座り心地の悪い椅子
その肌もとい、鱗は髑髏の白色、肩から垂れる長い髪もまた流れる乳のよう。物語における必定、顔は当然美しい細面であるし、つり上がった目には愁いを帯びた色の瞳が輝いていた。ただし金色、獰猛な竜の瞳である。ときおり骨じみた長い指が緩く巻いた髪の間を滑る。その頭に載るのは冠でも兜でもなく、優美な曲線を描いて黒檀の色で艷やかに輝く一対の角。黒色大理石の素晴らしく趣味の悪い彫刻が施された座り心地度外視の玉座の上で君臨しているその男、人間離れした相貌の壮年の男、彼はこの国の王であり、ここまでくれば当然彼の王国は人類の国ではなかった。
半ば人類どころではない。ここは魔界である。
もうしばらくどこかで見たことのある豪奢な光景にお付き合い頂きたい、贅の極みなど底が知れているのだ。玉座のあるは高いところと相場が決まっているため、男、魔王陛下は気怠げに階下を見下ろしていた。きざはしが何製なのか気になる方も多いであろう。鮮血のルビーである。魔界なのでやはり、深紅と漆黒は魔王の威容を示すに欠かせないところであるし、当の魔王が先述の寒々しい白色なのも好相性。「ルビーの階段て。メンテナンス代を考えろよ、総大理石でも十分だろうが」と内心思う魔王も、財政が安定している今はとりあえず現状維持でいいと考え、常軌を逸した座り心地の玉座に一応クッションを敷いて鎮座し時々心地悪そうに身じろぎするのだった。
階下、広間では妖魔どもが舞い踊っていた。男も女も光沢のある色鮮やかな衣服で着飾っていたが、そのうち結構な数が「これは人間共の生き血で染め上げたドレス」だの「色とりどりの眼球を贅沢に使ったネックレス」だのを自慢している。この魔界では人間の魂こそが一種のエネルギー源として重要なリソースであるから、魂を抜き取った後の肉体は長い間、搾り滓でしかないとされていた。そのゴミをファッション業界が「サイコーに残酷でクール」と再評価したのはこの50年程のことであり、かような最新のファッションに身を包む紳士淑女たちは魔界でも指折りの名士たちの息子に息女。名士たちご本人は「年寄りの舞踏なんぞ」と言いながら、伝統的な魔界の獣の毛皮を纏い、壁際で談笑。
「魔王さま、ご気分はいかがですか」
「最悪だな。最悪の座り心地だ」
魔王の側には若い吸血鬼の男が控えている。日焼けとは無縁の肌、蒼白さは魔王にも引けをとらず、漆黒の髪と深紅の瞳の定番セットは魔王の威容を示すためにデザインされたかのごとし。側近の吸血鬼は隙なく階下に目を遣りつつ、退屈そうな魔王のために折々話しかけていた。
「その公園のベンチにも劣る拷問椅子によく1時間も座っていられますね」
「魔王の玉座に対してよくもまあ、遠慮もなく言うな」
「魔王さまの腰が心配です。その必要もなく頑強でしょうが、折角ですしお立ちになって……踊られては」
側近の提案に魔王は低く喉を鳴らし(苦笑いである)、
「独りで踊れと?滑稽だな。1時間も立ちっぱなしで老い耄れの話し相手なんぞしているお前こそ行ってきたらどうだ。許可する」と顎で指す。魔の姫君たちが玉座を見上げ、否、その隣の美青年を見て何事か囁きあっていた。しかし側近は意に介さない様子。
「では一緒に踊りましょうか」
「お前は阿呆か」
天然コントが行われている玉座の一段下には二人の狼獣人が控えており、彼らも退屈に立ち尽くしていた。とは言え彼らは魔王直属の近衛兵で、踊りに加わろうという気は毛頭ない。年嵩の狼は考える、(それに、1時間も平穏なのは僥倖も僥倖)
狼の読みは的中し、広間の正面扉から入った小柄な影がルビーのきざはしを一瞬で駆け上った。影としか言い得ぬ速さであったが、狼たちは素早く槍でもってそれを制した。
