クリスマス
クリスマスの話です。
七月、十月あたりで名前が出てきた二人が主役です。
「ねえ。クリスマスに男からディナーに誘われるって、どういうことだと思う?」
「大変よろしいことかと思いますが」
真剣な私の問いかけに、男はしれっとそう答えた。不満を覚えた私が睨みつけても何処吹く風。まるで、それ以外に答を持たないとでも言いたげに仕事をこなしている。その手際と制服の着こなしだけ見ればご立派なバーテンダーなのだが、慇懃無礼な態度は適性を欠いているとしか思えない。店内に私以外の客が見受けられないのもこの男が原因ではなかろうか。そんな疑念を孕んだ視線さえ涼しい顔で受け流す男へ向けて、改めて私は質問をすることにした。
「そうね。私の聞き方が悪かったわ。問題はどういうことかじゃなくて、どういう話になるかってことよ」
「と、いいますと?」
尚、男は答を促すように返してくる。既に私が答を持ち合わせていると決めてかかっているかのようだった。
図星も図星で腹立たしい。だがその答の正否を問いたくて、こうして彼に尋ねているのだ。意地でも彼の口から答を言わせてやろうと、私は私自身がその答にたどり着いたロジックをくまなく述べてみせた。
「だってクリスマスなのよ?聖なる夜なのよ?そんな日にいい年をした男女が二人きりで会って仲睦まじく食事だけしてはいさようなら、なんてことあるわけないでしょ?それならここでこうしてあんたとお喋りしてるのと大差ないんだから」
一息でそこまでまくし立てると、男はわざとらしく思案に暮れた後で
「つまり、告白をされると」
私と同じ答を導き出した。
「やっぱりそうだよね……」
同じ結論に至ったことに安堵しつつ、ちっとも安堵できない結論に溜息をこぼす。その様子を見かねたのか、男は私に声を掛けてくる。
「誘われたんですか?」
「誘われたわよ」
私の答から、彼は事態の深刻さをようやっと悟ったらしい。
そう。これは彼が先に言ったように大変よろしいことでもなんでもない、誠に悩ましい問題なのだった。
何故なら。
「………………お受けしたんですか?」
「………………したわよ。この後、七時に」
それが今夜の話だからだ。
十二月二五日、聖夜。私は高校時代の友人が働いているバーにいた。
一週間ほど前のこと。七年ぶりに再会を果たした折、その友人は私の姿を見るなり、一言も交わすことなく脱兎のごとく逃げ出した。
色気も味気もなかった邂逅に立腹した私は、旧友を方々あたり、つい先日彼が働いているというこの店を突き止めることに成功する。その間に、私には聖なる夜の予定が入ったわけなのだが、その待ち合わせ場所に近かったこともあり、今日こうして彼の働く店に足を運んだのであった。
どうせなら文句の一つでも言ってやろうと意気込んで店内に現れた私の姿に、彼は一瞬驚いたものの、それからはウェイターらしく振る舞うばかり。気は晴れず、物足りなさを感じながらも、私は他に客がいないのをいいことに、待ち合わせ時間まで彼とお喋りをして時間を潰すことにしたのだった。当然、彼は困苦極まる表情を浮かべていたが。
「文句あんの?澄人」
それに加えて今度はあからさまに呆れ顔を浮かべたまま固まる元同級生に、私は気色ばんで言う。
「いえ。ありませんよ、三田様」
と、彼はわざとらしいまでに表情を正して応じるが、その態度とは裏腹にまだ何か言いたげな面持ちである。その顔に向けて、私は息巻く。
「だって仕方ないじゃない!ここのところとにかく忙しくてクリスマスのことなんか頭になかったし、相手も誘う時に今度の日曜日としか言わなかったんだもん。休日ならどうせ空いてるから大丈夫だろうって二つ返事で受けちゃったの。だいたい特別親しいわけでもない人からクリスマスに誘われるなんて思いもよらないじゃない?」
私の主張を黙って聞き終えた澄人は、そのまま口を開こうとしない。物言わずとも表情が全てを物語っている。どうやら今度ばかりは同意を得られそうにないようだった。
「……あーあ。やっぱり期待させちゃったわよね。でも今更断るのも悪いし」
「その方とお付き合いをされる気はないんですか?」
自問自答を始める私に、澄人は問いかけてきた。
核心をつく問いを随分とまあ簡単にしてくれる。それに答が出るなら最初からこんなに悩んだりはしないというものを。
