魔女の側仕え
# いつもの朝
山ほどの怪物も、陽の光さえも飲み込み、果てなく続く魔の樹海。
そんな魔境によって外界から隔てられた地に、広大な湖を囲む七つの魔法都市が栄えていた。
誰もが近寄ることを恐れる樹海の奥地で、人々は今日も穏やかに暮らしている。
そしてその朝、芸術都市アルモニアのとある屋敷でも、一人の側仕えがいつもの仕事を始めようとしていた。
この都市を治める頂点魔女、セヴィル・エルデム。その血族として生まれた令嬢、ニサ・エルデムは、今日も主人のもとへ向かう。
朝露をまとった門をくぐると、屋敷の入り口の光苔が、ニサの足音に合わせて淡く光る。
「セヴィル様、おはようございます」
玄関を開けて声を上げるが、返事はない。いつものことだ。ニサは玄関脇で外套についた葉片をぱっぱと払う。屋敷の中は静かで、廊下の隅では銀色の胞子をまとった小さな掃除茸が、もそもそと床を磨いている。
「はいはい、ごめんね。通るよ」
ニサは掃除茸を踏まないよう注意し、奥の部屋へ向かった。扉を開けると、セヴィルは卓の前で楽譜を睨んでいた。白い寝衣のまま、長い黒髪もまだ結い上げていない。
卓の上に焼き立てのパンと、蜜を落とした温かなミルクを目の前で用意する。しかし、本人はそれに手も付けず、羽根筆の先で譜面の一箇所を何度も叩いている。
「セヴィル様。朝ごはん、冷めちゃいますよ」
「あと少しです」
「その『あと少し』、昨日の夜も聞きました」
セヴィルの指が止まる。ニサは笑いながら椅子の背に掛けられていた外套を畳み直す。
「今日は夜会の日なんですから。朝から音と喧嘩してる場合じゃないです」
「喧嘩ではありません。意見の擦り合わせです」
「音と?」
「ええ。音とです」
そう言ってから、セヴィルはようやく顔を上げた。深い青紫の瞳は少し眠たそうだったが、姿勢だけはいつも通り美しい。
セヴィルの治めるここ、芸術都市アルモニアの民でも、セヴィルを間近で見る者は多くない。遠くから祭礼の姿を拝むだけで涙ぐむ者もいる。けれどニサにとって、今目の前にいるのは、朝食を忘れて楽譜に夢中になっている困った主だった。
「髪、先にします?それともごはん?」
「朝食が先です。あなたがそう言ったのでしょう」
「はい。じゃあ、ちゃんと食べてください」
ニサが席に着くと、セヴィルもようやくパンを手に取った。
二人で食卓を囲むのは、特別なことではない。ニサが幼い頃から、この屋敷の朝はだいたいこうだった。
都市は一人の頂点魔女が治める。
その象徴であり代表であるセヴィルを、エルデム一族は支え続けてきた。
頂点魔女を輩出した一族が、頂点魔女に仕える。それは一族の誉れであり、この都市の民にとっても誇らしいことだった。
ニサも物心つく前から、礼儀作法より先にこの屋敷の廊下を覚えた。けれど、それはただ跪くことではない。朝食を食べさせ、予定を整え、衣装を選び、時には休むように言う。それもまた、側仕えの役目だ。
「今夜の菓子ですが、予定通りあなたにお願いします。材料の準備は順調ですか」
「はい。あとは採集に行くだけです。ですが、本当に私で良いのでしょうか?」
「ええ」
「七人の頂点魔女様が召し上がるものですよ?」
「だからこそ、あなたに任せます」
セヴィルは平然としている。ニサは膝の上で指を握った。胸の奥がふわりと浮く。嬉しさと、緊張と、少しだけ逃げ出したい気持ちが同時に押し寄せる。
「すごく嬉しいですけど、すごく怖いです」
「怖い?」
「だって、失敗したらエルデムの名前に傷がつきますよ。お母様にだって一週間くらい姿勢から直されます」
「菓子一つで傷がつくほど、エルデムの名は弱くありません」
セヴィルの声は柔らかかった。
「あなたは、見栄えだけの菓子を作りません。食べる相手を見て、場所を見て、季節を見て、きちんと考える。夜会に必要なのは、豪奢な皿ではなく、その場に相応しいかどうかです」
ニサは返事を忘れた。褒められると思っていなかったわけではない。けれど、セヴィルがこうして真っ直ぐ言葉にする時、それはいつも、ニサの胸の奥に静かに沈んで残る。
「……分かりました」
ニサは小さく頷いた。
「ちゃんと作ります。セヴィル様が、ちょっとだけ自慢したくなるくらいのやつを」
「ちょっとだけですか」
「たくさん自慢したら、他の魔女様にまた身内贔屓だってからかわれますよ」
「それは困りますね」
セヴィルが小さく笑った。ニサは立ち上がり、壁際の棚から採集帳を取り出した。
「銀鈴草と、月白木の実を使おうと思っています」
「癖が強い素材ですよ」
「分かってます。味の調整は任せてください」
