の上の料理が照らされ暗がりに浮き上がる。極彩色の鳥が丸ごと蒸された大皿、灰色の汁の中に身を横たえる青色の魚、見るからに生肉……一番多いのは赤色の蛇煮込み料理と根菜サラダのセット、今日の日替わりだ。
「単純に、カロリーが必要だ。糖質とタンパク質は摂らせねば。昨晩から林檎しか摂っていないのだから、消化に良いものでないと。そして魔族特有の個性的な食材と味付けも避けなければ腹を壊す、ごくごく単純で基本的で無難で人間風がベスト」
淡々と注文をつける側近に料理鬼は渋い顔をしたが、普段から渋い顔なのでなかなか気づかれない。多種多様の魔族が棲む魔王城であるため、どんな時間、どんな注文であれ一応は聞く。その通り提供できるかはまた別だが、幸い料理鬼たちは人間用の料理も心得ていた。王国の姫を攫ってみたり、戯れに勇者一行をもてなしてみたり、頻繁に起こるイベントではないがいつ何時でも求めに応じる用意はある。
「パン粥はどうだ」
魔界の土地で育った小麦や魔界のイースト菌、魔界の牛から採られた牛乳、それらは人間の体に害を為さないものかは甚だ疑問ではあるが、それを言っては始まらない。とにかく強力に守られた幼女が食べるには最適解のように側近にも思えた。一つだけ確認はしておく、
「『牛』の乳だろうな」
「比喩でなく、誓って魔ルスタイン種の牛の乳だ」
牛ではない乳、人間界なら山羊の乳もよく利用されているだろうが、魔界では実に様々な生物の乳が飲用されており、時には白いだけで乳ではないこともある。魔ルスタインとはいえ何とか牛の乳であればさほど問題はあるまい。無愛想な料理鬼だが提案はプロ、と側近は感心する。――乳か、魔王さまの髪も流れる乳酪を思わせる白色で、星の河が煌めく色の白で、陰性を帯びた不気味で柔らかで恐ろしいけれども慕わしい地母神めいた髪なのである。そして良いシャンプーを使われているのですこぶる麗しい薫りがし、それと魔王さまの頭皮の、枕カバーの、芳しい。
「地母神なんて言ったら多方面に不謹慎かうふふ」
「おらよ、鬼肌程度に冷ましてやったが熱いかもしれん、気をつけろよ」
鬼であるにも関わらず何と細やかな配慮だろうか。その優しい見た目、香り、間違いなく人間の食べられそうなパン粥。潰したバナナ(比喩ではない)が甘味を加える隠し味。完璧だ。プラスチック容器に注がれている点まで含めて完璧な仕事だ。
「あっしはただの料理鬼、料理を鬼の如く作るのみ」
「素晴らしい、正に魔王の料理鬼に相応しい……」
「いただきまーす」
マリアは自らプラスチックの匙でひと掬いし、ふう、と息を吹きかけ軽く冷ましてから口に運ぶ。ほとんど息は出ておらず「ふう」と言っただけになっているのはご愛嬌だ。
「はふ」
やはり少し熱かったのかもしれない。幼女は口を開けたまま、しばらく深呼吸。やがて満面の笑みで、
「おいしい!」
料理鬼は満足げに頷いた。
「側近殿は何か食わんのかね」
「ミックスフライ定食、ライス大盛り」
暴食もまた魔のものの嗜み。徹夜明けの一食目であろうとも、揚げ物と炭水化物が食べたくなるのは仕方のないガゼルロッサの個性であった。「吸血鬼だから血液っておかしい。あれは飲み物だろ。腹に溜まらない」基礎代謝が落ちてからが問題だ。
幼女が皿の中をゆっくりと空にし、側近もミックスフライ定食ライス大盛りを10分で食べ終われば話は振り出し、幼女を魔王の城で自由にしかし決して危険に晒さずなるべく健全に好奇心のまま遊ばせる方法はまだない。
「では魔王さまに倣って遊ばせてやることにするか」
「どういうこと」
「好きなところに行っていいってこと」
思考努力の放棄であった。
「なにがあるの」