「ないわけじゃないわ」
曖昧に答えるに留めて私は澄人の反応を窺う。ウェイター然とした面持ちのまま、彼は再びてきぱきと手を動かしていた。結局、澄人の気持ちは窺い知れないまま、沈黙が先を促すものと見て私は続ける。
「悪い人じゃなさそうだし。むしろ良い人そう。だけどそれとこれとは話が別。今日想いの丈をぶつけられても、私は答えられないのよ。後悔しないためにも、相手のことはよく知っておきたいじゃない?」
くどくど私が話していると、澄人はこちらに背を向けて
「では相手を知るためにも、行ってみるのがよろしいのではないでしょうか」
と進言してきた。それから独り言のように言う。
「想いを告げられたなら、『相手を知ってから答を出したい』という考えを伝えてみるのもいいでしょう。その意思を尊重してくれるなら幸いでしょうし、相手のお人柄も知れるというものですから」
反論はかなわず、苦し紛れに澄人の背中をねめつけると、彼の肩が震えているのがわかった。どうやら笑いをこらえているらしい。
「……ちょっと。何笑ってんのよ。ここの店員はそんな風にお客を笑うっての?」
笑われる謂れのない身としては愉快なはずもなく、私が詰問すると、彼は依然として背を向けたまま答えた。
「いえ。よくお考えになっていて、答も最初から持ち合わせていらっしゃったのでしょう?それなのに誰かに同意を求めて背中を押してもらわずにいられないところは相変わらずだなと思いまして」
確かに彼の言う通りだった。
私が納得するために、どうすればいいのか、どうすべきなのか。最初からこの問いに対する答はわかっていたのである。
わかっていながら、二の足を踏むばかりで、一人では決断できずにいた。
澄人はそれを見透かしていた。だからこそ、その答を代弁して、背中を押してくれたのだ。
こちらに背を向けたままなのは、あくまでウェイターの領分を出ないという意思表示なのだろう。
だが少なくとも今の彼の声は、今までのウェイターらしいものというより、七年前のあの頃の声のようだった。窺い知れない顔にもまた、あの頃と同じ笑みを浮かべていることだろう。
私の意思決断力の薄弱さが相変わらずなのと同じように。
「悪かったわね」
そう悪態をつきつつ、誰のせいだと思っているんだと内心で恨み言を言う。
澄人が昔と変わらないことを垣間見れたのは喜ばしいことに違いないが、少なくともこの件に関して笑っていられるほど、彼は無関係ではない。
自覚を始めたのはいつの頃だったか、もう定かではないが、昔から私には目標や目的と呼べるものがなかった。稚児が周りを見て言葉を覚え、話し、立ち上がり、歩き出すように、私も周りに合わせて必要なことを必要なだけこなして育ってきた。
それで困ることはなかった。目標なんてものがなくても、不満のない結果を手に入れることはできたから。
だがふと、目標も目的もない私が、一体何のために生きているのかがわからなくなってしまった。
生きることそれ自体が目的であるという考えは、きっと間違っている。
機械だって何かを為すために動いているのだ。何を為すでもなくただ動いているだけの機械があるとしたら、それはただの欠陥品だろう。
だから目標も目的もない私も、きっと欠陥品なのだ。
そう思った途端に、私は周りとの違いを極度に恐れるようになった。私が周りとは違う、欠陥品だと思われるのが怖くて仕方なかったのだ。
次第に私は周りに追従するようになり、ほとんどの意思行動とその決定に至るまで、誰かの同意を得ずにはいられなくなった。
そんな私の性根を叩き直したのは、当時知り会って間もなかったクラスの男子生徒だった。高校一年生のとき、その男子の提案によって私は一つ目標を決めることになる。最初は単純なものからと選んだ目標は「期末テストで順位をあげる」というものだった。
そのときに基準となった中間テストの順位において、私の一つ上にいたのが澄人だったのだ。当時、その男子と澄人が親友であるとは思いもよらなかったが、一旦は改善の兆しを見せた私の性根を、他でもない澄人が悪化させることになろうとは、もっと思いもよらないことだった。
「壁に飾ってある絵、澄人のよね?」
会話が途切れた拍子に店内を見回した私は、目についた絵を指差しながら澄人に尋ねた。