「ちょっと、あたしよ」
小柄な影は赤毛の女悪魔で、露出は高いが飾り気のない服、即ち舞踏会の客ではなく、暗殺者でもなく、魔王の部下。背中の翼は息切れした肩が上下するように揺れていた。比喩なしに全速力で飛んできたというところだ。狼たちも彼女のことはよく承知していた。魔王の側近のひとりで得意の火炎魔法を辺り構わず放つ危険悪魔である。
「ああ、悪いな、アルメニ。だがお前でも陛下の許可なく玉座に近付くことはできない」
「で、アルメニ。そう急いでどうしたというのだ」
「陛下に、ご報告申し上げます」
悪魔は口元に笑みを浮かべていた。ハプニングが大好きなのだ。
「城内で人間の子供を捕らえました」
魔王もまた口の端をつり上げた。招かれざる客への歓迎である。
城で人間の子供を捕らえる、恐ろしく由々しき事態である。この魔王城は魔界の中心に聳え立つという立地上、あらゆる魔物を寄せ付けない造りをしている。ましてや人間の子供、城の遥か手前に設置された魔法障壁で蒸発されていなければならない。その前に人間界と魔界を隔てる次元回廊、沸騰海、剣の山脈、瘴気で濁りきった空気などを乗り越えねばならない。つまりあり得ない。その子供が大人しく捕まっていることさえ、むしろ不思議なものである。主催者不在でも十分成立する舞踏会を早々に立ち去った魔王は、事態を重く捉え自ら地下牢へ赴いた。
「お前はどう考える」
問いは側近に対してだ。側近ガゼルロッサ・バーントシェンナは淀みなく答える。
「高位の魔の力なしには到底成し得ません。囮か何か、読めませんが、魔王さまの王座を狙う者の策略である可能性が高いでしょう」
「魔王城内に転移魔法を仕込む程の魔力、それに地位か。こんな回りくどい手でな、誰であろうな」
魔王は既に答えを持ち合わせているよう、若い側近を試しているのだ。
「玉座を狙うほどに玉座に近いもの、思うに俺の大叔父バガルバドス・スカーレットであれば」
躊躇わず身内の名を挙げる側近。
「ああ、お前が内通しているならそう不可能な事ではない、だが」
「ええ、俺は魔王さまを裏切りなどしません。愛してます」
「いや、吸血鬼のやり方にしては妙なものだから……」
突然の告白に若干動揺する魔王であった。
「まあ、罠であったとして、多少遊んでやるくらいの甲斐性はある」
「さすが魔王さま、不敵で素敵です」
魔王は側近の妙なスイッチを入れてしまったことに不安を覚えつつ、人間の子供が留置されている牢の中へ踏み入った。過去の残虐な痕跡を至るところに染み付かせる部屋の中では鉄錆めいた匂いが鼻につく。客人には応急措置として悪魔がふたり見張りに付いていた。血濡れた床の中央に、とりあえず持ってきたと目される食堂の椅子(「なぜ食堂の椅子なのだ」と落ち着いてから魔王、悪魔のひとりが言う「アルメニ殿が暇なやつを思念拡散魔法で募ったとき、自分は食堂におりまして。第六感にピンと来たのです、『あ、これ食堂の椅子要るな』って」魔王は御自ら命を下すことにした「第六感は今後一切信用しないように」「はーい」)、座り心地上々なその上では件の人物が脚をパタパタと揺らしていた。床に足が届かないのだ。
「こんにちは!」
良い子だな、と魔王は思った。見かけからおぞましい人外の男たちに対してこう朗らかに挨拶ができるのだから、余程躾がいい娘だ。魔王城に不法侵入するのだからこうでなくてはならない。側近は吸血鬼が銀玉鉄砲喰らったような顔をしていた。
