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ブラとパンツとローテーション

 マンションの仕事場で、馨はパソコンに向かったまま深いため息をついた。

 あの日、透子の気持ちが自分にあると知って気持ちがたかぶり、透子の手を取ると足早にアパートに向かった。透子の気持ちも一緒だったと思う。やっと二人きりになれて、我慢できずに後ろから抱きしめた。耳に息がかかると、透子は腕の中でピクンと反応し、声にならないため息を漏らした。その反応が可愛くて耳を食むと、透子はとうとう馨に身体を預けてきた。

 透子とあの写真の男の話には正直嫉妬したけれど、今透子の心の中には自分がいる。彼女は前の恋愛を引きずっていないと言っていたが、透子の性格からいって以前の恋愛はトラウマになっているかもしれない。だから想いが通じたこれからも、ゆっくり行動すべきだと頭の中ではわかっていた。

 でも、胸に寄りかかるような透子の重みと柔らかさを感じて、馨は手を止めることができなかった。透子を抱く手に力がこもる。


「……っ!」


 舌を耳にさしいれると、耐えるように息を飲む音が聞こえる。このまま自分の物にしてしまいたいという衝動が、馨の中を駆け抜ける。だが、突然透子が身体をこわばらせた。

 腕で囲い込み、数センチしか離れていない視線の先で、透子の表情に動揺が読み取れた。


(――急ぎすぎたか……)


 まさか透子が、ふくよかな腹部が始めに触れたことに動揺していたとは知らず、馨は大きく息を吸うとその身を起こした。

 距離が離れパーソナルスペースを確保できた透子が、ほうっと息をつく。それが安堵したようにも見え、気持ちは馨に向いているが、まだ本格的に恋愛に歩みだす心の準備ができていないのだろうと思えた。

 気持ちが焦れて仕方がない。待つべきだとも、心のスピードが違うのも頭ではわかっている。それでももっと早く自分に近づいて欲しくて。身体も、心も欲しくて、馨は再び身を屈めるとチュッと音を出して口づけをした。

 虚を突かれ、透子は目を丸くする。これくらいは早く慣れて欲しい。その想いを込めて、今度はゆっくりと近づく。それは先ほどのような隙をつくものでもなく、先日のような力ずくに奪うものでもなく、馨のキスを、透子自身にちゃんと受け入れてもらうためだった。

 ほんの少し視線が揺らぎ、透子はそっと目を閉じた。

 馨は顔を傾けると、ゆっくり時間をかけてキスをした。怖がらせたくはない。急がせたいわけでもない。自分は裏切らない。彼女を受け入れたい。そんな想いを込め、柔らかく重ね、時折唇を食み、角度を変えて何度もそれを繰り返す、優しいキスだった。

 やっと唇を離した時には、透子は扉にもたれかかり、馨の腕にしがみついていた。見上げる瞳は潤んでおり、唇から洩れる浅い息遣いが馨を刺激する。


(このままいるのはさすがにヤバいな……)


 戸締りを言い含め、馨は後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。


 そのことを、実は少し後悔している。

 あの時のキスの感触と、柔らかな透子の体の感触が、馨の中に鮮明に残っている。

 もしかしたらあそこは引かなくても良かったんじゃないか?

 馨はまた大きくため息をついた。


 その頃、透子はタンスの前で腕を組んでいた。

 中は細かく仕切られており、小さく丸くたたまれた下着が詰め込まれている。


「ベージュ、ベージュ、白、水色、……ベージュ、ピンク、ベージュ」


 なんとも色気のない下着が、規律正しく並んでいる。

 目を落としたスマホの画面には、上下お揃いのカラフルな下着で身を包んだ美女が、ポーズをとっていた。

 レースが華やかなデザインで、色は鮮やかなブルー。ブラの中心に小さなリボンがあしらわれている可愛らしいものもある。ぎょっとしたのは、薔薇を形どったレースが散りばめられた下着だ。それは生地の上につけられているものではなく、生地に縫い付けられているようだ。その部分には生地がない。つまりは薔薇部分が透けているのだ。


「これ、下着の意味あるの?」


 かなり際どい部分まで薔薇があり、写真の横には『今夜は彼を悩殺!』とある。これは悩殺どころか通報レベルだ。こんなの、一般人が買うんだろうか。

 ふと、以前ショッピングモールで会った、馨の友人の女性が思い出された。

 彼女はモデルばりの美女だったが、モデルでも女優でもなく、普通の会社員だと馨は言っていた。……彼女ならこの下着は似あいそうだ。ということは、馨はこんな下着を普通に選ぶ美女達と、付き合ってきたのではないのだろうか。

 下着といえば、服にひびかないデザインと色を重視してきた透子は、途方に暮れた。

 レースやリボンはアウターに響く。黒や赤なんてもってのほか。だから自然と手に取る下着はモールドブラのようなシンプルなもので、色もベージュをはじめ大人しめのものばかり。