「ええ。店長に気に入ってもらって、飾らせてもらってるんです」
澄人は視線を、壁に掛けられた絵へと向け答えた。この店は昼間もカフェとして営業しているらしい。なるほど確かに、お洒落な店にはセンスのある絵がつきものか。
「そっか。澄人の絵、綺麗だもんね」
私が納得したように頷くと、苦笑交じりに澄人は応じる。
「そう言ってくれるのは、昔からあなただけでしたけどね」
それから他の絵へと順繰りに視線を移していく。私もそれを追いかけた。最後に目にとまった絵は、私が初めて澄人に見せてもらった絵だった。
その絵を見つめながら、当時を懐かしむように私は呟く。
「そうだったわね」
難なく期末テストで順位を上げ、目標を達成した私だったが、一つだけ気にかかることがあった。それは中間テストでも、期末テストでも私の一つ上にいた一人の男子生徒の存在である。
次の中間テストでもその次の期末テストでも、その中井澄人という名前は私の一つ上にあった。次第に、私の目標はテストの順位を上げることから中井澄人を追い越すことになっていった。
だが結局、一年かかってもその名前より上の順位をとることはかなわず、澄人の名前は私の一つ上にあり続けた。
二年生になった私は、澄人と同じクラスになり、初めて対面を果たすことになる。一年間、名前だけでも知っていたからだろう、初対面のような気はせず、すぐに打ち解け親しくなった。
それは澄人も同じだったようで、私の名前を知っていたことを後になって教えてくれた。一年間、常に一つ下にいた私の名前を。
その頃には、他人と同じでなければという強迫観念は薄らいでいたが、私は澄人と同じだったことが、素直に嬉しかった。
それから少しして、私は澄人にあの絵を見せてもらったのである。
直感的な曲線と大胆な直線、それに独特の色使いで描かれたその作品は見る者にひたすら抽象的な印象を与えるものだったが、私は一言、綺麗だと率直に述べた。彼はそれをことのほか喜んだ。
少なくとも澄人の内には明確なモチーフと、それを美しく描きたいという確固たる想いが存在していたのだが、それを理解してくれた人はついぞ一人もいなかったのである。
私は自身の感性が一般的なそれと違っていたことに落胆を覚えもしたが、それよりも澄人と同じ感性を持っていた喜びの方が勝っていた。
「兄の描く絵の方が、綺麗でしたからね」
彼は私の呟きに対して、そんな反応を示した。謙遜もなければ衒いもない、ありのままの事実をただ述べただけのその言葉は、使い古したような老いた言い方だった。
私自身、七年前に似た台詞を飽きるほど聞かされている。そのときですら老いた響きを持っていたのだ。きっと澄人の中ではもう何度となく繰り返された言葉なのだろう。
私は意趣返しとばかりに、笑って澄人に向けて言ってやった。
「相変わらずなのはお互い様ね。そうやって当たり前のようにお兄さんを引き合いに出すところ。ちっとも変わってない」
澄人には兄がいた。
八つ上の兄。何をやっても完璧にこなす兄。どうやってもこえることのできない兄。澄人は早々に、そのことに気が付いていた。そしてその瞬間、兄を超えるための努力は終わりを迎えた。
それでも彼が努力それ自体をやめることは決してなかった。
半端な結果に価値を見出せずとも、努力を続け、重ね、貫くことで己の価値を示すことができると彼は信じて疑わなかったのだ。
目的と手段が倒錯した彼のそのあり方は、私の目には欠陥しているように映った。欠陥を抱えているところまで私と同じだったことが、ただただ嬉しかった。
だが彼は、そんな自分の在り方を決して欠陥などと卑下することはなかった。
天才の兄に対する羨望も、兄に及ばない自分に対する絶望も、彼は抱かなかった。ただひたすらに、自身とその在り方をありのまま享受していたのだ。
先の言葉は、そんな彼の在り方をこの上なく表した台詞だった。
やっぱり、澄人は私なんかとは違っていた。その事実に私は深く悲しんだが、何より彼のその強さに、憧憬の念を抱いた。
それから中井澄人は、三田有季にとって目標以上のかけがえのない存在になったのだ。
私の言葉に、澄人は目を丸くして驚いた後で、顔を綻ばせた。七年前と変わらない笑顔。私にとっての、特別な笑顔。
だからこそ、私は問わずにはいられない。