当然そうなるだろう、側近は水晶製の小型端末――Crystal Interface搭載最新モデル――を懐から取り出し食卓の上に置くと、「CrI、地図出して」と呪文を唱える。端末からの光が卓上に立体映像の地図を映し出した。事前に魔力を充填していれば簡易な操作で遠隔会話や記録保存・再現といった魔法が使える携帯型魔法補助水晶通称携帯、人間が小型機械を使い『電話』しているのを見て「あれいいな」ということで真似をして作られた。魔法を扱えない者も利用できるとあって瞬く間に魔界中に広まり、今日びでは重たい水晶球で遠隔会話を行うことも少なくなった。高度に発達した魔法は科学と見分けがつかない。
「すごーい、かっこいーい」
「今いる食堂が、ここ」
指差すと色を変えて場所が示された。
「これが、書庫。これは武器庫、あ、隠し宝物庫。この辺りは研究室。後はまあ、動く石像製作所とか動く鎧大回廊とか、これは名物癒しの泉風の毒沼罠」
指差して説明しながら「やっぱ5歳児向けじゃねえな」と呟く側近。幼女は相変わらず楽しげな様子で、「ここは」と一際広い区画を指差す。
「お、空中庭園」
またの名を屋上緑化、夏場はビアガーデンになる憩いの迷宮だ。
「花とか噴水とか普通に小綺麗だからいいかもしれない、東側庭園は」
西側庭園は酸の噴水とか鋼鉄の茨とかで趣きが全く異なる。参考までに。
「くうちゅうていえん」
「屋上に木を植えて庭を作ってるんだ、疑似太陽壱号が設置されてて人間界を模した研究実験場でもある。多分、魔王城で最も人間向きな空間」
「おにわなんだ、なにがあるの? マリアね、バラのおにわはいっぱいいったことあるし、ユリのおにわもあるし、はすのおにわもあるよ。はすのはっぱにのってカエルくんとがまくんとおしゃべりしたよ」
「かたつむりくんも居たんだろ」
「へー、よくしってるねえ」
魔王の庭にはドリアードやトレントが彷徨いているが、側近がついていれば心配ないだろう。
「行ってみようか」
「うん」
側近と幼女が屋上へ向かう一方、魔王は堕天使アルメニを伴って地下へと螺旋階段を降りていた。始祖、初代魔王との交信が行える祭壇へ繋がっている。
「何故お前を連れてきているか分かるか」
「さあ、あんまり階段が長過ぎて退屈だからですかね」
魔王は鷹揚に笑い、
「それもだな、だが肝要なのはまだ先、祭壇に着いてからよ」
石組みの階段の先は暗く闇に沈み、先が全く見えない。先導する魔法の炎が数歩先を照らす。
「中には我ひとりしか入れぬが、ひとりであれば入り口に控えさせるのを許されている。何事かあれば引き返し貴族院に報告せよ」
「私はそんなに信用されていますか」
「こうしてふたりでも、お前は妙な気は起こさないであろう。まだ時は満ちておらぬから」
「左様にございます。こんな他愛もないことで御身に大事があっては困りますわ」
唇を尖らせ眉根を寄せる堕天使、わざとらしい仕草に魔王も鼻で笑って返す。
「私でなければガゼルロッサでしたか」
「左様」
「若い者ばかり側に置くのは何故。陛下が魔王の座を得るより前からお仕えしている忠臣もいるではありませんか、あたしの師匠とか」
忠臣と呼ぶには躊躇われる男なのだが、何しろ弟子が魔王の首を狙って憚らない娘である。
「あれはもう引退したとか言って聞かんのだよ。確かに頼りにはなるが」
どこの隠居老人が戯れにホムンクルスの一個師団を作って「そういえば貴様の即位150年だから記念にやる」などと言い出すか。「いきなりそんなもんはいらん」と丁重に断ったはずだが、何だかんだで使ってしまっている。ちなみに全員女性型なのが特にありがた迷惑。
「竜の寿命は長いものでな。まだしばらくはあの座り心地の悪い玉座を降りる気はなし、お前の師匠がくたばった後も魔法馬鹿が居なくては困るのだ」
堕天使は少しだけ尋ねたことを後悔した。
「ところでガゼルロッサの奴はどういう役回りで」
「今のところは只の馬鹿だ」
枕の件はまだ尾を引いている。
「何を見込んでアホロッサくんを重用してるのかってところ、いたく気になっておりますわ。吸血鬼一族のコネですか?それとも懇ろですかしら?」
「あまり調子に乗るな」
強い調子ではなかったが、逆らいがたい語気にアルメニは押し黙った。魔王と会話をして何ら気後れしない方が難しい。
