干物女の進化形
テーマは、「干物はまだまだ食べ頃です」
待ち合わせ場所の駅の西口で、透子は母が出てくるであろう改札に背を向けて、きょろきょろと辺りを見渡した。
「あ、あいつめ……あんなに念を押したのに!!」
焦りからか、口からは悪態が出てくる。
スマホの画面に目的の人物を表示して電話するが、スマホに当てた右耳からは無常にも『この番号からはお繋ぎできません……』というアナウンスが流れてきた。
「着拒! 信じられない!」
無駄なあがきだと内心分かっていても、透子はメールを送信した。
が、送信ボタンを押したと思ったらすぐさまメールを受信する。――否。受信したのでは無く、送信エラーで戻ってきたのだ。
「さ、坂本ぉぉぉぉ!」
あ、彼は坂本くんと言うのか。と、そんな暢気なことを、馨は公衆電話の陰でまた聞き耳を立てていた。
チラリとガラス越しに透子を見ると、透子はスマホを両手に握り締め、文字通りあわあわしている。小さく右へ左へと動く様は、チョロチョロ動く小動物そのものだ。
馨は右手で口を覆い、かろうじて笑い声が漏れるのを防いだ。
効果的な登場シーンは今では無い。そう、役者が揃ってからでなくては――。
その時、透子の後方から最後の登場人物が現れた。
「透子、透子ったら! もう、あんたは何改札にお尻向けてんの」
「あ! お母さん。ええっと、何でも、ない。いらっしゃい! 重かったでしょ。荷物持つ」
現れたのは、透子の言葉が無くとも親子と分かる、彼女と良く似た顔のふくよかな女性だった。
小さな透子より更に小さな女性は、言葉とは裏腹ににこやかに微笑んでいる。その両手は旅行鞄と、中身が詰まった紙袋で塞がっている。紙袋は破れないよう袋が二重になっており、透子は慌てて手を差し出した。
「重っ! 何持って来たのよ」
「漬物とー……、あ。ビニール袋何重にもしてきたから匂いは分からないべ。それにホラ、あんたに見せる見合い写真。おっきくて鞄に入らなかったからさ――」
「もう……だからって漬物と一緒にしなくても」
左手で持った紙袋はズシリと重い。利き手の右手で持ち直そうとすると、手から急に重みが消えた。
「えっ?」
「持つよ。遅れてごめんね、透子さん」
急に現れ、重い荷物を奪った相手を、透子はポカンと見上げた。目の前で一体何が起こったのかわからずにいる。
その隙に、馨は透子の母の旅行鞄も肩に軽々と担いでしまった。透子が母に目を向けると、母親もポカンとした表情で馨を見上げていた。
成人男性にしては線の細い印象だったが、さすがは男。やっぱり力持ちなんだ――とそこまで考えて、透子はハタと我に返った。
「ちょ、ちょっと! あの! 何して……」
「あれまー。透子、この人があんたが会わせたいって言ってた人?」
「えっ!? ちょっと……私が言ったんじゃなくて、お母さんが会わせろって言ったんじゃない!」
確かに透子は、お見合いを薦める母に、その場の勢いで交際を始めたばかりだと大口を叩いてしまった。そんな言葉が口をついて出てくる程に、今回の母親の見合いに対する熱の入れようが違ったのだ。
だが、透子をよく知る母親がそんな言葉ひとつで簡単に引き下がることはしない。ならば会わせろと言ってきた。嘘だと分かったら即お見合い話を進める。そう言われて後には引けず、売り言葉に買い言葉で『会わせる』と言った。
嘘は言っていない。あの日は坂本との初デート翌日だったのだ。流石に彼と結婚まで漕ぎ着けられるとは思っていなかった。なぜなら、彼は――
「実年齢聞いて引いてたからな……」
ふぅ……と、思わず遠い目になる。それでも顔を出してくれるだけでいいからと頼み込むと、了承してくれた。勿論それも嘘では無かった。頃合を見て、年齢差から出来た深い深い溝を埋めることが出来ませんでした、と母に破局を報告するつもりだったのだ。
なのに――職場で商品の問い合わせを受けたのがきっかけで、挨拶を交わすようになったイケメンが現れると誰が思うだろう。頭が現実逃避し、思わず回想に入っても仕方のないことだと思う。
透子が回想に入り、なぜこの人がここに……? と首を傾げている間に、目の前の二人は確実に親交を深めていた。
「あらまぁ、馨さんておっしゃるのー。都会の……なんてゆーの、イケメンさんは名前までハイカラでねぇのー」
頬を染めて笑顔を見せる母――由美子のはしゃぐ声を聞き、透子は今まで名前を知らなかった事に気付いた。
