三十路の扉を開けるとそこにある現実
テーマはそのまんまですが「三十路を超えると見えてくる現実」です
「うーん……いいんす、けど、ね……」
いつかどこかで聞いたような反応に、神馬馨の眉がピクリと動いた。
いつものカフェのいつもの席。真向かいに座る相馬重之は苦笑を浮かべている。
「けど、何ですか?」
あの日書店で手にした『干物女の生態』を参考にヒロインのキャラクター像を作ったのだが、何か問題があっただろうか――。
絶賛撮影中の健気な女の子のシンデレラストーリーの脚本打ち合わせは、至極簡単なものだった。
原稿を渡すと、パラパラっと中身を確認した相馬は、にっこり笑っていそいそと鞄に仕舞いこんだのに対して、今は一枚の紙を前に渋い表情だ。
「うーん。ヒロインがバリバリのキャリアウーマンですよね。それがねー……」
そう。馨は結局透子本人に会う前に、自分が思い描いていた透子像をそのまま、ヒロインに仕立て上げたのである。
ヒールを履いたら悠に170センチを超え、細身のパンツスーツを着こなすキャリアウーマン。男を仕事の好敵手だと思っているヒロインは、うまく男に甘えることが出来ず、お一人様上手になってしまう。周りにはそんな彼女の凛々しさに憧れる男も居るが、隙の無さからなかなか想いを打ち明けられない。そんな恋愛以外には恵まれた彼女のコンプレックスは結婚から縁遠くなってしまったこと。同級会で会った既婚者の旧友を羨ましく思ってしまう。そんなヒロインだった。
だが仕事はバリバリでも、自分を磨くことは怠らない。誕生日は前日から高級ホテルに宿泊しホテルで女子会。翌日は日頃出来ない平日寝坊をし、ホテルエステでリフレッシュ。
出来ないことはただ一つ、男に甘えること。
「でも、それを女友達に相談できなくて、強がってしまう」
「そうそう。相馬さん分かってるじゃない。共感得るでしょ?」
箇条書きだけのヒロイン設定で、そんなヒロインの強さと弱さを当ててしまった相馬だったが、返事は簡潔なものだった。
「いや、無いっすね。このヒロインに共感するのって、同じような境遇の女子だけっすよ」
「……そうかな……」
「間違いないっす。普通のOLや主婦はね、こーゆーヒロイン見てても、自分がなったかもしれない人物として見るか、もっと厳しい女の目で見るんすよ」
「もっと厳しい女の目?」
「そう。同級会ってキーワード、これ女子には大きいんす。既婚者は既婚っていう余裕でママトークを繰り広げ、未婚者は悔しいわけっすよ。でもね、悔しい反面、生活臭が漂って女としての賞味期限は切れてるわって目でも見るわけっすよ。片や未婚者は、既婚女子にしてみれば『売れ残り』なわけで、優越感があるワケっすよ。でもね、その反面、独身女子が築き上げたキャリアからして、接する男のランクも上がってることを知ってる。そんな状況で結婚することになったら、相手は自分の旦那より優良物件である確率は高いワケっす。そうなる可能性を独身女子はまだ持ってる。それは悔しいわけなんすよ」
「……相馬さん、詳しいね……」
「ウチの嫁さん情報っす。先月、同級会だったらしくてしばらく鼻息荒かったんすよ。つまり、ヒロインと同年代の主婦層は、旦那の出世がこれからどうなるか微妙な年代なんすよ。中には出世が見えなくて、自分もパートしながら結婚を早まったかも……と人に言えない悩みを抱えてたりするんす。そんな悩みを抱えながら1円安いスーパー目指してママチャリ漕ぐんすよ。誕生日に有給使って高級ホテルでエステに女子会! 無いっすね。憧れと妬みは紙一重っすよ。特に年代が微妙すぎます」
熱弁を振るう相馬の視線は切実だ。
「それも……奥さんの情報?」
「……ウチの嫁さんは胸の内に隠しておくことなんてせずに、俺に直接言ってきましたけどね……TV局勤務ってことで最初はチヤホヤされてただけに、未だ出世してないってバレて八つ当たりされました。タレントと親しいとか、あるワケないじゃないすか! 調子に乗って喋ってたのは自分なのに、それを棚に上げて、出世しない俺の責任なんだそうです」