アルメニはいつもの『魔王切り崩し作戦』を考えることにした。まず押さえるべきは吸血鬼スカーレット家当主。吸血鬼どもは王位簒奪者の即位を全く認めようとせず20年ちょっとばかりゴネにゴネて結局『実力行使』で白竜が押し切った。勝因と敗因、吸血鬼は一族意識が高過ぎて、他種族は取り入って便宜を図ってもらえる可能性がある新魔王(希少竜種)に乗ることにした、つまり前魔王の首を獲った時点で確実に流れは来ていたということ。どう足掻いても希少竜種だけでポストは埋まらないしね。それで最近落ち目の吸血鬼、と言っても貴族院の席は据え置きで分家の三男坊が魔王の側近なのだから魔界における存在感は十分だろう。魔王に反乱するならこいつらしかいない。ガゼルロッサにもう少し上昇志向があれば、というか変な趣味がなければいい手駒にできたものを、側近間バランスの取り方がアクロバティックに過ぎる。もう一つ行けそうなのは森狼、荒れ地狼との勢力争いに敗れて随分弱まっているけれど。いやいや狼なんてまだ良い方、魔女谷は大魔女ワシリーサが隠れてから統率がとれなくなり、貴族院の席を火種に不穏な空気が燻っている……
アルメニは危うく転ぶところであった。底に着いたのである。彼女の予想に反し、つるりとした滑らかで黒い石材で覆われた空間は空調も良好なようである。
「祭壇というから原始的な感じだと思ってました」
「インターフェイスに空間の制限があるところは原始的な趣を感じないか」
「いいえ、懐古趣味なら徹底してほしいですね」
とはいえ神の反逆第一人者がつまらぬ物質界のしがらみに囚われている訳もなく、ただ単に何時でも何処でもコンタクトをとってやるほど暇ではないという当たり前の話である。
「魔王様、入り口というかここが行き止まりのようなのですが、私はどちらに居ればよろしいのでしょうか」
「床に魔法陣が刻まれているだろう、陣の外へ出ていろ。陣を動かせば我は精神界に引き上げられるから、5分経っても意識の方が戻らないようであったら上に戻れ」
「5分も仮死してる魔王様を見たら寝首を掻いてしまいそう」
しかし魔王を斃した者が魔王になれるとも限らない、むしろ現状だと大戦国時代の幕開けでしかないために、アルメニは己が態勢を整えるまでもう少し4代魔王には頑張ってもらいたかった。アルメニは存外巨大な魔法陣の終わりを探し(結局のところ降りてきた階段の際まで陣は広がっていた)、階段の適当な段に腰を下ろした。
魔王は陣の上で地に伏せた、意識が飛ぶので立ったままでは危ないのだ。魔法陣は複雑な呪文の詠唱を必要としない。緻密に魔法が構成された巨大魔法陣であるこのマインド・エミュレート・プログラム・メイン・ポーターは起動に大量の魔力を流す必要のあるほかは蛙がひしゃげた様な音が発音できれば簡単に演算を始め、刻み文字に紅い光を走らせ存在が上位世界に招かれたことを知らせる。
ようこそマインド・エミュレート・プログラムへ。
「魔王様丸くなって寝るタイプなんだ」
ガゼルロッサが喜びそうな情報を手に入れたアルメニであった。
食堂から屋上庭園へ向かうだけでもそれなりに長い道程だ。魔王城は迷宮としての完成度が高く、政治拠点施設としては面倒な造り、4代の魔王たちが増築に増築を重ね、余計に事態は混沌を極めている。魔界なので混沌は良いことである。そしてガゼルロッサは、彼の部屋を見れば分かる通り混沌が嫌いだった。混沌より整頓といったところだ。
彼は魔王城内での効率的な移動に努めることで、この現状に彼なりの整理をつけている。食堂から東側空中庭園までの最短ルートも『CrI』を呼び出すまでもない。ポイントは隠し通路の先にある宝物庫、ここの窓から5階のベランダに落ちることができ、ベランダから8階への転移魔法陣が設置されている骸骨兵詰所に入ることができる。「8番隊長殿、調子はどうだ」「カタカタカタ」「それは重畳。引き続きがんばってくれ、では」骸骨の言葉はよく分からないが雰囲気で。
