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この小説には、連載を通して性的表現(同性愛含む)・グロ表現・鬱展開・キャラクターの死等を含みます
これらの表現・展開を含んだ記事には、頭に注意書きを載せます
ですが、その記事を飛ばされた場合、その内容についての上記の表現を避けたまとめなどは用意いたしませんので、ストーリーが分からなくなる場合があります
「続きが読みたい!」とのせっかくの声を頂きましても、どうしようもございません
なお、著作権は放棄しておりません
無断転載・無断引用等はやめてください
以上の点をご理解の上、お読みください
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※注意※
キャラクターの死亡表現あり
穏やかに、緩やかに、死へと向かう初老の男は優しい肌触りのシーツを握る。自身のまぶたが揺れ、上まぶたと下まぶたが離れる瞬間を噛みしめる。もう、二度とその感覚を味わうことがないと悟っていた。
最後の目覚めである、と。
「おじい様? おはようございます。今日もラガジは晴れですよ。羅沙領土の北部は雪が降るそうですが」
最期の時間を捧げた愛しい子が、将敬の手からシーツを奪う。当然とばかりにシーツの代わりにその子の手が将敬の手に収まった。反対の手には息子が同じように手を収めさせている。
将敬の最期の目覚めをこの場にいる者たちも悟り、そして覚悟しているらしい。体を起こすこともない将敬は薄く笑って、愛しい子と愛情を上手く伝えることができなかった息子に甘えた声で願った。
「榛呀に触れたい」
羅沙将敬という人間がその人生の半分以上を皇帝として過ごした事を、この場にいる全員が知っている。しかし、担当医である相木も、息子である鐫も、明津の騎士である東雲も、明津の息子であるはずのキセトも、皇帝になる前の彼を知らない。もちろん、この記憶を眺めている連夜も。
唯一、将敬がまだ第一皇位継承者であったころを知っていた榛呀は、彼の寝室には入らない。今も入り口の近くで室内の様子を、将敬の様子を窺っている。将敬のお願いも聞こえているだろうが、決して部屋には足を踏み入れなかった。
キセトが知らなかったことであり、連夜も知ることができない約束があった。それはすでに命を落とした人間との約束だった。
将敬が皇帝として娶ったたった一人の皇妃。彼女は自らの夫の騎士が女性だと聞いて嫉妬した。皇妃である自らよりも近く、長く寄り添う騎士。男であれば何の問題もなかった。だがそれが女であるとういことは、彼女の自尊心を大きく傷つけたのだろう。
『正式な側室になりなさい。ならば陛下に寄り添うことを許します』
側室になって正式な皇妃よりも身分が低いことを明らかにせよと言われて、榛呀は首を振った若き自分を思い出す。自分は騎士だという自尊心もあった。騎士の自尊心と皇妃の自尊心をぶつけ合って、互いに折れなかった。結局二人の女を仲裁したのは、間にいる男以外ありえない。
将敬が決めたのだ。榛呀を決して寝室へは入れないと。いかなる状況下であろうとそれを皇帝として彼は許さないと。それを榛呀は忠実に守ってきたし、のちに皇妃は皇子を二人もその腹で生んだ。若くして亡くなってしまったが、それでも彼女の自尊心は守られていたはずだ。
皇妃が居なくなってからも榛呀がこの部屋に入ることはない。将敬の決断に従っているのもあるが、皇妃の目が物語っていたのもある。
――貴女は陛下が好きなのでしょう?――
武芸の道を進む榛呀としては一生の不覚。女であることが自らの武器であった皇妃としては当然。隠していた気持ちを見破られ、見破った瞬間でもあった。
城の生活の中で少しずつ壊れてしまった皇妃は、元々はとても聡明だったという。榛呀が恋心を認めたならば、妾としての在り方を許しただろう。将敬の気持ちが榛呀に向けられたことも受け入れただろう。だからこそ、皇妃である彼女から榛呀が側室になることを提案したのだ。
それは榛呀にも理解できていた。その聡明さに榛呀は敗北した。彼女の下に位置する女として愛しい人と寄り添う人生か、女を捨てて騎士として、誰よりも近い存在として彼の傍にいるか。その二択に榛呀の将来は絞られた。
騎士である榛呀は、この部屋には入らない。敗北者として、唯一勝利者に捧げた約束だから。
「炎、その人を、こちらに連れてきてもらえるかしら」
優しい声で榛呀も願いを口にする。キセトは横たわる将敬を抱えて入り口に運んだ。部屋には入れずとも、長い時間を共にした従僕として榛呀にはすべきことがある。
榛呀が将敬を抱きしめ、将敬も抱きしめ返す。他の誰にも理解できないであろう、感情の共有だった。