子供は少女、いや幼女だった。魔族たちは人間の年齢には疎いが、まだ一桁ではないだろうか。身の丈は大柄な魔王のおよそ膝丈ほどで、輝くような金髪を赤いリボンで二つに結っていた。ツインテールである。小綺麗で整った身なりは魔王城の地下牢にはあまりに似つかわしくない。血の匂いが染み付いた小部屋で恐怖のひとつも浮かべない能天気そうな顔もまた魔界にはあまりに似つかわしくない。薄い青色の瞳――ここが人間界であれば「空色」と言ったものだろうが、生憎そのような空は魔界にはない――がどこの光を捉えたやらきらきらと輝いている。
「何者だ」
さしもの魔王も警戒を滲ませる。
「わたしの、なまえは、まりあ、です!5さい!」
「迷子かな」と側近。「馬鹿か」と魔王。
「どこから来た」
「おうち」
「どうやって」
「おうちのね、リンゴ畑をね、たんけんたいしてたの。そしたらね、ドアがあったからね、はいったの」
「迷子かな」と側近。「馬鹿な」と魔王。
この後何度も聞き返したが、以上が経緯の全てである。
魔王自ら接見した結果、幼女からは微量な魔力も認められなかった。魔族の働きかけがあるとは考えられない。聖なる力の加護を受けていることも魔族の送り込んだ罠であることを否定した。となると、問題は彼女ではない。おそらく彼女は転移魔法に迷い込んだ無関係の被害者であり、転移魔法を仕込んだ者の目的は別のところにあるはずだ。人間界と魔界を繋ぐ門を必要とする者、人間界には一人しか可能性がない。
「もうそんなに高い水準の『勇者』が育っている、ということか」
魔王の呟きに側近は目を瞠った、がすぐに合点のいった様子で、
「近頃は人間の魂のみならず肉体も利用の対象です。死体ごと魔界に持ち帰るのは効率的ではないと、特に需要の高い部位のみを持ち帰るやり方も多いと聞いております。正確なデータは取られていないので如何程の数かは……」
「間違いなく怨みを買うやり方だ」
「人間狩り自体もこの50年は増加傾向で行われております。怨みが魔王討伐の気運を高め、勇者候補の若者たちの動機付けとなる。おかしくありません」
「しかし、城内に転移魔法を張られるとはな……偶然の産物と思いたいが」
珍しく険しい顔の魔王に、側近も体を強張らせてしまう。
「すぐに警戒態勢を敷かせます。アルメニの話では、彼女を見つけた際にすぐ配下のものに転移魔法の痕跡を捜させたそうですが既に失せていたと。目的を終えたために消えたと考えるのが妥当です」
「あいつでさえ痕跡も掴めない、と。妙だ。まさか……いや。憶測ばかりでは。狼どもに城内隈なく調べさせておくように」
「ところで畏れながら魔王陛下」
ここまで口も挟まず幼女と手遊びをしていた見張りの悪魔が唐突に、
「マリアちゃんどうするんですか」
マリアちゃんは屈託のない笑みで白面外道の男を見上げた。無垢だ。聖なる加護さえ受けた質の高い魂はコレクターズアイテムとしての価値さえあるだろう。
「ねえねえ、あなただれ」
恐れを知らぬ幼女。
「魔王。4代魔王白竜のフィーザ」
「5歳にそんなに律儀に答えるなんて魔王さますき」
幼女は花が咲いたように笑った。
「まおう。フィーザ!」
魔王も聞く者皆震え上がる重低音で哄笑した。何かがツボに入ったのだ。
「俺だって魔王さまの名前呼んだことないのに!」側近が衝撃を受けていた。
「こやつは家に帰してやらねばなるまい」
その発言に側近ガゼルロッサはじめ臣下たちは「え?」と口を揃えた。自分の欲望に忠実に、が美徳で悪徳の魔物たちには意見が揃うこと自体、珍しいことである。
「殺すには利がないだろうが」
側近は即座に噛みついた。主君にも容赦なく噛むは吸血鬼のお家芸である。
