彼女の妥協基準
テーマは「結婚とぱんつの複雑な関係」です
「うーん……いいんす、けど、ね……」
いつもと違う反応に、神馬馨は顔を上げた。
この日最後の打ち合わせは馨お気に入りのカフェの隅で行われていた。
倉庫を改築した天井の高い開放的な空間は外の騒音を忘れさせてくれる。これほど広い空間をカフェに使うとなれば大抵の経営者はテーブル数を多くして一度に大勢の客が入れるようにするだろう。だが、このカフェの経営者は違った。ゆったりと使える大きなテーブルにずっしりとしたソファ。目隠しになるよう絶妙に配置された観葉植物や本棚、パーティションで隣も気にならない。仕事の打ち合わせをするには最適だった。
「なんです? 相馬さん。歯切れが悪いな」
馨の言葉に無精ひげを撫でながら相馬重之は原稿を返した。
「イケメン人気脚本家の神馬馨っていったら高視聴率は間違いなし! なんですけどね。ただ……リアルさがもうちょっと、欲しいんすよねぇ」
「リアルさ?」
馨は驚いたように目を見開き、人差し指で軽く眼鏡を押し上げた。
驚くのも仕方が無い。馨の手に戻ってきた原稿は、常日頃から自分の周りで普通に起こっていたことだった。
高価なケータリングを呼んだホームパーティーから、クラブを貸しきってのドンチャン騒ぎ。そこで知り合うのはモデルや駆け出しの女優――。
「うーん。だってさ、普通のOLが都内の一等地、セキュリティ万全のマンション2LDKで一人暮らしは無いでしょ」
「そう……かな。俺の知ってる子、外資系でロフト付きの2LDK住んでたけど……」
その子のマンションよりはグレード落としたよ? 馨がそう続けると相馬はとうとう頭を抱えた。
実際、今まで書いた脚本だってその路線で人気が出て視聴率だってクール最高を叩き出してきた。
「いや、でも実際……あの……視聴率、取り辛くなってるんすよね。今」
「は? それはこのご時世仕方ないんじゃないかな。ケーブルテレビもあるしネットでも見れる。リアルタイムでドラマ見る奴って確実に少なくなってるんじゃないですか」
様々なエンタテインメントに溢れた昨今、ドラマで30%超えなんて、そんなお化けドラマはそうそう出ない。
昔のように地上波だけならともかく、今は視聴者が沢山の中から番組を選ベる時代だ。事実、テレビは無くても困らないと言われている時代なのだ。
「いやっ! 言いたい事は分かるんすけどね。上はまだまだ頭固いんすよー。だから現実離れしてるセレブドラマじゃなくって、もっとこう……共感呼べるようなドラマをね。神馬馨の新しい面ってのを、出して欲しいんす」
「セレブドラマぁ? 現実離れって……なにそれ」
呆れたように笑うが、馨は内心焦っていた。
「――え、もしかして、神馬さんってエステ通いは普通~って女しか知らないっすか?」
「え? 普通……そうじゃないの? そりゃあ……学生の時分ならともかく、社会人ともなれば――」
「うっわ! ありえねぇ! それ、ありえねぇっす! うわぁ~。神馬さん、まだ二十代でしょ? そんな年でそんな女しか知らないって偏りすぎっすよ! もう、羨ましいやら恐ろしいやらです! とにかく、今回は“共感”これが欲しいんす。なんとかっ頼んます!」
相馬は馨に向かってひたすら拝むと、伝票を引っ掴み、慌しく店を出て行った。
(別に……知らないワケじゃない。でも、皆プライベートでは小奇麗にしてるもんだろう?)
現に仕事で関わる女性達の中には、体のラインの出ない動きやすい格好をして、体力仕事をこなしている人達もいる。だがたまたま見かけたオフの姿はしっかり着飾っていた。
目の前には相馬が置いて行った原稿と、すっかり冷めてしまったブラックコーヒーがある。でも今はブラックコーヒーの苦味が欲しくてカップを持ち上げて口をつけた。
よく通る軽やかな声が耳に入ったのはその時だ。
「あのねぇ。結婚は妥協だって言うけど、妥協した相手に対してぱんつ脱いで股開くのよ? そこに妥協なんて無いのよ! なんの拷問よ!」
――ブッ。
ごほっ。ゴホゴホッ。飲み込む寸前だったコーヒーの大部分を盛大に吹き出し、置いてあった原稿に茶色い染みを作った。
(なんつー言い方を……)
だが間違いではない。確かにそうだ。それは結婚を意識したら逃れられない現実だ。それを声の主は単刀直入に言ったまでだ。
相手は頭に血がのぼっているのか、隣の席で馨が咳き込んだことに気付いていないらしい。
「何よ。言い方を変えたって結婚後に待ってる事は一緒でしょ。なんだったら今の時代、結婚前にソッチの相性を確認するもんよ。私の方が余程現実的だと思うわ、お母さん」
(母親!? 相手母親なの!?)
