美を追求する者は毒をも手にする
「知らなかった……」
ひとりきりの部屋で、透子はベッドに突っ伏した。
馨が目の前に現れてからというもの、透子の日常はめまぐるしく変わった。
最初は戸惑い、なんの冗談かと、激流が過ぎ去るのを待っていたが、とうとう自らそこに身を投げ出すことになったのだ。
恋人が、できた。
その言葉を噛みしめるたびに、胸がぎゅ~~っと締め付けられる。苦しいが、甘い。切ないが、愛おしい気持ちがこみ上げる。
(こんな世界って、あったんだ)
連絡が来ると嬉しい。会うと、自然と笑顔になる。今まで多くの時間を費やしていたことが、二の次になる。
こんなことは初めてだった。
透子だって、恋をしたことはある。それこそ、全てを捧げた恋だって、ある。
だが、それらと大きく違うのは、今回は“愛されている”ということだ。
(愛されてるって、なに考えてんの私。恥ずかしい!)
顔から火が出そうに熱くなり、枕に顔を押し付けた。
恥ずかしながら、想い、想われる恋愛というものは、透子には経験がない。
だから、世間が常識のようにおこなっていることが、透子は疎い。
恐れていたことが起こってしまった。
馨は、年齢の割にあまりに初心な透子に、根気強く合わせてくれていると思う。
何度か感情を爆発させたことはあったけれども、明日香に言われたら、それでも馨は我慢強いのだそうだ。
キスだって、あれからはちゃんと透子にお伺いを立ててくれるようになった。まだ苦手で、慣れない透子が苦しそうにすると、名残惜しそうに唇を離し、触れるだけのキスを落とす。
大切にしてくれているのだと思う。
だから、自分も変わらなきゃ、と思った。自分からも、ちゃんと気持ちを伝えたいし、遊ばれてるんじゃないかって疑念は捨てて、馨に飛びこんでいきたい。
透子がそう決心したその頃、馨に旅行に誘われた。
(旅行ってことは、アレってことで……ということは……妥協じゃない、好きな人の前でパンツ脱ぐってことで……)
今、このカラダで、いいのか、私!?
そう一念発起して、エステサロンで脱毛コースを申し込んではみたものの……。
(まさか、ツルスベ肌になるまで一年かかるなんて……)
何度か通うことは覚悟していたが、一度やる毎に2ヶ月空けなければならないとは知らなかった。
これでは、海外出張から帰ってくるのに間に合わない。
いや、間に合ったからといって、ぷよ肉を馨の視線に晒すとか、とてもではないが耐えられない。
「そうだ! エクササイズしてみよう!」
ガバッと起き上がると、腰に激痛が走った。
* * *
『え? ぎっくり腰?』
「そうなんです……。今、仕事も休んでて」
『大丈夫なの? 食事とか、ちゃんと出来てる?』
「はい。明日香が色々用意してくれたから、ちゃんと食べてます」
ちゃんと食べ、動かないものだから、腹はぷよ度が増してしまった。
安静にしているようにと、医者に言われたのだから仕方がないのだが、情けなくて仕方がない。
おまけに、明日香が暇つぶしにと持ってきてくれたファッション誌には、“女子力を上げる!”などという文字が踊っており、ついついネットで化粧品やマニキュア、アクセサリーなんかを買ってしまった。
世の中は便利だ。
ベッドから動かなくても、こんな風に買い物が出来る。
そして、ベッドから動かなくても、ファッション誌の言う女子力が、自分に備わっていないと実感できてしまう。
世の中は不公平だ。
個体でこんなにも違うというのは、どういうことなのだろう。
雑誌のメイク方法の通り化粧をしてみたら、かぶれた。
マニキュアをしてみたら薄く伸ばせず、気泡が入ってクレーターのような窪みや段差ができ、明日香に「3Dホラー」と言われた。おまけに、その手で研いだ米が美味しくない気がした。
“男心を揺らすイヤーカフ”なるものを買ったら、長すぎて、揺れるどころか、肩にバシバシ当たる。
なんなんだ。
踏んだり蹴ったりとはこのことだ。
はぁ、と思わずついたため息を、馨はしっかりと拾っていた。
『ねえ、透子さん。無理なんて、していないよね?』
「えっ?」
『俺はね、透子さんが好きになったの。透子さんだから好きになったんだよ。なにも変わらなくていいんだ』
馨は、ずるい。
どうして透子が無理をしていることに気づくのだろう。
初めて会った時から、馨には見透かされている気がする。
透子は男性に甘やかされることに慣れていない。本当に自分自身のままでいいのか、不安だった。
だが、それすらも馨にはお見通しのようだった。
『透子さんはさ、俺に直して欲しいところ、ある?』
「えっ……」
急な質問に、透子は考えを巡らすが、馨に直して欲しいところなど思い当たらない。
「ええと……ありません」
『そっか。でも、本当に? 透子さんにウザいくらいまとわりつくかもしれないよ。毎日会いたいってワガママ言うかもしれない』
(ウザい? 馨さんが?)
