押しには弱い
変な空きがあると教えて頂き、且つ行間があいていると読みづらいとご意見もあり直しました。内容は変わっておりません。
教えてくださってありがとうございましたm(__)m
馨から食事の誘いがあったのは、馨が相馬からディナーチケットをもらってから五日後のことだった。
その頃、既に透子の中で、馨は“たまたま親しくなった物好き脚本家”と処理されていた。
母親とまだ連絡を取り続けているかは分からないが、自分が気にすることではない。気軽に発した言葉に透子自身が振り回されてしまってはいけない。相手はイケメン脚本家として有名で、女優と付き合っていたと言うではないか。勘違いして痛い目を見るのは自分自身だ。それはもう、お見合いの方がマシだったと思う事態になるだろう――そう、自分に言い聞かせて、久々の連休、幼馴染の池端里奈の新居を訪れお喋りを楽しみ、気持ちも新たに早番勤務に入った、まさにそんなタイミングだった。
「――っ! ゴホッ!」
お昼休憩でお弁当を広げ、甘く味付けしたじゃこ玉子焼きを頬張りスマホに届いていたメールを開封し、そこに書かれていた文章に咳き込んだ。
「わっ! 木下さん、大丈夫ですか?」
一緒に休憩に入っていたアルバイトが驚いて声をかけたが、透子は頬張った一口がするりと喉の奥に入っていき、返事ができない。最早涙目である。
コクコクと頷くと、「お茶で流し込んだ方がいいですよ」と事務所の片隅に設置されているティーサーバーからお茶を入れて目の前に置いてくれた。
「あ、ありがと……ごほっ」
暖かい緑茶を一口啜り、再びメール画面に目をやる。
『今日、仕事上がりに食事どうですか?』
差出人は、神馬馨である。
透子が早番だと知っているような内容――リーク元は母親に違いない。
自分に言い聞かせてきたあの台本がいとも簡単に壊れていく。
気にしないって、決めたのに――どうしてこのタイミングで、また現れるのだろう?
ひとしきり悩み、透子はやっと返事を打った。
『分かりました』
そっけない返信だったが、精一杯考えた結果だ。
もっと言いたいことや聞くべきことはあったが、会って直接聞いてスッキリしようと思った。
『化石女を新作に出すんですか? 何でも聞いてもらって大丈夫ですよー』
『だから、母の件でチャラ、とかそんな気を使わないでください』
『見合いをせっつかれてる行き遅れに勘違いされたら、それこそ厄介でしょう?』
――ヨシヨシ、こんな感じ。
私も大人だし。ここはサラッと話して『私で良ければ手伝いますよ』と締めれば、馨も変に気をつかわなくてもいいだろう。
「いらっしゃいませ。こちら、カバーはいかがなさいますか?」
頭の中は馨と会ってからのシミュレーションをしていても、表面上は営業スマイルを顔に貼り付けて、テキパキと手を動かす。
長年の勤務で、体が勝手に動くのだ。こんな時は有難い。
たった一通のメールで動揺してるなんて、表に出したくない。
この場に馨とのことを知っている人物がいるわけではないのだが、35歳独身女の複雑な女心であり、妙なプライドだ。
それでも就業時間が近づくとソワソワしていたらしい。
「木下さん、どうしたんですか?」
「へっ?」
突然話し掛けられて、思わず気の抜けた返事を返してしまった。
「時計、何度も見てるから……」
「と、時計? ああ、えっと……時間が狂ってきたから、電池の取替え時期かなーとね……」
「ん? 合ってるみたいですけど……?」
「きゅ、休憩の時合わせたのよー。さて、今日は帰りに電池取替えに行こうかなーっ。時計屋さんやってるかしら。急がないとねっ。定時で上がるから、よろしくね」
「あ、ハイ。お疲れ様でした」
(嫌だ……やっぱり動揺してる)
今までは突然目の前に現れたから、何時にドコドコで会うとかそんな約束していなかった。その場の勢いに流されたのも大きいと言うか、考える間もなかったというか……。
足早に事務所に向かいながら、そんなことを考えていると、ふとあることに気付いた。
(男の人と待ち合わせ、するのって何年振りだろう……?)