「いやありますよ。見てくださいよこれ、超リッチなテクスチャーの魂じゃないですか。専門家ではないですが特Aランク時価5億魔界円相当って感じじゃないですか。肉体利用が怨みを買いすぎたって話は確かにしましたけどね、でも魂の奪取って俺たちの存在理由じゃないですか。天に地に還るべき魂を掠め取り魔界ですり潰すこそが、始祖が為した神への叛逆の理念に適うってことじゃないですか。慈悲はありえませんよ魔王さま」
畳みかけるガゼルロッサに魔王は落ち着き払って返す「戯けが」
「我等の存在理由はそのような些事ではない、始祖の代から神への叛逆である。魂を貶めるはその手段でしかないと知れ」
「では、どうか、ご教示ください」
「ああ、利がないと言ったことは撤回しよう。お前の言う通りに今、特Aランク時価5億魔界円相当の利用価値の高い魂ではあろうから。これが成人するころにはランクが付けられんだろうよ」
ガゼルロッサのふた噛み目。
「成人するころには凡庸の魂に堕している可能性が高い、生後間もない魂はBランク相当とされていますが、その20年後は70パーセントがCランク、人口全体に占めるAランクは2パーセントもなく」
「ランク判定が想定する程度を遥か上回る特A以上を魔界が奪取した例は3件のみ。あの最高位の魂を魔族に転生してやったのは、魂コレクション以上に冒涜的だったろう」
側近ではなく悪魔達の方へ。短足気味な悪魔が「そっすね、発想が狂ってて流石魔界って思いました」と無表情に答えた。
「可能性は低いです。ロマンは理解します」
ガゼルロッサは今だ不満げな顔。反抗的な態度を崩さない彼にも魔王は気分を害した様子はなく、
「第六感だな」
(先程第六感を禁じられた悪魔が「なんでやねん」と呟いたが無視された。これは慈悲によるものかどうか)
ガゼルロッサが、若くして側近たり得るのは、その経験の浅さを自覚しデータを片っ端から収集して判断しようとする努力家ぶり(そして魔族が他人のために努力するなど驚天動地である。「愛してます」ということだ)、それを見込んで半ば「育ててやろう」と側に置いているのでもある(こちらも魔族的には気が狂ったような発想だが、魔王たるもの凡百の常識に囚われないことは大切である)。
つまりガゼルロッサより千年以上も長い魔王の経験が告げたのである、血塗れの拷問部屋で親しみの欠片もない魔物に囲まれて尚けらけら笑う5歳児が、しかも5歳児の癖に何の徳を積んだか凄まじい質の魂で、魔王さえ目が眩んで判別不能な篤い神の加護を受けて、こいつが大物にならなくてどうすると。
「じゃ、転移魔法を準備しましょう」
側近は少し投げやり。
「おじょうちゃん、おうちは何丁目何番地何号よ」
首をひねる幼女。致し方ない、5歳児だから。
「俺の感触では、彼女から自宅の場所を聞き出すのはまず無理だと思います」
言うのは短足気味な悪魔。マリアと今までずっとグー・チョキ・パーでマクスウェルの魔とかラプラスの魔とかの科学派魔のものを作りながら話していたらしいのだが。
「周りがリンゴ畑。名前はマリア。5歳。世話していた女性がエレ。親の名前は分からない。家の周りを離れたことはない。以上」
「フルネームと住所は言えるように躾けておくべきでしょう、真っ先に」
「事故ってテレポートしちゃったんだから仕方ないんじゃないの。真っ当な親がいるかどうかも怪しいしさあ」
「ええい、転移先座標は人間界の適当な都市に設定します」
投げやりな側近を慌てて止めに入る短足な悪魔、ちなみにもう一人の悪魔はマリアと魔界あやとり中。
「せめてどこの大陸かくらい特定しようよ!」
「適当に決めようとした俺が言うのも難だけどせめて国くらい特定しないと意味ないだろ」
「じゃあしよう、特定しよう」
「飛ばされた転移魔法の痕跡も見つからないのに本人がこれじゃ無理だって!もうどこ飛ばしたって同じ!魔界まで飛んできて命があるだけありがたく思えってんだ!」