そう言って相馬は弱々しく肩を落とす。仕事柄、打ち上げなどで撮影以外でもタレントと過ごす時間は多いはずなのだが、奥さんが知っているような一流俳優などで無ければ意味が無いのだろう。
勿論、人気脚本家とはいえ馨自身もその“意味が無い”中の一人に違いない。
「えぇっと……じゃあ例えばさ、ヒロインはぽっちゃりした未婚女性で、恋愛経験があまり無さそう。見た目ハムスターの癒し系でいい人オーラ出しまくってんだ。で、恋愛対象として見られて無いことがコンプレックス。そういうのは?」
それはまんま、現実世界の透子の印象だった。まさか、これで釣れるわけないよな……そう思っていたのだが、相馬はすぐさま食いついた。
「いいっすね! いい人オーラ全開なのに『ぱんつ脱ぐ相手に妥協できるか!』とかサラッと言っちゃうワケっすね! いいじゃないすかぁー。やっぱこういうのはギャップが必要なんすよ。バリバリキャリアウーマンがキッパリ言うなんてインパクト弱いっす。ライオンに出会ったら噛まれて死ぬことを覚悟するでしょ。でも懐いてると思い込んでるハムスターに噛まれたら傷は小さくてもショックは大きいんす」
成る程。一理あるかもしれない。――そうなると、やはり本だけではどうにもならないということか……。
どうしたものかな……腕を組み考え込む馨をよそに、相馬は「期待してま~す」と軽く言うと、伝票を手に席を立った。
「あ、そのハムスターはさ、同級会どうすると思う?」
相馬の背中に声をかけると、相馬は振り返りニヤリと笑った。
「行かないっす。その手の女子はどっちのタイプからも、見下されるのがオチなんで」
相馬のその言葉に、馨は軽く手を上げて挨拶すると、相馬もまた軽く手を上げてカフェの大きな扉を開けて街の喧騒の中へと消えて行った。その様子をなんとになしに眺め、馨は再び腕を組んで深く座り込んだ。
(行かない、か……益々分からなくなってきた。キャリアウーマンキャラにしたら知り合いの数からしてキャラクターの肉付けは出来るんだけど……これはまた難しいことになってきたな)
さて、彼女と関わりを持つにはどうするべきだろう。
あれから度々書店で顔を合わせるているので、言葉を交わす仲にはなったが、それは店員と客の域を出ていない。
名札から、彼女のフルネームが『木下透子』だと知ったが、彼女の方は馨の名前も職業も知らないままだ。
だが、例として挙げたキャラクターはそのまま彼女の第一印象をなぞったもので、出来れば一度彼女の恋愛観を聞いてみたい。脚本家だと名乗って取材を申し込めば受けてくれるかもしれないが、馨が聞きたいのは建前じゃない。取材と言って近づいて彼女の本音が聞けるとは思えなかった。
馨がある特定の人物ひとりをモデルに、キャラクターを作るのは初めてだった。今までも自分の周りでの出来事をネタにすることはあっても、ひとりにスポットを当てて作りこんだことはない。だから別に自分の人脈を使って恋愛慣れしていない三十代独身女性数人に話を聞いても良かったのだが、この時そんな事は思いもつかなかった。それだけこのヒロインは透子そのものだったのだ。
なぜそこまで透子に固執するのか、この時の馨はまだ何も気付いていない。
* * *
「え? それって危ないんじゃない?」
「どういうことですか、それー」
美容室で、雑誌を片手に物思いにふけていた馨の耳に、突然そんなやり取りが聞こえてきた。
「それってアラサー女子の常套手段じゃない?」
“アラサー女子”その言葉についつい反応して聞き耳を立ててしまう。
(最近こんなんばっかだな……)
心の中で苦笑したが顔には出さず、さも雑誌を読んでいるかのように、落ち着いて頁をめくる。
「最初は同年代かなーって思ったんですよね。あ、俺25なんですけど。営業先の店の子で、ふんわりした雰囲気が良くて仕事帰り飯とか誘って行ってたんですよ。で、まぁなんとなくいい感じの雰囲気になってデートもしたんですけど、今度親に会ってくれって言われて」
「だからそれだよ! 危ないんじゃない?」