「護衛は?」
「いつもの道ですし、一人で行けますよ」
セヴィルは少しだけ眉を上げた。ニサはすぐに肩をすくめる。
「……はい。採集区画の内側から出ません。水路番にも声を掛けます。変なのがいても近寄りません」
「よろしい」
「セヴィル様、私のこと何歳だと思ってます?」
「心配に年齢は関係ありません」
まるで母親のような返事だった。ニサは少しむくれたが、口元は緩んでいた。
「では早速向かいます。早いに越したことはないので!」
採集籠を肩に掛け、手袋と小刀を確かめる。玄関へ向かう途中、セヴィルが背後から声を掛けた。
「ニサ」
振り返ると、セヴィルはいつの間にか窓辺に立っていた。朝の光を受けた姿は、やはり少し現実離れして見える。
「楽しみにしています」
その一言で、ニサの胸はもういっぱいになった。
「はい。任せてください」
笑みがこぼれるのを止められないまま、ニサは扉を開ける。屋敷の外、門の向こうでは、まだ薄い霧をまとった樹海への道が続いていた。ニサは籠の紐を握り直す。
「じゃあ、行ってきます」
# 樹海の贈り物
屋敷の門を抜けると、街はまだ薄い霧の中にあった。湖から流れてきた湿った風が水路の水面を撫で、橋の欄干に掛けられた鈴を小さく鳴らしている。
石畳の道を下り、水路沿いの市を抜ける。夜会の日だからか、朝から街は賑わっていた。硝子細工師が杯を磨き、荷車には食材や花々が積まれ、行き交う人々もどこか足早だ。すれ違う人々はニサを見ると、自然と道を空けた。
「エルデムのお嬢様、採集ですか」
「はい。夜会のお菓子に使う分だけ」
「それは楽しみだ。今年の果実は香りの良いものが多いそうですよ」
「そうだと嬉しいです。採れすぎたら少し分けますね」
笑顔で会釈を交わし、ニサはそのまま街の外れへ向かう。
街の外れに近づくにつれ、整えられた庭園の景色は少しずつ樹海の姿へ戻っていく。石畳の隙間から太い根が覗き、建物の壁を支えていた蔓はやがて枝となり、枝は見上げるほど巨大な幹へ繋がっていった。
人の手で整えられた美しさと、樹海が自然に伸びる美しさ。その境目を越える瞬間が、ニサは昔から好きだった。
採集区画の入口で、ニサは腰の鈴を一度鳴らした。澄んだ音が霧の中へ伸びていく。
「お邪魔します。月白木の実をいただきます」
採集の際は、こうして声を掛けるのが作法だ。樹海は黙って入って、黙って奪う場所ではない。必要なものを分けてもらい、必要以上には持ち帰らない。そう教わって育った。
月白木は採集区画の少し奥、古い水路跡に沿って生えている。白い幹は滑らかで、薄皮の下に淡い光が流れているように見える。枝に実る果実は丸く、外皮は硬いが、中身は柔らかく香りがいい。焼くと甘さより先に花のような匂いが立つので、菓子にはよく使われる。ただし、甘皮は渋みと苦味が強い。
「今日は……あった」
ニサは枝に実った淡黄色の実を見つけると、月白木へ登り、採取する実を見極める。熟した実だけを選び、茎を少し残して一つずつ丁寧に切り取っていく。
頂点魔女たちはお菓子を楽しみに来るわけではないが、沢山平らげる方もいる。ニサは実を鼻先へ近づけ、香りに満足して籠へ入れた。
「うん。これなら大丈夫」
その時、不意に影が落ちる。ニサは見上げると、巨大な魚のような生き物が泳いでいた。尾びれのような薄膜を揺らしながら、ゆっくりと空中を渡っている。腹には半透明の袋がいくつも垂れ、その中で青い光が脈打っていた。
旅灯鯨だ。群れからはぐれた若い個体だろうか。まだ若いとはいえ、小さな屋敷ほどの大きさはある。
ニサは枝に伏せた。旅灯鯨は音に敏感だ。無闇に刺激して、暴れられたらひとたまりもない。
その巨大な生き物は頭上を静かに通り過ぎていく。腹の光が葉裏を照らし、白い幹に水面のような揺らぎを映した。ニサは息を潜めながらも、その光景に目を奪われる。何度見ても綺麗だ。
月白木を下りたニサは、次に香草の生える湿地へ向かった。水路跡の先には黒い泥が広がる低地があり、そこには細い香草が群れている。
普通の靴では膝まで沈むため、泥に浮くよう幅広の木板を足へ括り付けて泥へと入る。
目的の銀鈴草の葉は銀色で、擦ると透き通るような匂いがする。爽やかな香りなので、お菓子に使うと、甘さの輪郭が澄む。
ニサは草木を掻き分け、目立つ銀鈴草の若い葉を数枚だけ摘む。強く香る草なので、使いすぎると全体が銀鈴草の味になってしまうので、摘むのはほんの少しでいい。
泥沼から出たニサは額の汗を拭い、涼むために少しだけ遠回りすることにした。
「涼しい……」
滝壺の畔に行くと、舞い上がる水飛沫が身体を冷やす。靴を脱ぎ、少しだけ水に入る。