そんなことはあり得ない。
どう振る舞ったらいいのか、戸惑うかもしれないが、直して欲しいなんて思わない。毎日会いたいというのも、ワガママと感じる以前に、嬉しく思うだろう。
「それでも、直して欲しいなんて思いません」
『それと同じだよ。俺も、透子さんに直して欲しいところなんて、ない。まぁ……強いて言えば、もっとワガママ言って欲しいってところかな』
馨は、やっぱりずるい。
日本から遠く離れた場所にいても、こうも簡単に透子の心を解してくれるのだから。
「……ありがとう。馨さん」
通話終了ボタンを押すと、心が随分と軽くなっていた。
せめて、かぶれた顔を元通りにしよう。
合わない化粧品は捨てよう。マニキュアも、雑誌も、イヤーカフも。
それでもやっぱり、少しでも綺麗になりたい。肌の調子を整える、その程度でもいい。
飾り付けることじゃなく、自分自身を大事にする方法で、綺麗になりたい。
背伸びしないやり方で、自分なりに頑張ろう。
そう決意した透子は、シートパックを大量に注文した。せめて、肌年齢は馨に負けたくないのだ。
* * *
空港で自分を出迎える透子を見つけ、馨はホッとした。
ぎっくり腰も治ったようだし、なにより見た目が変わっていなかった。
出張に行く前の様子からして、少し不安もあったが、馨を見つけた透子は笑顔を弾けさせ、手を振った。
「ただいま、透子さん。寂しかった」
透子の前に立つなり、両手を広げて透子を抱きしめると、驚いた透子は身体を固くした。それには馨も気が付いていたが、久しぶりの透子の感触が嬉しくて、馨は更に力を込めた。
「い、痛い、です」
「う~ん。久しぶりの透子さんだ。やっと帰ってこれたって気がする」
「苦しいですってば」
透子のくぐもった声が聞こえるが、馨はなかなか力を緩めようとはしなかった。自分の胸から透子の声がするというのは、なんだか嬉しい。
「か、馨さん。こんな場所で、恥ずかしいってば」
「え~? 仕方ないなぁ。ね、透子さん。予定通り、有給取れた?」
「取りました! ちゃんと取ったから、離してください」
「分かった分かった」
馨は笑いながら力を緩めると、透子の頬に軽くキスを落としてから手を離した。
顔を真っ赤にした透子は、キョロキョロと周辺を見渡した。
「人が見ているところで、なんてことするんですか!」
「充電だよ。透子さん不足だったから」
「……もう!」
「ごめんね? 怒った?」
「怒っては、いませんけど……」
ニコニコと笑う馨に、それ以上強くは言えず、透子は馨と一緒に歩きだした。
出張での話を聞きながら車に乗り込むと、馨は再び透子を抱きしめた。
「馨さんっ」
「いいでしょ? ここには誰もいないよ」
「……もう」
「透子さん。好きだよ」
少し身体を離した馨が、透子の顔を覗き込む。
一瞬、車外を気にした透子だったが、すぐに素直に目を閉じた。
意識的に力を抜いた唇に、馨の唇がゆっくりと重なる。頬に馨の息遣いを感じて、透子の胸はバクバクと煩く鳴った。
熱い舌が透子の下唇をザラリと撫で、背中がぞくりとした。それを合図に唇を開き、馨を受け入れた透子は、ゆっくりと手を馨の首に回した。
深くなる口づけに、透子は息苦しさを感じ、思わず馨のジャケットの襟を掴んでしまった。
ちゅっと軽く音を立て、唇が外されたが、馨の呼吸も早い。