「ガゼルロッサ、待て」
魔王の制止には即座に反応し、
「だってしょうがないじゃないですか」
と言い訳。
「誰もお前には魔法を頼んでいない、アルメニにやらせようと思っていた。それはそれとして、彼女は転移魔法の件を調べるためにもう少し手元に置く」
あからさまに呆れ顔。
「転移魔法の痕跡は唯一これのみ。今すぐ帰すなどとは言っていないではないか、お前らの様子がおかしいから少し放っておいたが」
おかしいから放っておいたとはどういう理屈なのかさっぱり分からない、と思ってから「でもそういうところがすき」と呟いてしまう側近だった。
「では、今すぐの話、どうしますか。マリアちゃん」
悪魔は側近の様子に怯えながら。魔王は珍しくも小さく嘆息した。
「ガゼルロッサでさえあの反応ならば、他の者に任せては何が起こるか知れたものではない。とりあえずは私の部屋で遊ばせておけ」
突如として発狂し何事か叫ぶ側近、
「俺でも魔王さまの部屋入ったことないのに!」
「ではお前が付いていろ」
「やったー!」
側近は幼女と手を取り合って喜んだ。
「俺もマリアちゃんと遊びたい!」
「貴様は自分の持ち場に戻れ。椅子も元の場所に戻せよ」
悪魔達はしょんぼりした。
退屈極まりないとはいえ催したのは己であるし、中座した舞踏会に戻らねばなるまい。4代魔王は稀少竜種であり、悪魔であった3代魔王の王座簒奪者である。地獄の貴族たち、そして始祖と呼ぶ魔神もまた悪魔、悪魔たちの流儀に則り典雅な享楽に付き合うも、この魔界の統治者たるに相応しい貴顕であると知らしめておくに必要な退屈である。もっとも、漆黒の玉座に腰を落ち着けているばかりでは何の示しようもないが……。
魔王は眉間に深く皺を寄せる。うんざりだ。もとより彼は弑逆の末地位を手に入れたのだし、いわば敗者の悪魔文化に摺り寄る必要などあったろうか。華やかな衣装と優美な音楽、そして理知的で諧謔に富んだ会話はそもそも悪魔流の社交であった。社交界の妖魔たちも大半は悪魔の範疇。そして何より魔王は踊るとかいうキャラじゃない。内心、幼女の子守でもしている方がましだと考えていたのだった。……そうもいかない。
魔王はガゼルロッサに転移魔法の調査とマリアの監視(保育)を指示し、城内に結界魔法を張るよう申し付けていた他の側近即ち悪魔アルメニ・アートス・ウルティナスを代わりに呼んだ。彼女の実力から言って、頼んだ仕事はとうに終わり昼寝でもしている頃合いだったからである。果たして女悪魔は寝起きの声で召喚に応えた。
「舞踏会はあいつの方が向いてるでしょ」
「お前は子守に向いていない」
違いないわ、とアルメニは伝統的漆黒の雨染めの露出度高めバッスルドレスを手際よく装備。深紅のルビーが嵌め込まれた腕輪をごろごろ着け、駄目押しで赤髪にブラックオニキスを飾って高齢者層を意識した魔界トラディショナルスタイルで戦地入り。(多少色気が足りないが)御令嬢がたを妬かせなければよいのだが、と魔王は要らぬ心配。
アルメニ嬢が何人の殿方と踊ったかはさておいて、魔王は大きな白斑の入った緋色獅子の毛皮のマントを床に滑らせ、無難に場をやり過ごしていた。魔王には配偶者も近親者もないので、まあこうして子飼いの有望株に貴公子の相手をさせるなどして狙いを拡散させているのである。ガゼルロッサの馬鹿野郎は魔王の側を離れたがらないし(もはや揶揄して側近と言えば彼の渾名である)、アルメニには火の気が多すぎだが、美男美女の効果は偉大だ。魔王は基本的に差し向けられる好意に対して愛想よく応えてやればいいのだが、何しろそれが一番面倒で、気を抜くと今だに手前の娘を紹介されたりするのも輪を掛けて面倒(間違っても竜に半馬半魚の嫁はいらない)――だからガゼルロッサだったのに。