ふと、水辺の岩肌に生える苔が目に入る。星脈苔だ。
その苔は、魔力を放出する稀少な苔で、採集できる場所はいくつかあるが、人が立ち入れる区画にあるのは珍しい。
「そうだ、あの苔を飾りに使おう!」
乾燥させると魔力を宿した虹色の粉になる。今日のお菓子に混ぜれば、夜会にはきっと似合う。
ニサはほんの一摘みだけ削って、持参した小瓶に詰めた。
「そろそろ戻ろうかな」
ニサは籠の中を確かめる。月白木の実は柔らかな香りを漂わせ、銀鈴草は葉先から涼しい匂いを放っている。星脈苔は小瓶の中で淡く瞬いている。
「さて」
ニサは籠を抱え直した。
「セヴィル様に、自慢してもらえるくらいにはしないとね」
橋を渡ると、樹海の影が少しずつ薄れ、アルモニアの水路と白い屋根が見えてきた。湖畔の庭園へ続く道では、すでに夜会の支度が始まっているのか、人通りが多い。
ニサは採集した材料を大事に抱え、足早に帰路を急いだ。
# 魔女へ捧ぐ一皿
厨房へ入ると、昨日使われた香草と焼き石の匂いがまだ室内に残っていた。
屋敷の奥では夜会用の衣装箱が運ばれ、セヴィルとニサの衣装の最終調整が行われている。窓の外では庭師が夜会に飾る花を剪定している。
どこも忙しない。それでも厨房だけは、まだ朝の静けさを残していた。ニサは籠を作業台へ置き、両手を水鉢に浸し、指先についた泥や汚れを落とす。
「さて」
ニサは袖をきっちり捲り、採集の成果物を台の上に広げる。
「早速取り掛かりますか」
月白木の実の硬い外皮に小刀を入れると、薄い甘皮に包まれた淡い黄色の果肉が現れる。甘皮は香りはあるが、苦味が強い。丁寧に取り除き、果肉と甘皮に分ける。
甘皮は薄い布で挟み、重しの石を置いて液を絞っておく。果肉の半分は粗く、半分は細かく刻む。粗く刻んだ果肉をひとつまみ食べると、しっかり熟れており、甘みが強い。
「蜜は少し控えめにしようかな」
夜会に出すなら、舌に残る味より、甘みがすっと消えるくらいがいい。
かまどに入った薪に、火魔法で火を付ける。鍋に入れたミルクをかまどの上で温め、その中に水で洗った銀鈴草をそのまま入れる。
ミルクが沸くと、火からおろし蓋をして時間を置く。
「そうだ、星脈苔を加えるんだった」
ニサは小瓶の中で輝く苔を取り出す。苔を木皿へ広げ、指先を軽くかざした。火魔法と風魔法を組み合わせた温風がゆっくりと苔を包み、水分だけを静かにさらっていく。焦がさないよう、ごく弱い熱を保ち続ける。しばらくすると苔はぱりりと乾き、ニサはそれを乳鉢へ移し、乳棒でゆっくりとすり潰し、ふるいへかける。何度か指先で粉を摘まみ、粒度を確かめる。
「これで下準備は完了かな」
生地には柔らかくしたミルクから分離した脂肪、卵、蜜、それと細かく刻んだ月白木の果肉を合わせる。そこへ、小麦粉と木の実粉を加えて優しく混ぜる。
それを型に入れていき、かまどで焼く。
「どうか綺麗に焼けますように」
次に、ニサはミルクの入った鍋から銀鈴草を取り除く。少し味見をすると、ミルクから銀鈴草の爽やかな香りがする。そこに卵と蜜を入れ、再び加熱してクリームにし、鍋から下ろして粗熱をとる。
かまどを覗き、生地が膨らんでいるのが見える。その時、廊下の方から静かな足音が聞こえた。振り返らなくても分かる。
「セヴィル様、厨房に入るなら髪をまとめてくださいね」
「まだ何も言っていません」
「言われる前に分かります。昨日、かまどを覗き込んで髪を焦がしかけたでしょう」
「あれは焦げていません。少し香りが移っただけです」
「それを焦げたって言うんです」
セヴィルは入口で立ち止まり、少し不満そうに髪先を指で払った。すでに夜会用の衣へ着替える前らしく、薄い白の上衣に銀の飾り紐だけを掛けている。
「進み具合は?」
「一緒に見ますか?」
ニサはそう言って、香ばしい香りが立ち始めたかまどから型を取り出す。型から生地を離すと、見事な香ばしい焼き色だった。
香りにつられるように、セヴィルが近付く。
「うん、良い感じ!」
焼き上がった生地を等間隔に並べ、まだ熱いうちに、月白木の甘皮から絞った汁と蜜を合わせたものを上から薄く塗り、冷めるまで置く。その横で、氷水で冷やしながら、クリームと粗く刻んだ月白木の果肉を混ぜる。
クリームと生地がしっかり冷えたことを確認し、生地の裏に穴を開ける。中を広げ、開けた穴にクリームを詰める。
「完成ですか?」
「いえ、仕上げに星脈苔を振ります」
そう言って、見せびらかすように、粉末にした星脈苔の小瓶を見せる。すると、それまでは何故かそわついていたセヴィルが、急に怪訝な表情に変わる。
「貴女、そんなもの何処で?」