「変わってないのに、なんで、いつまでもそんなに余所余所しいのよ」
初めは、数年来なのだからぎこちなくても当然かと思っていた。或いは変わったところがあればそれもやむないと考えていた。だが実際には、澄人は七年前からほとんど変わっていない。そのうえ私がこれだけくだけた調子で話しているのに、いつまでも他人行儀なのはおかしい。
問いかけに、澄人は今までになく面持ちを引き締めて答える。
「ここはお店ですから」
「他に客なんていないじゃない」
釈然とせずにすかさず言い返すも、彼は頑なに言い放つ。
「カウンターを挟んでいる以上、私は店員で、あなたはお客様ですから」
そしてそれきり、口をつぐんでしまった。これ以上応じようという気配も見られない。
ふと、七年前も確かこんな感じだったなと思う。忘れもしない、七年前、最後に澄人に会った日。決して口にするまいと心に決めていた出来事が、その日にあった。
「……私、まだ根に持ってるんだからね。あんたが急にいなくなっちゃったこと」
高校二年生の夏休み。その日は花火大会があった。数人の同級生とその妹、それに妹の友達を交えた大所帯で行ったのだ。そして同級生二人をくっつけようと画策し上手く二人きりにする傍ら、私もまた、澄人と二人きりになった。
絶え間なく花火の打ち上がる夜空の下、私は澄人に想いを伝えようとした。澄人もまた、私と同じ気持ちを持っていてくれていると信じていた。そう信じるに足る時間と触れ合いが、確かにあったのだ。
だが私が告白をするより早く、澄人は言った。
たった一言、「じゃあな」と。
いっそ、花火の音に紛れて聞こえなければよかったのに。その言葉はやけに鮮烈に、響き渡る花火の音の波を掻き分けて私の耳へと届いた。
私は何かをまくし立てていたが、澄人はそれには一切取り合わず、すぐに駆け出した。その背中に向けて何を言っても、彼は振り向こうとしなかった。まるで私の声だけが花火の音にかき消されて、届いていないかのように。
そして後日、澄人が学校を辞めたことを私は知った。それきり、彼について新しい情報が入ってくることはなかった。
馬鹿馬鹿しい片思いだったと笑い飛ばすには、些か想いが強すぎた。その分、私は他人との違いを、とりわけ気持ちの齟齬を以前にも増して怖れるようになったのだった。
澄人は僅かに表情を歪めながらも、口を開こうとしない。やはりあのときと同じ。電池が切れたのか、時を刻むことを放棄した店内の時計が、あのときから時間が止まっているかのように錯覚させる。
言葉を探すように視線を彷徨わせている澄人に向かって、私は言った。
「じゃあね」
あの時の澄人と同じ、たった一言の別れの言葉。
もう待ち合わせの時間である。
私の時計がきちんと時を刻んでいるように、時間は止まることなく進んでしまったのだ。七年前のあの日の焼き増しは、立場が逆転して写された。
澄人は尚、躊躇いがちに何かを言おうとしながら、しかし口を開かない。
振り返り際に見た澄人は、物怖じしたような、けれどそんな恐怖に打ち勝てない己を恥じるようなそんな表情をしていた。
あの日の私も、同じような顔をしていたのだろうか。
ならそんな顔にさせたあの日の澄人は、今の私と同じ気持ちだったのだろうか。
こんなにも、胸が苦しかったのだろうか。
待ち合わせ場所には、既に相手の男が立っていた。どのくらい待っていたのだろう。聞くだけ野暮というものか。
彼は私と顔を合わせるなり、一言詫びてきた。困惑する私に対して簡単に事情を説明してくれる。
どうやら今夜呼び出したのは、彼本人から話があるのではなく、彼の知り合いが私に話があるから、ということらしい。
一体どこの誰が私に話があるというのだろうか。
とんと見当もつかぬまま向かったレストランで、男の知り合いというその人物が厨房から現れた。コック帽と制服のせいで見違えてはいたが、その人物の顔は確かに私が知っているものだった。
「反町くん?」
確認するように名前を呼ぶと
「久しぶり、三田」
と、昔と変わらない調子で、元同級生、反町は答えてくれた。
それから「また後で」と言い残してそそくさと厨房へ引っ込んでしまう。どうやら今は忙しいようだ。私たちが食事を済ませた頃になって、反町は再び私たちの席へとやってきた。