「いや、俺もまだ手を出してなかったから、さすがに早くね? って思ったんだけど、なんか親がしつこく見合いを薦めてきてそれを断りたいから、顔だけ出してくれたら良いって……あとはなんとか言い繕うからって、言われたんだけど……」
「いや、ぜってー危ないって。適当に言い繕うって、それさ、勝手に話作られてー、気づいたら結婚前提のお付き合いーってことになってたりして」
さすがにそれはないだろ。そう馨は思っていたが、担当の美容師はすっかり思い込んでしまっているようだ。その熱意はとうとう男に伝わり、彼はすっかり怯えてしまった。
「え、マジすか」
「えーっと、何歳だっけ。35? アラフォーに片足突っ込んでんじゃん。なら確かに親はしつこいだろうしね。あり得るって。止めときなよ。まだ手ぇ出してないんでしょ?」
「う、うん……いや、それも実は、デートの帰りにキスしようとしたらさ、照れて俯いた彼女のつむじの辺りに白髪がピョコンと出ててね。街灯にキラキラしてんの。なんか一気に現実に引き戻されてさ。『お前のこと、大事にしたいから』つって、何もしないでその日は帰ったんだけど」
「うっわ、興冷めだね、ソレ。どこが良くてデートまで行ったわけ?」
馨はもう頁をめくるどころではなく、意識は会話に集中してしまっていた。
「うーん、なんつーの。今まで無かったタイプで、空気感がまったりしててさ。なんか安心するっていうか、ほっこりするっていうか、ぎゅーって抱き締めたらふにゃふにゃ柔らかいんだろーなーって」
「何ソレ。なに恋愛に安心感求めちゃってんのー。らしくないんじゃない? さては最近別れたばっかとか?」
「――分かります?」
「癒しを求めちゃってる辺りね。いや、でもやっぱ恋愛には刺激が無いとさぁー。やっぱその35の彼女、焦ってんじゃないのー?」
とうとう客の男は言葉を無くしてしまった。チラリと隣の鏡を見ると、そこに映っている顔は心なしか青ざめているように見えた。
その当の本人が、ピョコンと飛び出た白髪に気付いたのは、その三日後。
「あ。なんか光ってると思ったら……」
慣れた手付きで爪で挟むと一気に引き抜く。透子は抜いた白髪を一瞥すると、ロッカールームのゴミ箱に捨てた。
「染めちゃえばいいのに」
休憩でロッカールームに来ていた同僚の松原明日香は、自分の少し明るい髪を、指でくるりと巻いて見せた。
「こんな真っ黒だと、生え際の黒がすぐに目立っちゃうもの。まだ少ないから抜いてるんだけど、そうするとさ、生えてくるとピョコンと飛び出て、結局目立っちゃうのよねー」
「分かるけど」
エプロンを外して簡単にメイクを直した透子は、バッグを持ってロッカーの鍵を確認すると明日香に「お疲れさま~」と手を振った。
「あ、あたしも売場に出るから一緒に行くわ」
話しながら一緒に事務所を出ると、売場には最近よく見る長身のイケメンが立っていた。
「――あ。今日はもう上がりなんですか?」
「ええ。今日は早番なんですよ」
腐女子本騒動を誤解したままの明日香は、透子の隣でそわそわしている。
「じゃ、じゃあ。あたし仕事に戻るね。透子、おばさまによろしくね!」
「うん。お疲れさま」
チラチラと馨を見やりながら、カウンターへと向かう明日香の視線など、馨は全く気付かない。それよりも去り際の明日香の言葉が気になっていた。
「おばさま?」
「え? ああ、はい。今日母が田舎から来るので、駅まで迎えに行くんです。あ、すみません。もう時間なのでこれで失礼します」
「あ、あぁ……うん。気をつけて」
(まさか……まさか、ね)
だが、余りにも美容室で聞いた情報が、透子にピッタリだった。
①彼女の親は見合いを強く薦めている
②彼女はそれを嫌がっている
③彼女は若く見える三十代女子だ
④彼女の母親が近々田舎から出てくると言っていた
⑤彼女は一見癒し系の抱き締めたら柔らかそうな体型だ
ざっと考えただけでも、これだけ当てはまる。そして、多分――彼女が待ち合わせしているもう一人……“彼”は、来ない。
馨は手にしていた本を棚に戻すと、急いで店を後にした。
単なる店員と客だったふたりの道が交わるまで、あと数百メートル――。