「さ、採取区画内の沢で偶々見つけたんです!誓って樹海深くに踏み入ってはいません!」
セヴィルの怒気に気付き、慌てて釈明をするニサ。
「驚かせないで頂戴。また危険なことをしたのかと思ったわ」
セヴィルはため息を吐く。
「ごめんなさい」
「ほら、顔を上げて?仕上げにどうするの?」
セヴィルの優しい声に気を取り直し、小瓶から星脈苔の粉を手に乗せる。指でつまみ、一つ一つに粉末を散らしていく。
「これで完成です!」
「いえ、まだ完成とは言えません」
「何か足りませんでしたか?」
戸惑うニサに対し、セヴィルは涼しい顔で一つを指した。
「菓子は味を見るまで完成ではありませんよ」
「つまり、味見したいだけですよね」
「確認です」
「はいはい。確認ですね」
ニサは小皿に一つ乗せ、半分に割った。月白木の香りがふわりと香る。セヴィルはそれを受け取り、静かに口へ運んだ。セヴィルは目を閉じてゆっくり味わい、続け様に残りを口へ運ぶ。
「完成ですね」
「……美味しいですか?」
「ええ。とっても。後から香る銀鈴草の香りもとても良いです。それに、星脈苔によって輝く菓子も珍しくて良いですね」
「やった」
思わず声が弾んだ。それを見て、セヴィルも微笑む。
「ではセヴィル様、一仕事お願いできますか?」
「え?」
ニサはそう言い、夜会用の銀の大皿に山盛りにお菓子を載せていく。全て盛った上から、残りの星脈苔を振り掛け、蓋を被せる。
「お菓子を冷やしておきたいので、夜会まで冷やせる魔法をお願いします!」
「あぁ、そういうこと…私の専門ではないのですが。そもそもニサも使えるでしょう?」
「私では夜会まで保たせられないので。でもセヴィル様なら可能では?」
「なるほど、まあ良いでしょう」
セヴィルが軽く手を掲げると、一瞬で蓋が冷たく凍る。
「ありがとうございます!」
「では私達もそろそろ着替えましょうか」
「はい!」
二人は厨房を後にし、夜会へ向けた最後の支度へと向かった。
# 夜会の間
夜会の会場となる湖畔の庭園へ続く回廊へ入ると、昼の喧騒がゆっくりと遠ざかっていく。ニサは蓋付きの盛り皿を両手で抱え、静かに歩いた。回廊の壁には節ごとに光苔が根付き、足音に合わせて淡く灯る。奥へ進むほど空気は冷え、湿った湖風が花の香りを運んできた。
回廊の先で扉が開くと、ニサの前に私たち魔法国の民が『ユルディズ』と呼ぶ神秘の湖、星骸湖が広がった。
白い石で築かれ、湖畔へ張り出すように造られた円形の庭園。その中央には大きな円卓が据えられ、周囲を囲むように七つの席が整えられている。余計な装飾はない。ただ磨き上げられた白い石と、星骸湖を望む静かな景色だけが、この場所が特別な席であることを物語っていた。
「……うん」
ニサは小さく息を吐く。何度見ても、夜会の前の庭園は特別だった。祭典のような華やかさはない。それでも、この庭園へ足を踏み入れるだけで自然と背筋が伸びる。
まもなく、ここへ七人の頂点魔女が集う。そう思うだけで胸の奥が静かに熱くなる。
「ニサ様、こちらです」
庭園の花を整えていた女性が微笑みながら声を掛ける。
「お菓子は無事に仕上がりましたか」
「はい」
庭園では、アルモニアの民が最後の準備を進めていた。花を整える者。庭園の灯りを確かめる者。白い石床を磨き上げる者。庭園に結界を用意する者。誰も慌ただしく動かない。必要なことだけを短く交わし、それぞれの仕事を確実にこなしていく。
この庭園へ七人の頂点魔女を迎える。その誇りが、一人ひとりの丁寧な仕事ぶりから伝わってきた。
ニサは円卓の中央へ盛り皿を置く。冷たく維持された蓋から冷気を感じる。皿の向きを整え、取り分け用の小皿を静かに並べた。
国家最高峰の場であっても、迎える相手を思い、一つひとつ整えていくのは変わらない。それが皆の準備風景から伝わってくる。
純白の夜会衣装を纏ったセヴィルが、ゆっくりと庭園へ近づく。黒髪は美しく結い上げられ、首元と髪に添えられた銀細工の音符飾りが、歩みに合わせて小さく澄んだ音を響かせた。
庭園にいたアルモニアの民は一斉に手を止め、深く礼をする。セヴィルは穏やかに頷き、そのまま庭園をゆっくり見渡した。
「準備は順調ですか」
「はい」
各所から落ち着いた返事が返る。
「すべて問題ありません。会場の準備、完了しております」
「結界灯、すべて安定しました。湖側の風も問題ありません」
セヴィルは一つひとつの報告へ静かに頷いた。
湖畔の風が少しだけ冷たさを増し、庭園を吹き抜けた。空はゆっくりと夕暮れから夜へ移り変わり、星骸湖の水面が淡く光を返し始める。
作業を終えた人々は、それぞれ静かに庭園の外へ下がっていった。
