動きは予想の斜め上をいく
「サーセン! 待ちました?」
相馬が慌ただしく入って来て、くまのカフェの空気は一変した。
まったりと午後の時間を楽しんでいた馨が視線を上げると、相馬はこちらに向かってくる途中にカウンターで注文しているところだった。
「いや、構わないけど……。そっちも忙しいんでしょ? 俺の方から出向くって言ったのに」
「いや、そうなんすけど。俺もこのカフェ気に入っちゃったんすよねー。こっちってセンセとの打ち合わせくらいしか来る機会ないし」
なんだ。こっちの方がついでじゃないか。馨は苦笑しながら原稿を取り出す。
目の前に置かれたドーナツに、既に相馬の目は釘づけだ。
「それにしても、映画化直前スペシャルドラマって、なんだかんだ言って局は景気いいんだ?」
「んなことないんすけどー、今期のドラマ、うちの局他に比べて視聴率取れてないんすよ。来期は人気急上昇アイドルの主演が決まったんすけどねー」
「なんだ。俺のはつなぎ?」
「まさか! んなことないっす!」
不満げに文句を言う馨を見て、相馬はおや?と思った。
神馬馨という人物は、いつも笑顔を絶やさず物腰の柔らかい青年だ。その彼が不機嫌を隠そうとしない。
(ていうか、隠しきれてない?)
「例の化石ちゃん、なんかあったんすか」
すると、馨はあからさまに目を逸らした。
「……なんでわかるの」
「……ダダ漏れっすよ」
馨は顔を顰めると大きなため息をついた。
まさか無自覚だったのだろうか。これはもしかしたら重症かもしれない。そうは思いながらも、相馬は頬が緩むのを我慢することができなかった。
「そんなにおかしいかな」
「……すんません」
「全然、進展がなくてね」
馨は、せっかくデートにかこつけても、最後にはいつもスーパーに立ち寄っての荷物持ちになってしまうことを話した。
良い雰囲気になったとは思う。
手を握ると一瞬動きが止まって困ったような顔をするけれど、「離して」とは言われなくなったし、手を繋ぐ理由を問われることもなくなった。それに、以前ほど人目を気にしていないような気がする。でも、それ以上踏み込めない何かが、透子にはあった。
久しぶりに自分の方から好きになった相手だ。相手が自分に好意を持っていない状態でこんな感情を持つのはもしかしたら初めてかもしれない。だから、根気強く待つつもりだったのに。
透子の中にずっと居座っている一人の男の存在を知ってからは、自分の中に明らかな焦りが生まれて、抑えることが難しくなっている。
だからといって、相馬にそれを見破られるのは面白くなかった。
「でも、俺はそんなセンセ好きっすよ。――あ、変な意味じゃなくって。今まであまりにもそつがなさすぎるっつーか、人間味が出てきて、それ見てるのは嬉しいっす」
人間味が出てきた――。
以前、相馬に言われたセリフが馨の頭をよぎる。
『現実離れしたセレブドラマじゃなくって、共感呼べるようなドラマを。神馬馨の新しい面ってのを出して欲しいんす』
「今の自分は、余裕がなくてあまり好きじゃないよ」
「そうっすか? 俺は好きっす。――うん、ヒロインもその周りの友達も、ちょっとまだ背伸びした感じはするけど、前より全然いいっすよ」
いつの間にか、相馬の顔は仕事モードになっている。
馨は、自分の感情をうまくコントロールできないことに慣れていない。この危うい感情の揺れが少しのきっかけで爆発しそうで、それが馨は怖くて、不安だった。
* * *
透子とゆっくり会えない日が続いたある日、馨のスマホに一通のメールが届いた。それは、今やメル友となっていた透子の母からだった。
『お久しぶりです。最近、透子と会ってますか?』
キーボードから手を離し手早く返信すると、すぐに返事が返ってきた。
(おばさん……、操作早くなったな)
『実は、透子の同級生から連絡がきたの。あの子ったら同窓会の返事をまだ出していないようなのよ。なかなかこっちに来れないのはわかるけど、せめて幹事の子に連絡は取りなさいと伝えてくれる? あの子、私から言っても聞かないのよ』
同窓会か……そういえば、相馬との話題に出たな。馨は透子に連絡を取るきっかけを得て、意気揚々と『わかりました』と返事を返した。
この時は、これがどんなに自分を苦しめることになるかなんて思いもよらなかった。
「同窓会? そんな案内、お母さんからもらってたかな……」
またもやトイレットペーパーを買い込み、運び込んだ透子の部屋で馨がそう尋ねると、透子は首を傾げた。
最近は透子の言葉から敬語が取れつつあるが、きっと透子は無意識なのだろう。そんな小さなことに気づいて嬉しく思う自分とのギャップがもどかしい。
(でも俺がそう思ってることすら、知らないんだろうな)
「そう。おばさんが言うには、クローゼットに入れた大きな封筒の中に一緒に入れたって」
「えっ? そんなとこに入れたら気づかないわよ……。まったく母さんったら」
「せめて幹事の子には連絡しろって。心配してるってさ」
「うん……そうねぇ……あっ」
クローゼットには、透子の母が持ってきた物が大きな袋にまとめられていた。その中には、確かに大きな封筒がある。だが封筒は逆さまになっており、取り出した途端、封筒の中身が床に散らばった。同窓会のハガキをはじめ、実家に届いた透子宛ての郵便物や商品券。けれど、二人の視線は一際大きな写真に釘づけだった。