坂本との約束は破られた。
ふたりで会うことはあっても、大抵仕事終わりにそのままご飯に行ったり、映画に行ったり。改めて約束したことは、無かったと思う。
坂本の前は――。
(学生の頃に……あ、あれはグループだったからカウントしない方向で? ええと……中学の時に幼馴染のお兄ちゃんに強請ってカウントダウン初詣行ったけど……アレはお兄ちゃんが親に押し切られた形で渋々……しかも私着物だったから迎えに来てもらったんだったわ。もしかして、初めてじゃない!? どうしよう……気付かなきゃ良かった……私、こうして約束して待ち合わせに向かうのって、初めてかも……)
今まで動揺しないように、動揺しないように、と唱えていたのが無駄になった。
異性とふたりきりの待ち合わせデビューが、35歳という残念さは置いておくとして、それに気付いてしまった以上、顔がカーッと熱くなるのは止められなかった。
(どうしよう、どうしよう……私今困った顔してるのかな。ニヤニヤしてたらどうしよう)
ロッカーを開けると、すぐさまドアの内側に付いた鏡を覗き込む。
いつもと変わらない丸い顔がそこにはあった。
「よ、よし! 大丈夫よ。大人の対応、大人の反応。何事も大げさに受け取らず、サラッと受け流す!」
「そんなこと言ってる時点で、大人じゃないと思うわ」
「明日香! ……居たの?」
奥の休憩用テーブルで、コンビニ弁当の唐揚げを頬張っていた明日香がするどく突っ込んだ。
「居たの? って……入って来た時、おつかれーって言ったじゃない」
「――聞こえなかった」
「耳に入らなかった、の間違いでしょ。――馨さんから連絡あったの?」
「……今日食事でもどうか、って」
「そりゃ突然だわね。まぁあたし達みたいにシフトがある仕事でも無いし……でもだからってなんでそんな動揺してるのよ。初めてのデートじゃあるまいし……え!? まさか初めてなの!?」
「た、多分? 仕事上がりの流れで食事とか映画とかはあるけど……ちゃんと待ち合わせしてって、初めてかも……」
明日香にそう告白すると、透子の顔は困ったように眉が下がってしまった。
「まぁまぁ。頑張りなさいよ。取って食われるわけでも……無いとは言い切れないけど……ええと……まぁ、行ってらっしゃい」
明日香はモゴモゴと、なんとも歯切れの悪い激励を、口にした。
取って食われるわけでも無いとは、言い切れないとはどういうことなのだ……。自慢ではないが、男性の食指が動くタイプではない。
きっと化石女設定に詰まったのだ。そうに違いない。そう言い聞かせ、明日香がぬるい視線で見守る中、透子は職場を後にした。
待ち合わせは母を迎えに行った、あの駅だ。
改札を前に、思わずキョロキョロと、端から端まで見渡してしまう。
「透子さん、こっち」
背後から名前を呼ばれ、振り返ると駅前のロータリーに、角ばった形が可愛らしい、アイスブルーの車が止まっている。
軽いクラクションの音で、そこから覗く馨の顔に気付いた。
「お車だったんですか? あの……どこに?」
「そんなに遠くは無いよ。駅で言えば5駅なんだけど、最寄り駅から遠いし駐車場があるお店だから車の方が楽かと思って。さ、乗って」
「は、はい。ええっと……」
「いや……タクシーじゃないんだから後部は……ふっ、くくくくっ」
そんなことを言われても、いきなり助手席はハードルが高い。
初待ち合わせに(ということは、事前のお誘いメールも初である)動揺していた先には、もっと大きな山があったということだ。
思わず後部座席のドアを開けると、驚いたように声をかけた馨は、とうとう耐え切れずに吹き出してしまった。
「……すみません。あの……そんなに笑わないでもらえますか」
「ごめん……ふふっ。もしかして、男の車に乗るのって初めて?」
早々にバレて、透子は頷くしか無かった。
男の車、とか、そんな風にズバリと言わないで欲しい。否が応でも意識してしまうではないか。
「意識することないよ。だって女友達とドライブに行く時だって助手席に乗るでしょう?」
「そう、ですね」
あくまでも“彼氏”は、母親に対する振り。馨と透子は、“友達としてのお付き合い”なのだ。しかもまだ始まったばかりの。それを何をこんなに意識しているのか……透子は自分が情けなくなった。