残るのは頂点魔女であるセヴィルと、その従者のニサだけ。ニサはセヴィルの半歩後ろへ控える。
主の背中は凛としている。けれど近づけば、いつもの香草と紙の匂いがした。遠い存在であり、近しい人でもある。
こういう時、セヴィルは間違いなく頂点魔女だったが、それでもニサにとっては、毎朝一緒に朝食を囲み、本を読み、お菓子を楽しむ、いつものセヴィルでもある。そんな人とこのような場所に居られることを、ニサは誇らしく思っていた。
夜会の準備は全て終わり、あとは六人の頂点魔女の到着を待つのみだった。
# 七人の頂点魔女
静まり返った湖畔の庭園に、扉が開く音が響き、最初の魔女が姿を見せた。黒に近い深紫の衣をまとった女性。長い髪は銀糸で緩く束ねられ、片手には古びた革装の書物を抱えている。歩みは静かで、足音すら頁の擦れる音に似ていた。
後ろには彼女の側仕えが静かに追従する。だが、その従者は随分と荷物が多い。小さな本棚を背負い、複数の書物を持ち歩いている。
「レイラ様、お越しをお待ちしておりました」
ニサは左腕を腹部にあて、深く頭を下げる。
「…エルデムの子」
叡智の魔女、レイラ・デミルはニサの顔を見て、そう呟いた。
「はい。ニサ・エルデムです」
「今日は凛々しいね。もう転ばないように」
ニサは一瞬だけ目を泳がせた。
「覚えていらしたんですか」
「当然。君の生誕から、記録されている内容なら全て覚えているよ」
恐ろしいことをさらりと答えると、彼女は自分の席へ向かった。その背中が通り過ぎたあと、空気に古紙とインクの匂いが残った。
次に聞こえたのは、ゴツゴツという重厚かつ豪快な足音。回廊から現れた女性は、元々は着ていたであろう淡い緑の外套を片手に持ち肩に投げ掛けている。肩と腹部が露わになった出立ちで、その剥き出しの肌は、妖艶さではなく力強い筋肉美で整えられていた。燃え盛る炎のような、赤と橙色を混ぜたようなうねる髪と凛々しく立つその姿からは熱を感じる。
置いて行かれていたのか、離れた位置から従者が早足で追いかけている。恐らく従者も恵まれた身体をしているが、アスルの横に並び立つと小さく見えてしまう。両目の目隠しは、負傷か生まれつきのものだろうか。
「アスル様、お越しをお待ちしておりました」
生命の魔女、アスル・アクソイは頭を下げるニサに気付き、片手でニサの頭を掴む。
「アスル様、お止めください」
「相変わらずちんまいな!頭下げてたら何処にいるか分かんねぇよ、頭上げろ」
止める従者を無視し、ニサの頭を無理やり上げて姿勢を伸ばす。そして屈託なく微笑んだ。
「ニサ、背伸びた?」
「それ、前回も言われました」
「そうだったか?まぁまた伸びたんだろ」
ニサの頭から手を離し、ニサの背中を軽く叩く。ズンと響く掌からの重みに押され、一歩前へとよろける。それを見て従者が無言でニサに申し訳なさそうにお辞儀し、アスルの後を追う。普段から随分と苦労していそうな従者だ。
アスルは椅子に音を立てて座る。先に座っているレイラと比べ、椅子が小さく見える。
三人目は、いつ来たのかが分からなかった。突然ニサの頭に影が落ち、見上げると既に彼女の帽子のつばの下にいた。暗闇から現れた手がニサの頭を撫でる。
「…ヤズミン様!お待ちしておりました!」
驚きと共に声が上ずる。慌てて頭を下げると、頭上から声が聞こえた。
「頭を下げなくて良い。私の視界に入らなくなる」
顔全体が斜めに切り揃えられた前髪で隠れている彼女に、そもそも視界はあるのだろうか。ニサはそんなことを思いながら、真理の魔女、ヤズミン・カラヤルを見上げる。下から見上げている為か、僅かに口元が見える。赤に近い、濃い紫色の口紅をしていた。
アスルを超える長身に、黒ずくめの全身。しかし、アスルとは異なり、その腕は細い。肩に羽織る濃紺の衣と屋根のように広いツバの帽子の端に垂れ下がる、紫水晶が映える。
「辛気臭い登場しやがって。ニサが驚いているだろうが」
アスルが席に座ったまま、小言とは言えない声でヤジを飛ばす。
「やだね、五月蝿いのは。ちょっとしたサプライズさ。ねぇ?」
「あぁ?燃やすぞクソババア」
瞬間的に上がった熱で、アスルの髪が舞い踊る。
「…燃やせるなら、どうぞ?」
「ヤズミン!ニサを驚かさないで。あと、夜会では魔法は禁止よ」
セヴィルが声を張り上げる。
「ばーか」
「アスルも、すぐに挑発にのらない」
「うるせぇ」
庭園に一瞬沸いた熱は、すぐに湖からの風が攫っていった。
ヤズミンが歩いて自身の席へ向かう最中、パタパタと走る足音が聞こえてくる。置いて行かれたであろう従者が、庭園へと入る。