『最近、日本に戻って来たそうです。透子に会いたいと言っています。考えておいてください』
写真には、クセのある字で書かれた付箋が貼られている。
母はこの件で、透子に会いに来たのかもしれない。
「透子さん……どういうこと?」
「……なんで、なんで今更……」
透子は馨の言葉が耳に入っていないようで、青ざめた顔で写真を見ている。
写真に写っているのは、無精ひげをはやした男のスナップ写真を引き伸ばしたものだった。日に焼けた逞しい肌に、白い歯が眩しい屈託のない笑顔。すべてが馨とは正反対だった。
「これ……」
「――ごめんなさい、馨さん。今日はもう……帰ってもらえませんか」
透子の言葉が、敬語に戻っていた。
元カレだ――。
馨は直感でそう思った。
「透子さん。こっち向いて。俺を見て!」
「ごめんなさい。私用事を思い出して……そうだ。駅前にちょっと用事が……」
馨がすぐには帰らないと思ったのか、透子は馨の視線を避けたまま、ひとりで外で出ようとした。
「待って! 透子さん! ――ったく、逃げ足は速いのかよ!」
慌てて後を追った馨は、透子に追いつくとそのまま隣に並んで歩いた。
いつまで経っても透子は馨の方を向いてくれない。馨はどうしたらいいのか分からず、ただ隣を歩いていた。
駅前に用事があると言ったのに、透子の足はアパートの裏手へと向いていた。透子はその矛盾にすら気づいていないらしい。それほどまでに、あの写真の男の存在は透子の中で大きいのだ。それを思い知らされ、馨の胸は締め上げられるように痛んだ。
「……ひとりにしてもらえませんか」
「……嫌だ」
「馨さん、お願いだから……」
「嫌だ」
「ちょっと、気持ちを整理したいだけなんです」
馨は、自分の中で何かが弾けたような気がした。
気づけば透子の腕を掴み上げ、無理やり自分に向かせていた。
驚いて馨を見上げる透子の目はとても無垢で、まるで初対面の人間を見るかのようだった。
馨の中でどれだけ透子が大きな存在になっているか、今どれだけ苦しんでいるか、目の前の透子はちっともわかっていない。
あんな薄っぺらい写真一枚だけで、自分はすぐにでも追い出されてしまうようなそんな存在なんだ。そんなちっぽけな存在なんだ。それが無性に馨を苛立たせた。
「俺を、見ろって言った」
「……馨さん? どうしたんですか? 離してください」
困惑で眉間に皺を寄せた透子に、馨の苛立ちは募る。
手を繋いでも、少し触れても嫌がらずはにかんだ表情を見せるようになっていたのに、また透子は「離して」と言う。しかも敬語で。
時間をかけてやっと近づいたと思っていた距離が、またふりだしに戻った。
「俺を、見ろって言ってるだろう!」
「馨さん? ごめんなさい。今日はちょっと混乱してて……」
今日は? なら、明日は? 明後日は?
今、透子の言う通り、手を離したら何かが変わるのか? 明日になったらまた近づける?
違う。きっとまた、透子は距離を取ってしまうだろう。
「……もう、限界だ」
「……え?」
苦し気にそう呟くと、馨は透子の腕を掴んだまま歩きだし、狭い路地に入ると透子を壁に強く押し付けた。
「馨さん? なに……」
「俺を、見てって言った!」
「見てます。どうしたんですか?」
「違うよ。見てないでしょう。あの写真の男が、まだ透子さんの心に住み着いてるでしょう? 心から俺を見てよ。形ばかりじゃなく、俺を男として受け入れてよ」
「なに言って……」
言いかけた言葉が、馨の勢いに押されて後に続かない。
自分を見下ろす馨の視線に透子の心はざわついて、その視線からなんとか逃れたくて俯こうとした。だが、馨がそれを許さず、顎を掴み無理やり透子の顔を上に向かせた。
「やめ……!」
最後まで言うことは出来なかった。
強く押し付けられた馨の唇に、言葉の先が吸い込まれる。
声にならない音が漏れ、驚いた透子が開いた片手で馨の肩を叩くが、馨はキスをやめようとするどころか、無理やり舌をねじ込んできた。
ぬるりとした感触とともに、口内を舐めあげられる。
角度を変えて何度も繰り返される口づけに、浅い呼吸で力が抜けた透子は、身をまかせるしかなかった。顎を固定していた手は透子の頬を撫で、腕を掴みあげていた手も、今は優しく透子のうなじを支えていた。
「……ん……っ」
ようやく唇が離れた時、思わず漏れた自分の艶やかなため息に驚き、透子は唇を抑えた。
離れても、まだ馨の唇の感触が強く残っている。透子はひどく混乱していた。
「キスしたこと、謝るつもりはないよ」
両手で口を覆い、目を見開いている透子はじっと馨を見上げている。そこにはあの写真の男の影は見えない。
暗い喜びを感じながらも、馨は透子に対して手荒な真似をしてしまったことを悔やんでいた。
「でも、手荒な真似をしてしまってごめん。……殴ってもいいよ」
透子の目が泳ぎ、躊躇しているようだったが、気持ちを固めたのかしっかりと馨を見据えた。
ビンタの覚悟を決めた馨が、静かに目を瞑った瞬間だった。
「――ヒュッ……ごほっ!」
口から変な息が漏れて、馨が胸を押さえてよろけた隙に、透子はまんまと路地から逃げ出してしまった。
ゴホッ! ゴホゴホッ……
突然のことで、うまく息ができない。
まさか、渾身の頭突きが飛んでくるとは思わなかった。
よろめきながらも、なんとか路地から出ると、まっすぐにアパートへと走る透子の後ろ姿が見えた。