側近のルート取りはかように特殊な道程であったので、幼女ときたら隠し通路の石壁が動けばはしゃぎ、隠し宝物庫の宝箱を開け、窓から落ちれば(言うまでもなく側近が抱えている)喜び、骸骨兵に「こんにちは!」という調子。楽しそうで何よりである。
「飛ぶのが一等早いんだが」
側近も飛べはしたが、吸血鬼の秘術、蝙蝠変化は何でもない移動に気安く使えるものではない。特に最近は良質な血を摂れていないのもあって不要な術の使用は避けている。
「魔王さまの血ぺろぺろしたい」
「『ち』をぺろぺろするの?おいしいの?」
5歳児は余計なことにも突っ込みを入れてしまいがちだ。
「俺には美味しい。と思うんだが、実際のところ魔王さまの血なんて吸わせてもらえる訳がない。すっごい濃ゆそう、飲んだら死ぬかも」
それで死ぬなら喜んでと言うのがガゼルロッサであった。
「ガゼルは『ち』がすきなんだ、へんなの。わたしはね、リンゴがすき」
「知ってる」
最後は梯子を昇れば、魔界には本来在り得ぬ強烈で温かな光差し込む緑の庭園があった。
吸血鬼は日光に弱い。広く人口に膾炙された弱点ではあるが、疑似太陽に灼かれた吸血鬼ガゼルロッサは「あちぃ」と呟いて顔を顰めるのみであった。『不死者の王』吸血鬼に致命的な弱点などあってないようなもの、日傘をさっと取り出して凶悪な日差しを無効化した。魔王の側近たる者、準備は怠らない。
幼女は「おおー」と感嘆し、「たんけんたーい」と駆け出す。「あ、おい、危ないぞ!」出遅れた側近、日傘を差しながら走る分ロスタイムが生じてしまったのだ。木々が茂る方へ、木漏れ日の中へ消えていこうとする幼女、蠢く木陰、近付く木々。
「待て、トレントだ!」
マリアは不思議そうに立ち止まるが一足遅く、彼女の目の前には灰色の木が、その枝からなる腕を伸ばしていた。
「人間――の子供――か? 何故に――」
「そこなトレント! 手出しは無用、その人間は魔王の命で俺が預かっている!」
「――聞こえぬ」
ガゼルロッサは舌打ちした。血も涙もない一般的な飢えた魔族のトレントである。力に訴えるのが早いが、疑似であれ日光の下では吸血鬼の身体能力は著しく低下する。もうすぐにトレントの枝はマリアの身体を絡め取ってしまうだろう、誰をも無傷でその場を収める自信はない。
いつもスマートにやれるものなら苦労はないか――ガゼルロッサが血の剣を取り出したときだった。一陣の疾風のように颯爽とその陰は現れ、瞬く間もなく幼女をトレントの腕から取り上げるとガゼルロッサの目前に彼女をそっと降ろしたのである。あまりの早さに何者かを把握することもできなかった側近、ひとまず馬上の人物に礼をせねばと顔を上げて凍りついた。
救い主はドレスを身に纏った半魚半馬の令嬢だったのである。
人魚を象った噴水がある広場はよく手入れがされており、ピクシーなどの小さな妖魔たちが暢気に戯れている。魔族の多くは暗がりを好むために、力の弱い者はこの東側空中庭園を好む傾向にあった。ここも魔王の城であるからには、木を茂らせた深くの方では気性の荒いトレントが棲みつきもしていたが、彼らもあまり動くことが得意ではなく近づきさえしなければ『安全』な場所と言えるだろう。
マリアはピクシーに髪を引っ張られたり頬を突かれたりして遊ばれている。礼もそこそこに先の森の中から逃げ出し、この噴水広場でようやく一息ついたガゼルロッサは改めて半魚半馬の令嬢に声をかけた。この魔界にあっても一際異彩を放つこの御令嬢、間違いなく昨日の舞踏会にいた招待客である。寡聞にして名は知らないが、相応に高い身分であるはずだ。
「先ほどは危ないところお助けいただき、感謝いたします。私は魔王の臣下ガゼルロッサ・バーントシェンナ」
令嬢はその胸鰭で自らの携帯を操作し(手に相当するようである)、翻訳魔法を起動させた。
「いいえ、構わなくてよ。わたくしはシェゴール石灰海伯が次女エリーネ・ド・シェゴール」
シェゴール伯爵令嬢はその頭部の魚顔を一切動かすことなく、鈴のような声で応じた。彼女の目は真横に付いているために、側近はどこを見て返事をすべきか迷ったが、とりあえず頭部を漠然と眺めながら「レディ・シェゴール、賓客である貴女に助けられたとあっては礼をせぬ訳にはいきませぬ」