「すみません……!」
そう言って申し訳なさそうにヤズミンの席まで歩いていく。
先に座っているヤズミンを驚いた顔で見て耳打ちすると、パチンと指を鳴らすと共に、席の三人分は占めていた極大の帽子が霧散して消える。
それを見てセヴィルが睨み、アスルが舌打ちをする。どこ吹く風な本人の様子に反し、従者が何度もお辞儀をする。こちらの従者もかなりの苦労人であることは間違いない。
四人目に現れた女性は、夜会衣装に灰に金を散らしたような色の外套を重ね、淡い水色の髪は美しく靡く。美しいのに、足元は泥で汚れ、どこか旅の途中で迷い込んできたようだった。斜め後ろにいる男性の側仕えは大量の荷物を背中に担いでいる。彼だけ探検家のような装いと荷物で、明らかにその場で浮いていた。
「アイリン様。お待ちしておりました」
「あら、ニサちゃん。お久しぶり〜」
創造の魔女、アイリン・チェティンは陽気な声と共に両手を胸の前に出す。ニサがおずおずと手のひらを合わせると、指を絡ませて嬉しそうに笑う。
「これ、お土産よ」
アイリンはそう言って、星脈苔の粉末を閉じ込めた結晶のネックレスをニサの首に付ける。
「こ、こんなものを何処で」
不意にセヴィルに自身が言われたことを言ってしまい、ニサは恥ずかしくなり口を閉じた。
「千年霊亀の背中に生えていたのよ、綺麗でしょう?」
「えぇ?樹海の何処に行けばそんなことに」
「そりゃ、3ヶ月も樹海を歩いていたんですから、それなりに深い場所ですよ」
アイリンの従者はうんざりした様子で愚痴のように話す。しかし、入るだけで命を落とすと言われている樹海の深くとは、頂点魔女のアイリンと一緒とは言え、彼自身も特級の実力者であることは違いない。
五人目は、従者の足音しか聞こえなかった。それもその筈、回廊から現れた小柄な女性は、枕に乗って浮いている。その直ぐ隣で手提げ袋に沢山の荷物を詰めた長身の従者が歩いている。まるで買い物帰りの親子のようだ。
「エジェ様、お待ちしておりました。美味しいお菓子をご用意しています」
「あら、良くできた従者ね。うちの従者と同じだわ」
守護の魔女、エジェ・カヤは横になった体勢のため、月を模した紺色と鮮やかな黄色の夜会衣装が、まるで寝衣のように見える。ニサの頭をぽんぽんと叩くように撫で、横を通過していく。その際、従者は無言でずっとニサを見続けていた。
「エジェ、夜会では魔法は使用禁止よ」
「席に着くまでよ。それくらいいいじゃない」
セヴィルの指摘を無視してすぐに席まで飛んでいく。席にふわりと舞い降りるように座ると、隣がヤズミンのせいか子供にしか見えない。
「従者はよく出来ているのに、主人は口煩いとは残念ね」
エジェはそう言って、足をプラプラさせている。セヴィルは無視したままだった。
六人目は、土と果実の匂いを連れて現れた。ウェーブのかかった豊かな黄金色の髪の女性で、鮮やかな真紅のドレスは紛うことなき王の品格を携えていた。対して従者は夜会に合わせた、かつ目立ちにくい衣装を着ている。
「メリケ様、お待ちしておりました」
豊穣の魔女、メリケ・ベレケットはニサの前に立つ。
「あら、ニサでした?相変わらず地味ね」
「す、すみません」
「褒めているのよ」
「え?」
思わず顔を上げるニサに、メリケは優雅に微笑む。
「側仕えが主人より目立ってどうするの。控えめな装いに、丁寧な所作。見ていて安心するわ」
「ありがとうございます」
「それに、あなたはよく働くのでしょう?毎年見ていれば分かるもの」
メリケはニサを上から下まで眺め、満足そうに頷く。
「どう?私の都市へ来ない?」
メリケはニサの顎に手を当てる。
「農業都市はいつだって人手不足なの。畑も果樹園も温室もいくらあっても足りないわ。あなたみたいによく働いて、気も利く子なら大歓迎。給金も待遇も、きっと今より良くしてあげられる」
「め、メリケ様?」
「本気よ。あなた、セヴィルの側仕えをしているには勿体ないもの」
「メリケ」
静かな声が庭園に響く。
「人の側仕えを勝手に引き抜かないでください」
「勧誘くらい構わないでしょう?」
「駄目です。ニサは私の大切な側仕えです」
即答するセヴィルにニサは視線を寄せ、二人の視線が交わる。メリケは小さく肩をすくめた。
「残念ですわ。また来年、声を掛けます」
「結構です」
戸惑っているニサを一瞥し、メリケは優雅な足取りで席へ向かった。
全員が揃うと、調和の魔女であるセヴィルが動く。彼女はずっと庭園にいたが、七つの席が満ちる前までは、都市の主として立っていた。だが六人が揃った今、セヴィルは静かに自身の席へ歩む。白い衣の裾が湖光を受け、銀の音符飾りが淡く輝く。