すぐ近くで熱く荒い、馨の息遣いを感じ、透子は襟をつかんだ手に力を込める。次の瞬間、頬から耳たぶにかけて舐めあげられ、耳にふっと息を吹き込まれた。
全身が粟立つ感じに襲われ、透子が思わず声をあげる。
「やっ……」
「――ごめん。止まらなかった」
舐められた場所に、馨の舌の感触が残る。頬に手のひらをあて、透子はなんとか息を整えようとした。
まさか、こんな場所を舐められるとは思わなかった。
こんな――。
そこであることを思い出し、透子はハッと視線を上げた。
「どうしたの?」
「か、馨さん。なんとも、ない?」
「え? なにが?」
「最近、私シートパック使ってて……その、お肌の調子もすごくいいの」
「あ、そうなんだ」
美容なんて、気にしなくていいのに。そう馨は思ったが、自分を想っての行動なのだろうから、その気持ちは嬉しい。だが、透子が言いたいのはそういうことではないようだった。
「シートパックって、原材料が色々あって……。その、馨さん、今私の顔……な、舐めたでしょ。私、そういうことになるかもしれないって考えたことなくて」
「味ってこと? 特になにもないよ。だって、シートパック外した直後でもないし、元々が美容のための物なんだから、そんなに悪いものは使ってないでしょ」
顔に直接使うものなのだから、透子がそんなにも気にする理由が、馨には分からなかった。
「――毒蛇でも、大丈夫かしら?」
「……え?」
「あるの。毒蛇の……どの部分を使ってるのか分からないけど、そういうパック」
「それは……さすがにちょっと怖いな。透子さんが使うのも、透子さんが心配」
「そう、よね」
「まさか。透子さんつけてたパック、毒蛇?」
馨が恐る恐る尋ねると、透子はすぐに首を横に振った。
「ううん。さすがに怖くて、それは買わなかったの」
「そう。良かった。じゃあ、使ったのは何? なにか心配になるようなもの?」
「……カタツムリ」
「はっ?」
毒蛇にカタツムリ? 世の中の女性たちは、一体なにを目指しているというのだろう。
馨は思わず口に手をあてた。
「馨さん!? 大丈夫? やっぱり、口にしちゃいけない物だった?」
「……いや。だ、大丈夫。ちょっと、そういうの知らなかったから驚いただけ。そうか……カタツムリ……ええと、そうだね。大丈夫でも、あまり口にはしたくないかな……」
「そ、そうよね……。ごめんなさい。まさか今日こんな風になるとは思ってなくて」
そこは自分がやりすぎてしまったところもあるので、馨としてもなにも言えない。
どうやら本気で透子不足に陥っていたようだ。
キスを深めてしまったが最後、なんとかあそこで止めることができたが、自分自身を押しとどめるのがあんなに辛く、大変なことだとは思わなかった。
名残惜しくて、ついペロリとやってしまったのだが、それがこんな展開になるとは思わなかった。
「ええと……。まずは帰ろうか」
「そ、そうね」
心を落ち着けて、車のエンジンをかける。
「ところで……その、シートパックって、色々あるの?」
「はい。バラとか、アロエとか、ミルクとか……」
(普通のもあるのに、どうして今日に限ってカタツムリだったんだろう……)
「そうなんだ」
「あとは馬油とか」
「――それも、勘弁して欲しいかな」