母親相手になんてストレートな表現――呆れた馨だったが、次の瞬間には凄まじい勢いで原稿の隅にメモを取っていた。
馨と彼女の間には背の低い本棚と、大きな葉をつけたパキラの鉢が置かれていて姿は見えない。
会話から想像するに、結婚をせっつかれているということは仕事バリバリのキャリアウーマンか? 年は……そうだな、三十歳前後……いや。こうもはっきりと表現するところから過ぎてる可能性大。
馨の頭の中で、声の主はどんどん形になっていく。
その作業はテーブルの上のスマホが震えるまで続いた。
「ええ……分かってます。少し手直しして……はい。また。――え? 飲みですか? うーん……アイデアが新鮮な内にちょっと形にしたいんで、今日は止めときます。えぇっ? 嫌がってなんていないですよ。今度また是非誘ってください。はい、お疲れ様です」
通話を終えると、辺りが静かになっていた。
(あれっ?)
中腰になり、先程まで声の主が座っていたテーブルを覗き込むが既に姿は無い。どうやら馨が電話中に店を出て行ってしまったようだった。
(うわっ。どんな人か見たかったなぁ……)
仕事柄、人間観察が癖になってしまっていた馨は心底残念に思った。
相馬に言われた言葉が頭をよぎる。リアルが足りない――共感が欲しい――。そのヒントを、彼女が持っている気がした。
「セレブドラマかぁ……そんな気はないけど……“普通”って何だろうな」
* * *
後日、元々用意していた原稿に手を入れて馨は再び相馬と打ち合わせをしていた。
「うんうん。あー健気で前向きなヒロインってのは確かに世代を問わず共感呼びますもんね」
ヒロインの設定を変えただけでだいぶ反応は良くなっている。だが、明らかに相馬は“妥協”しているように見えた。
「前の原稿、あります? ここんとこ。男性主人公と幼馴染の間で揺れるとこ、俺的には前の雰囲気持ってきた方がいいと思うんすよね」
「あぁ、あるよ」
表紙にコーヒーの染みがついた原稿を取り出すと、馨はそのまま相馬に渡した。
「あっ。そうそう。やっぱ幼馴染とは1言ったら10解かるって雰囲気。でも彼氏はそれについていけなくってイライラするってのは外したくないなぁ。どっか入れられません?」
相馬はふたつの原稿を見比べながらパラパラと器用に紙をめくっていく。
「――ん?」
途中で相馬の手が止まると、身を乗り出して原稿を読み始めた。
「ちょっと! ちょっとちょっと! 隠し玉あるじゃないすかぁ! なんすかコレ。新作っすか!?」
指差した先には彼女の発言を元にメモをした部分だった。
「あー……うーん……。まだ全然出来てないんだけど……」
「うわっ、これ僕が読んじゃいましたからね! 他に持ってかないでくださいよ! 僕がツバつけましたからね!!」
相馬はあろう事か本当に舐めた指を原稿に押し付けようとしたので、馨は慌てて原稿を取り戻した。
「ほんっと、まだコレしか出来てないからさ。……ていうか、出来上がってる原稿の方に反応してよ。こーんなメモに飛びつかないでさ」
「ヒットの匂いがします。“共感”の匂いがプンプンします。でも、確かに内容的には若いヒロインの話じゃないっすよね。実はね、今回神馬馨脚本の新作ドラマだっていうの、聞きつけた大手の事務所から、ヒロイン候補がもう挙げられてるんすよ。多分その子になるんじゃないすかね。会社同士のアレなんで、僕も詳しくは知らないですけど。清楚系なんでこの台本合うと思います。僕的にはこっちのキャスティングが気になりますけどねー。“ぱんつ脱ぐ相手に妥協できない”かー。いいっすね」
相馬は満足気に笑うと、手直しした方の原稿をバッグに詰め込み「ここ払っときまーす」と軽快な足取りで出て行った。
「“共感”の匂いがプンプン……」
鼻を近付けてかいでみたところで、勿論何も匂わない。飛び散ったコーヒーの香りだってもう残ってはいない。
(めちゃめちゃ期待に満ちた目だったなー。やばいな、俺、これ書ききれるかな……)
とっさにメモはしたものの、気が付いたら彼女は姿を消していた。
自分の引き出しがいかに少ないかを気付かされたあの日。それを自覚した今、このメモだけで相馬の期待に応えられるようなものを書ける自信は……無い。
「うわ、俺の世界狭ぇーっ」
馨は途方に暮れたように眼鏡を外し、ソファにもたれて天井を見上げた。
これは正式に彼女と出会う、十日前の話。