「皆様、お揃いですね」
セヴィルが言った。
「では、今年の夜会を始めましょう」
ニサはその光景を見ていた。一般の者が見れば、息をすることすら忘れるかもしれない。七人がそこにいるだけで、見知った庭園が別の場所のようだ。
「夜会の前に、今年は私の従者であるニサにお菓子を依頼しました。先ずはそれのお披露目といきましょう。ニサ」
セヴィルの声で、ニサは背筋を伸ばした。
「はい」
「貴女のお菓子を」
いよいよだ。心臓が煩く音を立てている。セヴィルの氷魔法で冷え切った蓋の取っ手を、布を挟んでしっかり持つ。ゆっくりと蓋を持ち上げると、星骸湖の光を受けて、星脈苔の粉末が優しく輝く。
アスルが「まあ」と柔らかく息を漏らし、アイリンは不思議そうに首を傾げている。エジェは目を輝かせて少しだけ身を乗り出した。
ニサは一皿ずつ、銀の菓子挟みで順に菓子を配っていく。それに合わせて、それぞれの側仕えが主人への飲み物の用意を始める。
目の前に出されたお菓子を、アスルは香りを確かめ、エジェは食べ始めるのを待たされて少し眠そうになり、最後にセヴィルの前へ皿を置くと、彼女はニサを見上げた。
「ありがとうございます」
ニサが一歩下がると、セヴィルは七人を見渡した。皆の視線がお菓子に集まっている。その光景だけで喉が乾いてくる。
セヴィルが、穏やかに口を開いた。
「では、改めて始めましょうか」
ニサは側仕えの位置で静かに息を吐く。恐ろしくも美しい夜が、いつものように始まった。
# 夜会
最初に菓子へ手を伸ばしたのは、やはりエジェだった。
小さな手で皿に配られたお菓子を手掴みにし、ためらいなく口へ運ぶ。周囲の視線が自然と集まったが、本人は気にした様子もなく、もぐもぐと頬を動かしている。
「……持って帰るわ」
「まだ感想を言っていませんよ」
セヴィルが静かに言うと、エジェはとびきり元気な様子で、皿の上の残りを守るように手を添えた。
「美味しいから持って帰るの」
「分かりやすい感想で助かります」
ニサは胸の奥で詰めていた息を、そっと吐いた。膝の力が少しだけ抜ける。
次にアスルが一口で半分ほど食べ、目を丸くした。
「うまいな。見た目が綺麗なだけかと思ったら、ちゃんとうまいぞ」
「アスル。もう少し言い方を選んでください」
レイラが菓子を小さく割りながら言う。
「褒めてるだろ」
「褒めていますね。とてもアスルらしく」
レイラはそう返し、断面をじっと観察したあと、静かに口へ運んだ。
「月白木の果肉。銀鈴草を移した乳の香り。表面は甘皮の渋みを薄く使って、後味を締めている。星脈苔を飾りに使用しているのは珍しいですね」
「食べただけでそこまで分かるのですか」
ニサが思わず声を漏らすと、レイラは涼しい顔で頷いた。
「材料を知っていれば、構造は読める。よく考えられています。甘さに頼っていないのが良い」
「ありがとうございます」
ニサは深く頭を下げた。褒められているのに、試験を受けているような緊張が残る。
アイリンは菓子を光へかざして眺めていた。
「星脈苔をこう使うの、可愛いわねえ。食べる星屑みたい」
「食べられる量だけにしてくださいね」
メリケが優雅に菓子を割る。
「確かに、甘さが上品ですわ。特に後から抜けるすっきりとした香りがあって、甘過ぎないのが好ましいですわね」
メリケはそう言って、もう一口食べた。
「それに、この軽さなら夜会の席にちょうどいい。重い話の前に出すには、悪くありませんわ」
その言葉に、庭園の空気がほんの少しだけ変わった。
「いや見事だね、組み合わせが絶妙だ。薬学の方にも活かせるんじゃないかい?」
ヤズミンは前髪で顔が覆われたまま、皿を持ち上げてお菓子を観察しているように見える。
「それは褒めているの?」
セヴィルが呆れたように尋ねる。
「かなりね」
ヤズミンは口元だけで笑った。
全員が口にしたのを確認した後、セヴィルがお菓子を口へ運ぶ。朝に味見したはずなのに、彼女は初めて食べる時のように丁寧に味わった。
「皆様、どうやら問題はなさそうですね」
「これ持って帰りたい。包む分を用意してちょうだい」
エジェが即座に言う。
「夜会が終わってからです」
「今では駄目なの?」
「夜会中です。まさか今帰るつまりなのですか?」
エジェは少し不満そうに頬を膨らませた。
ニサは控えの位置へ下がりながら、静かに胸を撫で下ろした。怖かった。手が震えないようにするだけで精一杯だった。けれど、皿の上のお菓子は確かに減っている。
セヴィルが軽く手を上げる。側仕えたちがそれぞれの主人の脇へ寄り、飲み物と薄い資料を整えた。