連れて行かれたのは、蔦の絡まる瀟洒な建物だった。
車はそのまま前を通り過ぎると、一つ目の角で店の裏側に回りこむ。すると地下への入り口があり、地下駐車場の一角に車を停めた。
「ここですか? あの……私仕事上がりのこんな格好で大丈夫でしょうか」
今更ながら、透子は仕事着と通勤着を一緒にしていることを、後悔した。
今の透子の格好は、淡いピンクのタートルネックニットに杢グレーのチュニックを合わせ、黒のレギンス、黒のエンジニアブーツという出で立ちだ。アクセサリーはひとつもつけておらず、髪は耳より少し下の位置でシュシュで緩く結っているだけである。
離れた場所に駐車した車から、10cmはあるであろう華奢なヒールを履いた美脚がぬっと現れ、優雅に降り立つのを見て、透子はここまで来ておきながらしり込みしてしまった。
「大丈夫だよ。ここ、そんなに堅苦しいお店じゃないんだ。それに、俺だってちゃんとした格好じゃないんだから。ごめんね、急に誘って。雑務が溜まっててやっと落ち着いたものだから……」
馨が助手席側に回り込み、ドアを開けて透子に手を差し伸べる。
先程見たピカピカのヒールの持ち主ならいざ知らず、ヒール3cm、安定性抜群のエンジニアブーツでは、この馨の行動も滑稽に見える。
だが背が低くて太め、見るからに重心が下にある自分ではピンヒールが耐えられるかどうか――ビクつきながら履くのも馬鹿馬鹿しくて、自然とローヒールの靴が多くなった。
躊躇っていると感じたのか、焦れた馨が透子の手を掴むと、やや強引に車から降ろす。
「行こう。本当に気にすることないから」
穏やかに見えて、結構強引なんだよなぁ……それは最初母に会わせた時からだったから、元々こういう人なのだろう。それでも不思議と傲慢な感じはしないのだから、不思議だ。
店内はシックな色使いで、高い天井にはアンティークのファンがありゆっくりと回っている。
ふたりは窓辺のテーブルに案内された。
「すごく、素敵なお店ですね。でもどこかで見た事があるような……」
「あぁ、シェフがよくテレビに出ているからじゃないかな。実は、局の親しい人間からディナーチケットをもらってね。コース料理になるんだけれど……ふたつあるから透子さん選んでね」
そう言ってメニューを見るよう促されたが、コースメニューを見て透子は目を見開いた。
「い、いちまんにせんえん!」
「え? あぁ、それにする? でもこのチケットどっちのコースでも使えるみたいだよ?」
「私、普段着なのに……」
「そこなの? 本当、透子さん面白いなぁ。俺は1万4千円のコースにしようかな。透子さんは?」
コース料理を食べたことが無いわけではない。とは言っても、一番高かったもので8千円だったが……。昨日の晩御飯は親子丼だった。この差は何だろう。胃がビックリしないように、と透子は1万2千円のコースを選んだ。
最低限のマナーは心得ているつもりだが、やはり緊張する。
人気シェフの店という事もあって、食事を始めて少しすると店内はほぼ満席になった。それぞれのテーブルに距離があるとはいえ、静かなピアノ曲が流れる店内では、ポツポツと周囲の話し声が聞こえてくる。
中には、すっきりとした美貌が視線を惹き付ける馨と、その前に座る凡庸な自分を話題にしたものもあり、透子の神経は周囲に向いていた。
馨が問題発言を発したのはその時だった。
「――だ。透子さん? 聞いてる?」
「えっ? あ、はい。聞いてます。美味しいですね。この温かいパイと冷たいアイスにラズベリーソースの爽やかさがなんとも……」
「違うよ、もう。告白の言葉が聞かれて無いとか、恥ずかしすぎるんだけど」
「――は?」
目の前の馨はすこし頬を赤くし、表情が強張って見える。
“コクハク”と透子の耳には聞こえたが空耳だろうか。
思わず小首を傾げた透子に対し、馨は言い聞かせるように、少し大きな声で言った。
「俺、透子さんが好きなの。透子さんと、ちゃんとした恋人になりたい」
それぞれの会話で、程よいざわつきがあった周囲の音が一瞬、シン――と静まり返った。