「かおるさん……」
て、いうんだ。
思わず声に出してしまったのを、馨は聞き逃さなかった。
「透子さん、行こう。お店予約してるんでしょう?」
笑顔で振り返った馨の声に、ハッとする。
なぜこの男はここまで知っているのか――タイミングよく現れたことといい、もしや坂本の知り合いで頼まれたのだろうか……いや、坂本と売場で商品の陳列について話していた時、馨が現れたことがあったが、二人はなんの反応も示さなかったはずだ。
分からない――。
透子の頭の中は『???』とクエスチョンマークが飛び回っている。
「そうなんだってば。いっつも真っ直ぐ家に行くんだけども、今日は仕事帰りで食事すぐ用意できねぇからってー。そんなんいいよって言ったんだけんどもねー、馨さんに会わせるためだったの?」
二人の視線が透子に向き、透子は焦った。
恋人(仮)としてここは振舞うべきなのだろうか。
何の打ち合わせも無しに、恋愛経験の少ない自分にそんなハードルが高いことを、今求められているのだろうか。
今名前を知ったような顔見知りに対して、ラヴな雰囲気を見せろと!? そもそもなぜこの男が現れた!? ぐるぐるぐるぐる透子の頭の中は忙しく動き回る。ようやく出た言葉は、とても情けないものだった。
「……うん……」
* * *
透子の選んだ店は所謂居酒屋チェーンで、この店を選んだ理由は坂本にプレッシャーをかけないようにするためだったのだが……隣に座る男は確実に浮いていた。
席は壁際で、通路側に取り付けられた暖簾が、半個室の雰囲気を作っている。
透子は、半個室の席を選んだ、数日前の自分を褒めたかった。
隣で物珍しげにメニューを見ている男は、入店の時から人目を集めていた。「いらっしゃいま……!」連日連夜、ほぼ機械的にしているであろう店員の挨拶が止まった程だ。
前に出た透子が予約をしていると申し出ると、不思議そうに透子を見詰め、予約リストを確認すると一緒について歩きだす馨を驚いたように二度見し、隣りあって座ると二人を見比べつつ席を離れていった。
失礼な。でも分かる。その戸惑い、なぜなら、この事態に一番混乱し戸惑っているのは、他ならぬ透子なのだから。
暖簾が締まってから、透子はやっとふぅっと大きく息を吐いた。
「……え、ええっと、とりあえず……適当に、頼んでいい……ですか?」
恐る恐る切り出した透子に、馨はにっこり微笑むとメニューを渡した。
「うん、勿論。透子さん選んで?」
その自然すぎる切り返しに、透子は訳が分からないというように首を傾げた。
「ハイ、えっと、じゃあ……そう、します」
「あれまー、そんな他人行儀な……馨さん、すみませんねぇ。この子、緊張してるみたい。親に恋人会わせるなんて初めてだがら」
“恋人”という言葉にピクリと反応した透子に対して、馨はただにこやかに「こう見えて、僕も緊張していますよ」と応えた。
「ところで透子、お手洗いどこだべか? 新幹線で行きそびれちゃったもんでね」
「えーっと、出て左の隅よ。い――行ってらっしゃい」
一緒に行く? と言いかけて、母の居ない所で馨と話すチャンスだと気付いた透子は、ひらひらと母の背中に手を振った。
「んーっと、左だね」
母が出て行くと、透子は声を潜めて馨を問いただした。
「どういうことですか!? そもそもあなた誰なんですか? 私別の人待ってて……」
「え? 恋人役を待ってたんでしょう?」
「――どうしてあなたがそれを知ってるんですか!」
「あまり長く話している時間は無いよ。すぐにお母さんは戻ってくる。俺の名前は、神馬馨、28歳。物書きだよ。資料本を探しに透子さんが働く書店をよく利用していて、そこで知り合った。しばらくは顔見知り以上友人未満だったが、最近になって付き合い始めた。お母さんに話したのはこんな感じ。とりあえず、話合わせて。あ、まだ付き合い始めだから透子さんは色々演技しなくてもいいよ。こっちで適当にやるから」
一気に大量の情報が耳に入って来て、透子の頭はパンク寸前だ。
「母とそこまで話してたんですか!? でも、あの……! 確かにお見合い断りたくて知り合いの男の子に頼んでたけど、あなたがどうして――」
「でも相手は来なかった。そうするとお見合い話を進められてしまう……いいの? 先入観持たずに好きになった相手じゃないと、ぱんつ、脱げないんでしょ」