改めて再会の挨拶を交わした後、私たちは四方山話に花を咲かせる。
反町は高校一年生の時、私の歪んだ性根を叩き直してくれた人物だった。それからの三年間も同じクラスで、多くの時間を共にした。特に二年生になってからは、澄人と彼の幼馴染の花村十美子、それに留学生のハワードを加えた五人で、色んなところに行って色んな事をした。それも澄人が学校を辞めるまでの話だったが、あの頃が一番、満ち足りた時間を過ごしていたと思う。お互いに卒業から今に至るまでの話もしたが、自然、口をついて出るのはあの頃の話題ばかりだった。
思い出話もあらかた喋りつくし、会話が途切れた折に、反町は切り出した。
「それでさ、三田。もし今、誰とも付き合ってないんだったら。……俺と付き合ってくれないか?」
今日、告白をされると思ってはいたが、それが反町からだとは夢にも思わなかった。おかげで私は答に窮してしまう。
「そんな、急に……」
すると反町はまなじりを決して言った。
「高校の時からずっと好きだったんだ。でも、三田は中井のことが好きだと思ってたから、あいつが学校を辞めた後も言えなかった……」
そう言われてみれば、確かに反町は常に私を気にかけてくれていた。
私の歪んだ性格にいち早く気付き、正してくれたのも彼だった。澄人の絵のことを私に教えてくれたのも彼だった。澄人が学校を辞めて悲しみに暮れていた私を根気よく支えてくれたのもまた、彼だった。
私にとっては急でも、彼にとっては七年秘め続けた気持ちである。彼のことをもっとよく知りたいのであれば、それは付き合いを始めてからでも遅くはないのかもしれない。
でも私は
「私、今すぐに返事はできないから。今すぐ答を求められたら、良い返事はできない……」
自分の一番納得できる答を、はっきりと口にした。反町のことをもっと知ってから決めたいということ以上に、澄人のことを気にしたまま気持ちに応えるのが申し訳なく思えたのだ。例えこの答が、彼の気持ちを台無しにするものだったとしても。
反町は、そんな私の本心まで感付いたのかもしれない。一瞬顔を伏せた後、すぐに面を上げ
「そっか……。いやあ、俺そういうの待てない性分だからさ。じゃあこの話は無し無し!忘れてくれ!」
あっけらかんとそう言って笑いながら厨房に引っ込んでいった。しかしその笑顔は、今にも泣き出しそうに見えた。胸が締め付けられるような想いで見届けると、ふと、私を呼び出した男が、今まで閉ざしていた口を開いて語り出した。
「意外だったよ。三田さんって、ああいうことは言えないまま付き合っちゃう人かと思ってたから」
この男、反町の先輩とのことらしいが、それにしても失礼極まりない。だが的を射ているので素直に認めることにする。
「そういうこともありました」
私は今までにあった付き合いを思い出す。
告白をされて、考えてから答を出したいと言えないまま何となく付き合い始めてしまう。そんな始まりのせいか、恋人らしいこともないままに今までの関係は全て終わってしまっていた。
「実際、勇気がいるよね。ああいう答ってさ」
「勇気、ですか?」
唐突な男の発言に私が聞き返すと、彼は赤らんだ顔で頷きながら応える。どうやら酔いが回っているらしい。
「そう。好きだって言ってくれる相手に『その気はなくはないけど、待っててくれ』なんて言うのは勇気がいるよ。だってその答のせいでせっかくの相手の好意が裏返っちゃうかもしれないんだから」
酔っ払いの言うことながら共感が持てることが少し腹立たしい。
相手との気持ちの齟齬を極端に恐れていた私は、『待ってほしい』の一言を言い出せずにいた。その一言のせいで、相手の好きが嫌いに変わって、すれ違ってしまうのが怖かったのだ。それでも今日、反町に対してはっきりと自分の気持ちを言うことができたのは、澄人が背中を押してくれたからだ。
納得している私の様子を満足げに眺めながら男は続ける。
「でも、告白するのだって同じくらい勇気がいるもんさ。常に幸せな答が返ってくるとは限らないんだから」
全く同意見である。気持ちの齟齬をこの上なく恐れている以上、私は今までも、そしてこれからも、告白なんてできやしない。
いよいよ盛り上がってしまったのか、男は酒杯をテーブルに勢いよく置いて、力強く断じた。
