Prologue
ふわり、ふわり。
ぷかり、ぷかり。
魂は優雅に宙を踊る。
残されたか細い意識だけを頼りに、辿り着けない何処かを目指す。
何時になったら終わるのか。
何時になったら始まるのか。
今も私は夢の中。
誰に憚れる事もなく、私の亡霊は今日も踊る。
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気がついたことは二つ。
私は既に死んでいると言う事と、私は既に私ではないということ。
月明かりに照らされた街角を、疲れきった顔で歩いて行く大人たち。
私がなれなかったモノ。
私が拒絶したモノ。
そんな大人たちの姿が、少し哀れに思えてくる。
今日も、夜風が心地よい。
梅雨に入るまでは、もう少しだけこの温かな風に浸っていたいと思う。
梅雨になったら──どうしようか。
流石に雨に打たれながら人間観察なんて、そんな暗い時間の使い方はゴメンだった。
あぁ──でも、紫陽花は少し、見てみたい。
普段部屋の中で過ごしていた私は、直接紫陽花を見るという経験をしたことがない。
そうだ、雨が降り始めたら紫陽花を見に行こう。
少しフリルの付いた白い可愛い傘を持って、紫陽花を見ながら雨の音を聴く。それはなんだか、とても心地よさそうだ。
ただ気がかりな事はある。
一体、私は梅雨が来るまでこの世界に留まることが出来るのだろうか?
それを考え始めると、少し不安になる。
私が死んで、もう二ヶ月の時が過ぎていた。
私の体は既に灰になり、残った骨は土の中。
骨壷なんてものは多分残されていない。
だって私の家族は、私の骨に執着しないから。
あったとしても、それも深い土の中に埋められている事だろう。
私には既に、帰るべき場所なんて残されてはいないのだ。
だからこうして今も、何処とも知れない街角をブラブラと歩き続けている。
せめて──誰か私の姿を見てくれる人が居ないものか。
でも、それでいいのかも知れない。
だって私は、一人には慣れているのだから。
それでも、少し寂しいと思ってしまうのは、私がまだ人間でいられるからだろうか。
矛盾していると思う。
誰かとお喋りしたいという想いはある。だけれども、私は誰に憚れる事もなくこうやって一人で彷徨うことに言い知れぬ充実感も感じている。
きっと、そういう矛盾こそが、私をまだ人間としてこの世界に留めてくれている要因なのだろう。
「──いえ、貴女はもう人間ではないですよ。そもそも、元々人間としては不的確なんですお、貴女は」
不意に、背後から声が聞こえた。
雑踏の中、一人の少女が私の背後に立っていた。
「帰りましょう。本来の、あるべき姿に」
その言葉が、私に向けられた言葉だと理解するのに、少しばかりの時間差があった。
今まで数人ほど、私の姿を見てくれた人はいる。
しかしその数人は、決して私に言葉を発してくれはしなかった。
息も絶え絶え、私がどれだけ追い求めても、皆逃げ去ってしまうのだ。
仕方のない事だろう。
だって私は、既に死んでいるのだから。
死人の姿を見てしまうと言うのは、生きている人間にとってとても不幸な事なんだということは、いくら世間知らずな私にだって分かることだ。
でもこの少女は違った。
自分から、私に話しかけてくれた。
彼女となら私は、いい友人になれるのではないだろうか。
そんな、抱いてはいけない期待を抱かせてくれる。
ドクン──と、あるはずのない心臓が鼓動した。
「どうやら、もう遅かったみたいですか……貴女死んでから何人食べました?」
食べた?
私は何も食べていない。
死んでから──いや、死ぬ数日前から、私は何も食べていない。
思い出した。
私は今、とてもお腹が空いている。
空腹感が、食欲という欲望が──私の意識を支配し始める。
少女を見る。
可愛らしい少女だった。
日本人ではないのだろう。淡い金色のショートカットに、透き通った藍色の瞳。
小柄だが、その内側に強い意思を秘めていそうな鋭い目つき。
──とても、美味しそうだった。
「貴女、私が怖くないの?」
恐る恐る、訊いてみる。
既に私は、この少女が豪勢なディナーと同じくらいのご馳走にしか見えていない。
ドクン──と、絶えず、幻想の心臓が鼓動し続ける。
今まで感じたことのない体の火照りに、神経の全てが痛いほど焼けていく。
「怖くはないですねー。だって、たかが死人じゃないですか」
少女は、羽織ったパーカーの少し余った袖から手を出してくる。その手には、小さな、とても小さな紙切れが──
「yrだかなんだか知らないですが、漂う場所を間違えましたね」
「yr……?」
私が尋ねるのと、少女が動くのは同時だった。
そして気がついた時、私の体はとても可愛らしい金髪の少女になっていた。