馨の言葉に、透子は口をあんぐり開ける。そして次の瞬間、透子の顔は真っ赤に染まった。
「あなた……どうして……」
「なんでそれを知ってるかって? ――それを説明してる暇は無いみたいだ。でも悪いようにはしないよ。見合い話進められたくなかったら、俺を利用したらいいじゃない。ね?」
暖簾の向こうから、「あんれー。どこだったかね……」と母の声が聞こえてくる。透子はぐっと言葉を飲み込むと、馨を睨みつけコクリと頷いた。
乗りかかった船だ。疑問に思いながらも、顔見知りということから、駅で会った時かすかに助かったと思ってしまったのだ。今ここに同席を許してしまっている以上、実は違うとは言い出せない。元々、坂本が来た場合も母に会わせるのはこの一度だけだと決めていた。では、相手が馨に代わっただけで問題は無いのではないか……透子はそう覚悟を決めると、暖簾を掻き分け母に手招きした。
* * *
結果、母は神馬馨を気に入ってしまった。
元々、母の由美子はとある劇団の大ファンで、かなりの面食いだ。特に、線の細い中世的な美形が好きなのである。ちなみに、父は真逆のタイプだ。理由をつけて透子の元を訪れるのもついでに観劇出来るからというのが大きい。現に馨に会った翌日はいつの間にチケットを手配していたのか、娘の貴重な休みを使って街に繰り出した。
寒い中出待ちまで付き合わされ、透子は疲労困憊だ。
透子は背の高い本棚に隠れて小さく欠伸した。
「こらこら。仕事中に、欠伸なんかしちゃ駄目でしょ」
「!! ――かお……神馬さん」
悪戯が見つかった子供のように、小さく肩を竦めると、透子は恋人(仮)に向き直った。
結局、透子のことをなぜあれだけ詳しく知っているのか、理由を聞けないでいる。恋人同士だと思い込んでいる母の目の前で連絡先を交換するわけもいかないので、連絡先すら知らないのだ。
結果、こうして馨は透子が仕事中にふらりと現れるだけで、透子の意志で連絡したり会ったり出来ないでいる。
「馨、でいいのに。でないとお母さんにバレちゃうよ」
「……母には、頃合を見て駄目になったと言いますから。あの、どうやってあの場に現れたのか知りませんけど、助かったのは事実だし、その節は……ありがとうございます」
素直にペコリと頭を下げた透子を、馨は面白そうに眺めていた。
「どういたしまして。――でも面白いな。俺が色々知ってたこととか、俺のことストーカーみたいとか思わないの?」
その言葉に、今度は透子が可笑しそうに笑い出した。
「ストーカー? あなたが? ふふっ。さすがにそう思える程私もてませんから。大方、売場で坂本君と話していた時近くに居て少し事情を知ってた。とかかなと……」
「ふぅん? ねぇ、今日仕事は何時まで?」
(あぁ……彼はここに出入りしている業者の営業なんだっけ。でもまぁ、さすがにここで立ち話中に“ぱんつ”の話はしてないと思うけどね)
かすかに口角を上げて薄い笑みを浮かべると、透子の推測には曖昧に返事をして、馨は本題を切り出した。
「もうすぐですよ。えっと……あと10分ですかね。今日は残業もしなくて済みそうですし」
「そう、じゃあこの辺見ながら待ってるから、食事にでも行こう」
その申し出に、透子は先程まで感じていた強烈な眠気が一気に吹き飛んだ。
「は!? えっと……あの、どうして? だってまだ母も家に居ますし……」
「そう。だからだよ。お母さん明日帰るんでしょう? その前に俺のお気に入りの店に案内しようと思って」
「あの……どうしてそこまで……」
「だって本当に恋人同士か、疑われてるんじゃない? あそこであんなに突っぱねるんだもの」
馨のその言葉は事実で、透子は黙り込んでしまった。
あの食事の後、支払いをどちらがするかで押し問答になり、見かねた母がさっさと支払いを済ませた。あの行動から、本当に付き合っているのかと帰宅後聞かれたのだ。
「だって……お店予約したのも私だし、来たのが坂本君でも、私はそう行動しました」
「俺は別に何が何でも男が払うべきなんて思っていないよ。そういうの嫌がる女性も今は多いって聞くしね。でもいかにも対応に慣れていませんって丸分かりだったから」
「そっち、ですか……」
「うん。払うって言った時、透子さん目が零れ落ちそうな程見開いて驚いてたから」
あの時の透子を思い出したのか、馨はとっさに大きな手で口を覆ったが、小刻みに揺れる肩から笑いを堪えるのに苦労していることが分かった。