「だったらいっそ、最初から想いは告げず、相手も最初から想いを聞かない。これが一番楽な選択による幸せな結果だろうね」
「それは違うと思います」
先程まで頷いていた私だったが、その言葉にだけ思いのほか強い語気で反論をしていた。
『最初から想いは告げず、最初から想いを聞かない』。その選択とその結果を、私は七年前に経験している。それは決して幸せなんかじゃなかったと、私は知っているから。
男は意外そうに目をしばたかせたかと思うと、満足げに笑った。一息でグラスの中身を飲み干すと、新しくワインを注ぎながら言う。
「僕もね、そんな幸せは悲しいものだと思うよ。それよりも僕は、勇気を出して告白した反町の選択と、勇気を持って三田さんが誠実に応えたという選択による結果の方がより良い幸せなものだと思うね」
男はグラスにワインを注ぎ終えると同時に言葉を切り、ワインをもう一度あおった後
「その結果がたとえ、悲しいものだったとしてもね」
と言い添えて、ガクリと力なくうなだれてしまった。心配して近寄ろうとすると、厨房から出てきた反町が慌てて駆けつけてくれる。
「悪い、三田。先輩、酔うと手がつけられないんだ……。何か変なこと言われなかったか?」
数人の店員に先輩を任せながら反町は私を案じて尋ねてくる。
私は一言「大丈夫」と返した。変な人ではあったが、変なことは言われていない。むしろとても大切なことを言ってくれた。
「……また、食べに来てくれ。いつでも大歓迎だからさ」
帰り際、反町はそう言ってくれた。憂いを帯びた、けれども精一杯の笑みをその顔に浮かべていた。これが先輩の言っていた『私と反町の選択による結果』ということなのだろう。それがより良い幸せなものであると信じるのなら、私もまた、笑顔で応えねばなるまい。
「ありがとう」
上手くできたかはわからない。誤魔化すように私は
「先輩にもそう伝えておいて」
と付け加える。
「ん?ああ、わかった」
不思議そうな顔をしながら応じる反町を尻目に、私は目的地に向かって歩き出した。
「話があるの」
澄人の店に戻った私は相変わらず一人も客のいない店内で、再びカウンター越しに彼と向かい合い、開口一番にそう言った。
そういえば、七年前のあの時も、同じ言葉で切り出したのだったなと思い出す。
「話とは、何でしょう」
澄人もあの日を思い出しているのか、一層粛然とした態度で尋ねてくる。私は半ば自分に言い聞かせるように
「逃げないで聞いてほしい。私も怖がらないで伝えるから……」
そう前置きした後、澄人の目を真っ直ぐ見返して告げた。七年前と同じ気持ちを。
「私、澄人のことが好き。七年経っても、やっぱり気持ちは変わらない。だから……」
あの日の私は、彼に想いを告げることができずに悲しんだ。だけど心の奥底では……。
…………安心していたのだ。
いざ気持ちを伝えようとしたら、私とは違う気持ちが返ってくるんじゃないかと、不安でいっぱいになった。澄人がいなくなったことで、想いを告げずに済んだ。想いを告げずに済んで、違いを確かめずに済んで、私は安堵したのだ。
それからの私が怖れるようになったのは、他人との気持ちの齟齬自体ではなく、その齟齬を確かめてしまうことだったのだ。
あの日の私は、臆病だった。自分の気持ちを一切ぶつけようとせず、逃げ出した澄人の選択に甘んじた。
あの日出せなかった勇気を今こそ振り絞るのだ。
「だから、逃げないで答を聞かせてほしい。時間がかかってもいい。私は待ってるから」
目を逸らさず、私は最後まで伝えおおせた。澄人もまた、私から目を離さずに聞いてくれた。このときを切望していながら、決して待望はしていなかったような、そんな様子だった。澄人は小さな深呼吸の後で
「いえ、すぐに答えますよ」
と、意を決して言った。そしておもむろに語り出す。
「……私は、何かを特別だと思うことが怖いんです」
その語り口は、彼が兄を引き合いに出すときに似た、老いた響きを含んでいた。きっとこの語りもまた、彼の中で幾度となく繰り返されたものだからかもしれない。
「昔から、私が特別だと思ったものは、天才だった兄からしてみればどれも平凡な物でしかありませんでした。折角私が見つけた特別も、結局は端から全部平凡に成り下がってしまう。次第に、本当に特別に思うものさえも、平凡なものになってしまうんじゃないかって怖くなったんです」