「あら、そうですの」と令嬢は小首を傾げるような仕草をし、
「では、わたくしのお話を聞いてくださるかしら。少々退屈していたところですのよ……わたくしのことはエリーネと呼んで」
「エリーネ様、それでは礼にもなりませんよ、勿論喜んでお聞きします」
ピクシーたちはマリアのいい遊び相手をしてくれているようだ。側近は横目で彼女の様子を確認すると、エリーネの貴族令嬢らしい願いを聞き入れることにした。多少生臭いがこの程度で済むなら安いものだ。
「ガゼルロッサ様、貴方様も昨日の宴にいらしておりましたわね。魔王様のお側についてらした」
「はい、エリーネ様にはご挨拶せぬまま中座を、大変失礼をいたしました」
「よくってよ、実はわたくし、社交界にはあまり興味が持てないものだから。叔父になるオンゾル伯が熱心に魔王様にわたくしを紹介して――わたくしもさすがに逃げ出したいと思ってしまいました」
ホホホ、と上品に笑う。魔王も同じ気持ちであったことだろうと、側近も微笑み返した。
「そうですわ、ねぇ、魔王様にはあまり本気にされないようにお話しいただけないかしら。それをお願いにしますわ。叔父の手前言い出せなかったのだけれど、わたくし、その、将来を誓いあった方がいるものだから」
側近は心配ないとかぶりを振った
「魔王さまは同じ竜種の方でなければ后に迎えるつもりはないと言っておられた。愛人を囲っているということも――ないようだし、相手のある若いご婦人に執着するような方ではありませぬ。ですがそれとなくお耳に入れるようにいたしましょう」
「ありがとう、安心しましたわ。とはいえわたくしの恋路も道ならぬ道、身分違いと種族違いの困難な道」
長い話になりそうだな、とガゼルロッサは思った。
「シェゴール伯爵もご存知ないのですね」
「そうですの。わたくしの相手というのは一介の半魚人の庭師に過ぎません。名をアンドリュースというのですけれど」
「半魚人、上が人で下が魚の半魚人ですか」
「おっしゃる通り」
上が魚で下が馬の令嬢が言った。
「種族が違うといっても、魔王さまよりも似合いのように思います」何しろ半分は同じだ。
「ええ、それでも彼は庭師でわたくしは伯爵令嬢」
エリーネは儚げに微笑んだ、ような雰囲気を放った。
「アンドリュースはとても優しくて、真っ直ぐな心根の青年なのです。でもそれだけではお父様がお許しになるはずもなくて」
「それでも諦めるわけにはいかないのですね」
「そうよ。本当に愛し合っているのですから、諦めるなんて選択肢はありえませんのよ」
魔族令嬢らしく堂々とエリーネは言い切る。
「アンドリュースは遠くの海にふたりで逃げようと。逃げるのは好きではありません、でも、手段を選んでいては……後悔しては遅いのです。わたくしはやり通すつもりでいますの。貴方、聞かせてしまいましたが、邪魔立てはしないでね」
「勿論です」邪魔立てするメリットもない。
「貴方、どう」
「ええと、何か」
エリーネは悪戯っぽい目っぽい感じでガゼルロッサを見つめた。
「恋とかされてるかしら」
「ええと、さあ、どうでしょう」
「魔王の側近殿、ガゼルロッサ様、ときたら。魔王様のご寵愛厚くいらっしゃるとか」
「えええ……」
己の名前がまさか東の果ての海辺を領地とするシェゴール伯爵の御令嬢にまでそんな意味で知られていたとは。
「その辺りは、その、魔王さまの名誉にかけて申しますが、そういうタイプの寵愛は頂いておりません」
「まあ。片想いでいらっしゃるの」
「そうです……」
何を言わされているのやら。
「おっしゃる通り魔王さまに恋慕の情も抱いておりますけれども、否定はいたしませんけれども」
「確かめられたことはなくって?」
「確かめられるまでもないというか、魔王さまは竜種の女性以外は娶るつもりはないということですから」
「娶られるつもりでしたの」
「娶れると思うの」
「殿方同士で娶るも娶られるもないですわよ」