ガゼルロッサは魔王の自室でよろしくやっていた。幼女マリアを読み聞かせで寝かしつけることに成功したのである。魔王の自室に魔界名作絵本「ぐらしゃ・らぼらす太郎」があったことは奇跡と言うほかない、それともこの奇っ怪な名作をマリアが熱心に聞いていたことこそが奇跡か。素晴らしくふかふかな魔王の自室の椅子の上で静かに寝息を立てはじめた幼女にそっと上掛けを乗せてやり、側近は良からぬことを始めた。なるべく全年齢向けでありたいため多くは語らないが、まず最初に魔王の枕の匂いを嗅いだということだけでも十分であろう。
「くんかくんか、フヒヒ、あー、あ、魔王さま、よだれ垂れる、うふ」
こんな感じ。
アルメニが居れば「もっと他にやることあんだろうがよ!」と苛立ちの小火騒ぎになるところだが、だからこそ自室に幼女とふたりでも問題ないと言える。この様子にはこの様子で深刻な問題があるが知らぬがイブリース。
このように側近は物凄くうつつを抜かしていたので、マリアの身に起きたささやかな奇跡(マリア本人も眠っていたので全く気がついてはいない)をみすみす見逃してしまっていたのであった。とは言え仔細を見ていたところで若い吸血鬼にはそれが何事か分からなかったのは確かだろうが。
まず始めに空間が揺れた。それは幼女の手元で、蝋燭の火が空気を暖めているような微かで静かな揺らぎである。次に揺らぎの奥から滑らかにせり出した――赤く熟れた林檎であった。宙に現れた林檎は幼女の膝の上に落下した。現象は以上が全て、その頃側近はベットとマットレスの間に挟まっていた。そういう性癖もあるだろう。
一通り堪能して盛り上がった後賢者の刻に入った側近は、幼女の膝の上に異物があることをようやく知った。よく見た上でそれが人間界の林檎だと分かれば(魔界には林檎は自生していない)、どういう意味かはすぐに導き出された。二度目の転移魔法である。
まずいな、と側近の蒼白い顔から血の気が更に引いていった。何しろその瞬間を見ていないので、転移してきたのが「林檎だけだったのかどうか」魔王さまに報告できないからである。目を離したこと事態が失態だが、とりあえず何か仕方ないような辻褄を合わせなければ、例えば憎たらしくおぞましいあの虫※と格闘していたとか、吸血鬼にありがちな軽い貧血に見舞われていたとか、いやもうトイレ、トイレでいいか。
※あの虫……ゴキブリ
ガゼルロッサの数ある致命的な欠点の一つに、考えていることが口から洩れているというのがある。魔王が退屈で面倒な宴に色々と理由をつけて早々に引き揚げ、長いマントや豪奢な刺繍の長衣、紅色のスピネルをあしらった頭飾り等の重たく嵩張る衣服を控えの間でさっさと侍従に預け、下着も同然の薄衣一枚で「まあいいか今日はもう湯浴みして寝れば」と思ってから自室に面倒を預けていたことを思い出し、舌打ちしながら部屋の扉(観音開き)を開けた時、側近は「トイレでいいか」と呟いていた。
「貴様の墓場がトイレでいいかって話か」
何ごとか分からなくとも様子をみればとりあえず「やらかして」いるのは分かる。魔王は眉一つ動かさず冗談を言った。冗談である。側近は飛び上がらんばかりに驚いた。
「魔王さま――魔王さま、汚物をといれにながしちゃえばいいかなって」
「汚物って何だ」
「わたくしめのたいえきとか……」
「お前……」