支払いをとりあえずまかせて、帰り際渡したら良かったのかな、と透子なりに反省していたのだが、どうやらズレていたらしい。
「だからさ、俺もちょっと一人で行きにくい店だから付き合ってよ。支払いも気にしないこと。俺も少しは稼いでいるからね」
今度は透子も素直に頷いた。
「えっと、じゃあ待っててくださいね。帰る準備して母に連絡するので」
最後にもう一度棚を確認し、数冊ストックから補充すると、透子は軽い足取りでロッカールームに向かった。
馨が透子を待ちながら雑誌を立ち読みしていると、視界にチラチラと書店員のエプロンが目に入ってくる。
視線を上げると、長い髪の背の高い女性と、明るいショートヘアをふんわりさせた若い女の子が、向かいの棚で作業をしながらチラチラとこちらの様子を窺っていた。
髪の長い女性は視線を逸らしたが、髪の短い方は興味津々で、馨を見詰め続けている。仕事を装ってはいるが、隣り合ってする仕事ではないだろうと素人目にも分かり、馨はやれやれ、軽く首を振った。
「何しているの? 仙崎さん、あなたの担当ここじゃないでしょ」
「あ、木下さん……えっとぉー」
エプロンを脱ぎ、上にコートを羽織っただけの透子がやって来た。
注意された若い女性は語尾を伸ばし反論しようとしたが、結局諦めて口をつぐむ。すると、透子の追求はもう一人の女性にも向けられた。
「そうだ、井上さん。雑誌の抜き漏れがあったわよ。定期購読リストとちゃんと見比べなさいってあれほど言ってるでしょう。あなたもう新人を指導してもらう立場なのよ? 基本はしっかり押さえてないと駄目じゃない」
「……すみません……」
謝ってはいるが、ほぼ棒読みで感情が入っていない。自分のミスを棚に上げ、指摘されたことを面白く思っていないのは明らかだ。
それは透子も感じているのだろうが、それ以上言葉を重ねることはなく、「上がりだから、後はよろしくね」とだけ言ってこちらに向かってきた。
耳障りな声が聞こえてきたのは、透子が二人から少し離れた、その時だった。
「何アレ。いくら仕事出来ても、あぁはなりたくないわ」
「さすが化石ってとこ? あの人、プライベートで楽しみあんのかしらね」
「ないでしょー。誰も相手にしないってぇー。女として認識されてないってー。その鬱憤をこっちにぶつけないで欲しいわぁ」
クスクスクス、と嫌な笑い声が後に続く。だが、聞こえているだろう透子は、平然としている。馨のことが目に入っているだろうに、そのまま通り過ぎようとしたところを、馨は慌てて手を伸ばした。
「透子さん!」
馨の声に、二人の笑い声がピタリと止む。
そのまま透子の空いている左手に、自分の手を滑り込ませると、小さく柔らかな手をぎゅっと握って馨は透子の隣を歩き出した。
「嘘ー。何アレー」
「とうとう男買った? ついこないだ坂本さんにお茶誘われただけでにやけてたのにねー。最近見ないと思ったらぁ、その気になって告って坂本さんに振られたか?」
キャハハハハ。
下品な笑い声が遠くなると、透子はようやく口を開いた。
「馨さんってもう少し空気が読める人だと思った」
「読んだつもり」
「いやいや、これが強風で飛んでいきそうな華奢な若い子なら、“王子様現る!?”とかなって一気にシンデレラなんでしょうけど……」
自嘲気味に笑うと、透子は静かに馨の手を外した。
透子を見下したような、彼女達の発言に頭にきての行動だったが、こうして外されるのは馨を何とも寂しい気持ちにさせた。
「化石、だって」
「そうですね。知ってます? 干物女の進化形らしいですよ。馨さんが買った本には書いてませんでした?」
「――無かった」
なぜか憮然とした表情で答えた馨は、めげずにもう一度透子の左手を握った。今度は透子も外そうとはせず、馨の好きにさせている。
「干物ってねぇ、なんだかんだ言って食べれるでしょう。ごはんにも合うし、お酒にも合う立派なおかずですよ」
「俺も干物好きですよ。ねぇ透子さん、うなぎは好き?」
「好きですよ」
「良かった。じゃあ、美味しいうなぎ食べに行こう」
「いいですね」
結局ふたりは、母と待ち合わせた駅まで、手を繋いだまま歩いて行った。
この時、手を繋いで穏やかな表情で歩いてくる二人を見て、由美子はお見合い話を断ろうと決めたのだとか……。
最後の更新、年内間に合いました!良いお年を!