「将敬」
皇帝でもない羅沙将敬を、上田榛呀の声が呼ぶ。皇帝であろうとなかろうと、榛呀は羅沙将敬という男の従僕なのである。
将敬はもう瞼を閉ざしていた。ヒューと喉を息が通る音が弱々しい。榛呀は小さく頷いて、彼の言葉を代弁しだす。
「この人の右手に指輪があるの。それを取って」
キセトは砂人形でも触るかのように、壊れないように壊れないように、と丁重に将敬の右手をとる。小指に輝く鈍い青が目を引いた。
「将敬のね、いつかの誕生日に送ったのよ。何十年も昔だから忘れちゃった。騎士の誓いをたてたの」
何十年も外していないのか、右小指は指輪の型がついていた。キセトは自らの手の中にこの指輪があることを飲み込めていないらしい。ぼんやりと金が混じる青を見つめている。
部屋の隅で東雲高貴は片方しかつけていないイヤリングに触れていた。騎士の誓いというそれは、主従にとって特別な物だと彼は知っていたからだ。そしてそれを他者に預けるという意味もなんとなく彼にはわかった。
キセトの手を離れて将敬の右腕はだらしなく床に落ちる。呼吸の音も耳がいいキセト以外にはもう聞こえていないだろう。
「わたしごと、貫きなさい。わたしは主を守る盾だから、彼を失う時はわたしが失われた後。炎。あのね、わたしの手にも指輪があるのよ。それも一緒に持っていってね」
『別れは必要だ』
瞳を閉じたままの男の声が聞こえたような気がした。過去の言葉をキセトが思い出しただけか、本当にその音があったのか。
キセトが剣を構える。キセトにとって病で弱り切った老人と、その老人に縋りつく初老の女性を殺すことなど簡単すぎた。剣すらも必要なかったと言えるだろう。
剣を離して、床に伏せって、涙を流す。ただ、声は出さなかった。鐫がキセトに寄り添う。東雲は榛呀の手から指輪を外してキセトに握らせる。連夜はそれをあまりにもあっけない最期だと思った。
『炎』
後ろからの声。それに振り返る連夜とキセト。辺りはすでに城ではなく、連夜の知らない土地だった。キセトの手には鈍い青の指輪が握られていて、キセトの力のせいでひびが入っている。連夜は大切にしろよと呟きながらキセトを追いかけた。声の方向へ、理解も分析も捨てて、縋りつくために走っている友の姿はあまりにも哀れだ。
声は何度でもキセトを呼んだが、二度目でわかる。これは幻聴だ。キセトは何かに縋りたいばかりに幻を作りだした。誰か助けてやれよと連夜が叫んでも無意味。これは過去で、連夜はただ見ているだけ。連夜は幻聴が導く先を見た。せめてその先に救いがありますように。
神というものがいるのなら、連夜はその存在をぶん殴りたいと思う。なぜ叩き落した後でしか救いを準備しない! と怒りを覚えたからだ。キセトが向かう先にいたのは一人の女性。救いは救い。
「だめよ、キセト。弱るのも逃げるのもいいけれど、ありもしないものに負けちゃだめ」
「亜里沙、俺は……。俺……」
「いいの。私はキセトが生きててよかった。将敬さんのことは残念だけれど、私は嬉しいとも思うの。貴方から話を聞くだけでその人が貴方を愛してくれたことがわかるから。最期まで貴方を愛してくれたから」
亜里沙がキセトを包み込むと同時に、ほんわりとした温かさを感じた。やっとキセトは周囲を確認しだす。羅沙城でもない、羅沙領土ですらない場所。人がいる町のようだ。亜里沙が不知火から追い出されたのちに定住した町か。
「亜里沙。これ、亜里沙に持っていて欲しい。きっと俺はこれの価値を理解できない」
「指輪……? 綺麗ね」
手の内にあった指輪を亜里沙に渡して、キセトは弱々しく微笑んだ。その指輪に入るひびに今気づいたようだ。もう壊しかけてしまった、と自嘲しているようだ。
「お爺様はわかれが必要だと言った。別れは必要なものだと思うか?」
「再会を約束してから少しだけ別々に過ごす時間が私たちには必要かもしれないわ。でも、他の人は知らない。今は、貴方が自分で立ち上がれるまでこのままで」
温かい、と零れた声はキセトのものか連夜のものか。あの泣き虫のキセトが今は泣いていなかった。亜里沙に身を任せ、なんでもない話をする。ここまで見ておいて、その話を聞くことはとんでもなく悪いことだと思った。連夜はキセトが立ち上がるまでの間、見ること、聞くことを拒否する。
キセトが立ち上がり、亜里沙が見送る。軽いキスをして亜里沙はキセトを送り出した。必ず未来は貴方に添い遂げると、重い約束を軽く口にする。
「少しの間、別々に過ごしましょう。キセト。私、一度だけでもいいから一人でやってみたいの」
「……わかった」
さようなら、とキセトは微笑む。優しい笑みだ。連夜が見た最期の鐫に少し似ていた。そして、別れが必要だとキセトに告げた、あの男にも。