正論には違いないが、この話題を振った当魚(馬)の言うことではなかった。
「俺は種族も違えば女でもなく、魔王さまもそういう事に興味を示されたことはありません。良いのです。心からお慕い申し上げていることが伝われば、それで能力を認めてお側においてくださるのですから、それで十分に報われているというものではないでしょうか」
「でも、それでは貴方、寂しいではありませんか」
そんなことはない。だって相手は魔王なのだ。我が一族あらかた焼き払ったという恐ろしく強大な魔王。この城に吸血鬼は自分のほかになく、故郷では散々仇敵と教え込まれてきた。それにも関わらずその頃からずっと、焦がれてきた。初めて出逢った彼は巨大な竜の姿で、白い鱗はぎらぎらと光を照り返し無数の白刃を纏っているかのよう、丸い瞳は爛々とふたつの月が輝き、口元からは紅い焔が零れだしていた。思った通りに力強く、思った以上に美しかった。「吸血鬼の子か」「ガゼルロッサ・バーントシェンナと申します」「ガゼルロッサ。貴様の父も強かな男であったな……存分に楽しませるがよいぞ」裂けたような大きな口から紅い天鵞絨の舌が覗いた、笑ったのである。その笑顔を見たとき、憧れが急速に手元に近づく予感がした。あの方の焔を間近く感じることができる、あの方の鱗を撫で上げることができる、あの深紅の舌さえいつか我がものにできよう。
「そんなことはありません」
相手は魔王なのだ。側近と呼ばれるまでにどれほど苦労したと、このお嬢さんは思われているのか。
「寂しいなんてそんなこと。ひどい屈辱、生殺しなのですよ。触れたいものが傍にあるというのに、手に入れたいものが手の届くうちにあるというのに、しかし今は、触れる夢が見られるのです。吸血鬼領では焼き滅ぼされるときに出逢うばかりと思っていた方と言葉を交わしている。毎日が触っては砕けそうな幻のように危うい日々なのです」
「ガゼルロッサ様。砕けてしまってからでは遅くってよ。今は夢幻ではないのですわよ、貴方が夢を夢のままになさっている、そうでなくて」
ガゼルロッサははっとエリーネの顔を見上げた。目が真横を向いた正面からは捉えどころのない顔、誇らしく伸びた背筋。毅然とした居住まいにガゼルロッサも姿勢を正す。
「エリーネ様」
「何か」
「貴女様御自身の恋路の果ては何と考えられる」
「この身の破滅、大方そのようなところですわね」
魚眼は恐ろしいほどに何の色も映さない。
「幸福な未来も信じております。ただ、万事上手く行くものではないと、弁えているつもりですわ。そのときも後悔はきっといたしません。アンドリュースを諦めれば、きっと死ぬよりつらいはず」
「エリーネ様。ガゼルロッサめも貴女様の幸福な未来を信じます。悲劇の恋は似合いませんよ」
ガゼルロッサはエリーネの胸鰭を手に取り、
「互いの幸福を祈りましょう、貴女様のお陰で臆病風に吹かれていたことに気が付きました。もう一度感謝を申し上げます」
エリーネはにこりと笑ったような気がする表情を浮かべた。
「よい心がけですわ。貴方の幸福も始祖様にお祈りします」
思いがけず誓ってしまったもの、とガゼルロッサも笑った。「はは、ではそろそろ、マリア、は」見渡すが広場には幼女の姿が見えない。
「しまった……おいピクシー、マリアはどこだ」
あっち、とピクシーたちは木の茂る中へ続く小道を指差す。
「懲りないやつ、くそ、急いで見つけないとまたトレントだかドリアードだかに襲われる」
「ガゼルロッサ様、よろしければわたくしにお乗りになって」
エリーネが申し出る。
「どうせ暇をしておりますのよ。わたくしもお話に夢中になってしまいましたもの、遠慮なさらないで」
「何と礼を言ったものか、かたじけない。お言葉甘えさせていただきましょう」
失礼、とガゼルロッサが跨る、何となく生臭い匂いが強く感じられた。
「ではしっかりとお掴まりあれ」
ガゼルロッサは悩んだ末腰に腕を回すと、御令嬢は風を切るように駆け出した。
竜はガンガン寝る設定です。