 大体、男の人はそんなに女の下着に、こだわりを持っているものだろうか? 『悩殺!』というが、それは。どちら視線での話だろう。

 女が悩殺するつもりで穿くのか、それとも見た男が悩殺される下着なのか……。下着選びに正解ってあるんだろうか。

 おしり側が総レースなんて物もある。キャッチコピーは『清楚に見せての小悪魔パンティ』だ。お値段なんと8,640円。小悪魔レベルじゃない。魔王レベルのお値段だ。

 何度考えても正解が分からない。だが、馨が見る見ないに関わらず、シンプルで実用的なだけのベージュの下着ではいけない気がした。



 * * *



「まあ、小悪魔パンティはちょっとハードル高いわよね」

「そうよね?」


 結局あの日のことを根掘り葉掘り喋らされた透子は、恋愛における下着の選択について、明日香に教えを乞うことにした。


「そう。誘われてもOK!って意気込みでつけるにしても、相手の反応が怖いわ」

「……誘われてもって……その……ソッチの方よね?」

「そうね。 日中の外デートでパンツ見せる趣味あるなら別だけど、まぁそれだと通報されるわよね」

「そ、そうよね……。明日香もあるの? その……そういう下着って」

「うーん。付き合いたての時はあったよ。小悪魔まではいかなくても、レース多めとか。さすがにTバックとかヒモはハードル高いから無理だけど。でも、今は同棲してるし彼氏も私の持ってる下着どんなのかわかってるからね。それでもたまにいいレストランに食事に行く時なんかは、張り切って下着選んじゃうかな。なんか、外側だけじゃなく見えないところもいいもの身に着けたいじゃない」

「勝負下着って、いうやつ?」

「まぁ、そうかな」


 そう話す明日香の顔は見たことのない顔だった。

 いつも彼氏の愚痴が多い明日香だが、うまくいっていないわけではないのだろう。愛情から“愛”が抜けて“情”になっている、と冗談交じりに言っていたが、そこにちゃんと愛はあるようだ。

 透子も、明日香の最後の言葉には納得だ。自分の容姿はわかっている。どう転んでも“美”に近づくことはできない。でも、せめて好きな人には“女”として扱われたい。たとえ外からは分からなくても、いいものを身に着け、自分自身が女であることを意識していたい。

 けれども、透子は多くの時間を無駄にしてきた。いや、厳密に言えば、無駄にしてきたつもりはない。透子なりに充実した日々を過ごし、好きなものに囲まれ、好きな趣味に時間を注いできたのだ。

 ただ、ちょっと世に言う“女子力”というものとは、縁遠い生活をしてきただけだ。――18年ほど。

 長い……。このサボってきた空白の18年を、取り戻すことができるのだろうか……なりたい自分に、今からでもなれるのだろうか。馨に好きでいてもらうには、どうしたらいいのだろうか。

 サボってきたツケは大きい。透子は項垂れた。

 すると、明日香が「そういえば」と、話を続けた。その口調は先ほどまでとは違い、不満げだ。


「下着といえばさ、男ってえっちの時、女の子の下着が上下お揃いかどうかって重要なんだって。相手がお揃いの下着を身に着けていなかったらがっかりする。が、なんと7割らしいわよ」

「はあ!? なんなの? そのふざけた統計は」

「本当よね。女の実態を分かってないわ。しかもそのうち6割は、パートナーには常に上下お揃いの下着をつけていて欲しい。ですって」

「は? ありえない!」

「更に。脱がせにくいからガードルタイプは途中でその気じゃなくなる」


 まったく。男は理想を求めすぎだ。

 女には月に一度、大事だけれど厄介な儀式が訪れる。そのための下着だってある。でも、ブラは? 予定や着るものによっては、違うタイプの下着を選ぶ時がある。和装のときは胸を寄せて上げるブラでは逆に不格好になるのだ。つまり、ブラとパンツではサイクルが違う。着け心地や見栄え、体調によってはコンビを解消してもらわなければいけないときだってあるのだ。だから、ブラとパンツはくたびれ方が違う。常に上下お揃いとか、お金があり余っている人か、よほどこだわりがある人だろう。

 自分のタンスの中がベージュだらけだったこともショックだったが、着け心地やサポート力を無視してまでも、見栄えの良い上下お揃いにしなくてはいけないのだろうか……それを考えると、透子はげんなりした。


「信じられない……。じゃあ普段用とデート用とか、世の女性は何通りか持ってなきゃいけないじゃない。世の中上下バラバラで売られてるの普通よ?」

「でも……こう言っちゃなんだけど、馨さんの歴代の彼女って、そういうとこもソツがなさそうよね……」


 そうなのだ。明日香の発言に、透子は返す言葉もなかった。

 どんなに頑張ったところで、歴代の彼女より見劣りするに違いない。透子は例の小悪魔パンティを穿いている自分を想像して、盛大に顔を顰めた。


「なんか、色々無理な気がしてきたわ……」

「そんなこと言わないで。綺麗な下着つけると、なんとなく気分も動きも女らしくなるもんよ。試してみるのもアリだと思うわ」


 そうだろうか……。人はその気になれば変われるというけれど、それはとてつもなく長い道のりに思えた。

 ああ……下着を買うために、今月は本の購入を我慢しなければいけないかもしれない……。透子はがっくりとテーブルに突っ伏した。

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