嘘とまことが境目をなくし余計に酷い劇薬となった――魔王は軽く目を閉じた。鼻の奥が生臭かったが、それが先ほど熱心に勧められた半馬半魚の御令嬢の御芳香か否か、もはや分からぬ。上半身馬で下半身魚ならまだ「なるほど卵生同士ですからね」と言えなくもなかったが、上半身魚で下半身馬の愛人はさすがに無理がある。魔王の本来は巨大な竜だし、こうしてヒト型の姿をとれるのでヒト型のモノは性的対象に入れてもいいかなって感じだが、魚顔の表情は読めないし馬の身体は上に乗る(実用的な意味で)イメージしか湧かなかった。逆に向こうは中年竜でいいのだろうか、当方火炎・毒・カオスの三種のブレスを吐くのだが、それで息が上がると炎が漏れ出してしまったりするのだが、焼き魚になってしまったりする恐れがある点は考慮されているのか。そもそもあの御令嬢の年齢等全く推し量れなかったのだが、彼女は一体何者なのか。ただ、もう少し詳しく聞いたら縁談が進んでしまいそうな雰囲気があったので多分これで良いのだと思う。そう、仮に、世界におっさん竜のベッドとマットレスの間に挟まりたい性癖の吸血鬼の男と生臭いぬるぬるの半馬半魚のレディしかいなかったとして――魔王は目を開いて現実を見ることにした。幼女の膝の上に林檎が転がっている。
「あれのことなのか、ガゼルロッサよ」
そうであってくれという気分である。シーツが使い物にならないとかいう話であってくれるなという願いである。
「左様にございます」
実は枕カバーが使い物にならない。現実は非情である。
魔王は罰として、側近にこの得体の知れない林檎を検分させることにした。これが何らかの罠で、側近の身に何ごとか起こったとて、業の深さが招いた哀しい宿命であろう。それで赦そうと思うくらいには魔王も側近に情があった。
ガゼルロッサは林檎を拾い上げ、手の内で転がし、眺めまわし、匂いを嗅ぎ「爽やかな匂いですね」、齧りついた。「もう少し慎重にやる気はないのか」魔王は呆れを通り越して心配そうに言う。
「うっ」
「ガゼル?」
「うまい」
月並みである。
「普通の林檎のようだな」
「普通ではありません、うまい林檎です」
「そうか。良かったな」
最悪死んでいたところだ。見計らったようにマリアがぱちりと目を覚ました。
「リンゴだ!」
そういえば、彼女の家の唯一の手がかりは「リンゴ畑」なのであった。偶然とは思えない、この林檎もおそらく彼女の林檎畑のものなのだろう。幼女一人送り込んで閉じる転移魔法の不可思議さを思えば、不安定にその場に力が留まっているとでも解した方が納得できそうだ、と魔王。魔法の理論には明るくないが、感覚では既知の魔法ではなく新しいものかひどく古い「忘れられた魔法」であろうと推察する。
「食べるか」
「うん」
と側近は躊躇いなく食べかけの林檎を差し出し、幼女も疑いもせず口に運んだ。相も変わらず何ごとも起こらない。
「魔王さま、俺、少し馬鹿みたいなこと考えてしまったんですけど」
「構わん、言ってみろ」
馬鹿みたいではなく馬鹿だから。
「魔界に人間が食べられそうなものってあんまりないですよね」
正確には「食べられないことはないが進んで食べる気にならないもの」ならある。例えば吸血鬼は赤ワインを好み、当然人間界のワインの定義からは大きく外れないが、魔界産であるからには「葡萄の樹には毎晩新鮮な処女の血を遣っています」というような魔界らしさが申し訳程度でも求められるのだ。
「この林檎は彼女が食べるために送られてきたのかなと思いまして」
「なるほど、馬鹿馬鹿しいな」
それも今のところは否定できなかった。魔王は魔王で側近以上に馬鹿馬鹿しいことを考えている。転移魔法で送り込んだのがこの幼女と林檎でしかなかったならば、これが『勇者』かもしれない。ふかふかな魔王の椅子の上で、マリアは満足げに林檎を平らげた。
H28・9・3 完結記念一挙改稿を行いました。特に本話では冒頭部の内容記述を改めています。詳しくは活動報告に記載。