澄人の主張に反論を掲げるのは容易い。特別かどうかなんて主観に過ぎず、決して他人が決めるものではないのだと。だが天才の兄を持つ彼にしかわからない経験の上に成り立つ考えもまた、彼の主観によるものなのだ。それを否定することなどきっと誰にもできはしないのだろう。
「……結局、特別なものなんて何もない、全ては平凡なものに過ぎないんだと思い込むしかありませんでした。……でもあなたは、私にとっての特別になった」
澄人の口調が、少しずつ熱を帯びていく。それは彼自身が、未だ受け入れ難い葛藤を抱えたままだからだろう。
「それを認めるのが怖かったんです。認めた途端に、あなたも特別なんかじゃなくなってしまうんじゃないかと思うと、怖くて仕方がなかったんです」
今日一日、カウンター越しに慇懃な態度を押し通しているのも、私を一人の客として、特別扱いしないようにするためだろう。そしてあの日、私の前からいなくなったのもきっと、そこに起因している。
「……だからあの日、逃げ出しました。本当はあなたにこのことを伝えて、向き合わなければならなかったのに、それができなかった。何度も何度もあの日を恥じて、後悔して。それなのに、さっきも何も言えず……。今もこうして、カウンターから出ることさえできない」
彼の声は悔恨に、その身は憤怒によって打ち震えていた。七年もの間ずっと、その悔いと怒りは堆積し続け、彼を苛み続けたのだろう。
あの日、私は想いを告げなかった。澄人は想いを聞かなかった。
澄人の選択も、私の選択も、楽で臆病な選択だったのだ。その結果は誰よりも私と澄人が知っている。決して、より良い幸せな結果なんかじゃなかった。
彼は、そんな己を恥じ、後悔をし続けた。私は今日まで、自身の臆病さに気がつかなかったというのに。
澄人はやっぱり、私とは違う。
私はまだ他人との違いが怖いし、できれば他人と同じがいい。
特別な人となら尚更だ。すれ違いも齟齬もない、パズルのピースのようにピッタリはまる他人を求めてやまない。
けれど
「私がずっと澄人の特別でいられるかはわからないけど……。澄人が望んでくれるなら、私はずっと一緒にいるよ」
違いを恐れる気持ちは互いに同じだから、きっと大丈夫。
「時間がかかってもいい。カウンター越しでもいい。答をくれなくてもいい。一緒にいられれば、私はそれでいいよ」
これが私の気持ち。伝えたかった想い。勇気ある選択だ。
澄人は懸命に言葉を探そうとしている。彼もまた、勇気ある選択をもって応えようとしているのだろう。
私が黙してそれを見守ろうとしていると、不意に猛烈な眠気が襲いかかってきた。さっき飲んだお酒が原因だろうか。私は腕時計を確認する。どうやらもう日付が変わる頃のようだ。
そんな私の眠気は、寝ぼけ眼に飛び込んできた人物によって吹き飛ばされることになる。
「……澄人?」
先程までカウンター越しに向かい合っていた澄人が、私の隣に立っていた。そしてぎこちなく、何かに怯えるように、けれど精一杯に昔と変わらない調子で話しかけてくる。
「三田、お腹空いてない?」
「……ちょっとだけ」
何故だか答える私も緊張でたどたどしくなる。それだけで、七年という時間が確かに過ぎたことを実感させられた。
ぎこちない私たちにお似合いの答。それを澄人は口にする。
「じゃあ飯でも食いに行かない?」
聖夜の食事の誘い。それが意味するところを、私たちは数刻前に確かめ合っている。
だが私の腕時計の針は、てっぺんを少し過ぎたところを指していた。澄人の答はそれを確認したうえでのものだった。
『同じ誘い文句が特別になる一年後まで待ってほしい』。それが澄人の勇気ある選択ということだろう。
今までカウンターの向こうから出ることさえかなわなかった澄人にしてみれば、こうしてすぐ隣で、昔と変わらずに話すことさえ大きな一歩である。
踏み出したその一歩でようやくたどり着いたのは、クリスマスでもなんでもない日の、なんでもない食事というスタート地点でしかない。
だけど来年の冬には、同じ誘い文句が特別になる特別な日に辿り着くことができるだろう。
あの日の続きは、それからだって決して遅くはない。
澄人も同じように思っていてくれたら、それだけで私は嬉しいと思った。
オマケに続くかもしれません。