「では、そろそろ議題に入りましょう」
セヴィルの声は透き通るように響く。
「今回の議題は一つですね。樹海の生物の動向についてです」
「東の樹海外縁浅瀬の村で、いる筈のない樹海内部の化け物が出ているみたいね。私の弟子がその辺の出身だったので、討伐に向かわせているわ」
ヤズミンが軽く手を挙げて言う。
「弟子?誰だ、そんな酔狂なやつ」
アスルが怪訝な顔で聞く。
「植物を操る子よ」
「あー、あの狂犬みたいなやつか。問題無いのか?」
「さぁ……?」
「おい」
「単純な戦闘力だけなら強い子なのだけれど、下手に強いせいで応用力が弱いのよね。その辺りの成長も期待しているのよ」
「既に村が一つ潰されているみたいよ。他にも魔女の派遣は必要かしら?」
セヴィルがヤズミンに問い掛ける。
「樹海内部は狡猾な生き物も多いからね。まぁ、私も見ているから、何か問題があれば私が対処するわ」
「ではこの件はヤズミンに任せましょうか。あと、外縁ではなくこの魔法国側への怪物の侵攻が、エジェの都市の方であったと聞きましたが」
「特段特筆するものでもないわ。来年通り、二、三体来た程度だし、迎撃訓練になったくらいよ」
「なるほど、ありがとうございます」
「むしろ反射的に私の重力魔法で押し潰しちゃうから、兵士の訓練用に残すのに気を使う方が手間だわ」
エジェはわざとらしく困ったような身振りをする。
「アイリン、貴女の見解は?樹海内部で何か異変はありますか?」
「気になる異変は無さそうですねー」
「なるほど」
重い議題はそれで終わった。
ニサは茶を注ぎ足しながら、窓のない庭園の向こうに広がる樹海を思った。
今朝、自分は一人で採集へ行った。月白木へ登り、銀鈴草を摘み、星脈苔を見つけた。旅灯鯨が頭上を泳ぐのを見て、綺麗だと思った。
あれもまた、こうした話の上に守られた日常なのだ。
「では、各都市からの報告は何かあるかしら」
セヴィルが資料を閉じると、空気が少し柔らかくなった。
「典都から。文献の湿気対策が追いついていません」
レイラが淡々と言った。
「今年は湖風が多く、古い紙が水を吸いやすい。アイリンの都市の乾燥箱の技術を借りたい」
「手配します」
アイリンの従者が記録する。
豊穣都市からは、今年の実りと備蓄の話が出た。
「収穫は悪くありません。ただ、湖畔側の一部で育ちが早すぎます。食べられるものは増えるけれど、保存の手間も増えますわ」
「人手が足りないのですね」
セヴィルが言う。
「ええ。だからニサを」
「駄目です」
今度も即答だった。
メリケは楽しそうに笑う。
「冗談ですわ。半分くらいは」
周囲の視線が少しだけニサへ向く。アスルは面白そうに笑い、エジェは眠たそうな顔で「働き者はどこでも狙われるのね」と呟いた。
職人の話、結界の話、畑の話。どれも都市の中心にある大事な話なのに、卓の上では不思議と穏やかに流れていく。
ニサは茶を淹れ、空いた皿を下げ、必要な時だけ新しい菓子を足した。誰かが話している時、別の魔女の側仕えが資料を差し出す。飲み物が減れば、声をかける前に満たされる。
話が一巡する頃には、庭園の灯りも少し落ち着いた色になっていた。
「ところで、このお菓子、持ち帰りたいのだけれど、余りはある?」
エジェはもう何個目なのか、ずっと口にお菓子を含んでいる。
「あります」
ニサがすぐに答えると、エジェの表情が明らかに明るくなった。
「良い子ね」
「ニサを菓子係として連れて帰る気ではないでしょうね」
セヴィルが言う。
「少し考えたわ」
「考えないでください」
「大丈夫よ。私のところにはうちの子がいるもの」
エジェの隣に立つ従者が、無表情のままわずかに胸を張った。
アスルが残っていた菓子を豪快に食べる。
「しかし、セヴィルのところは毎年まともに準備するな」
「まともに、とは」
「うちでやった時は、途中で患者が運ばれてきて夜会が半分治療所になった」
「あれはあれで有意義でした」
レイラが言う。
「記録上、頂点魔女六名が同時に軽傷者の手当てをした貴重な例です」
「私は寝ていたわ」
エジェが言う。
「結界で寝床を作っていましたね」
「休む場所は大事よ」
メリケが懐かしそうに笑う。
ニサはその輪の外側で、そっと空の皿を重ねた。七人の頂点魔女。都市を支え、湖と樹海の変化を見つめ、普通の人間では扱えない問題を静かに決める人たち。けれど今は、菓子を食べ、昔の夜会の失敗を笑い合っている。
恐ろしくて、美しくて、少しだけ可笑しい。
それが、この国の頂点なのだと思うと、ニサは胸の奥が温かくなった。
やがて、セヴィルが言う。
「今年の確認は以上です。各都市への伝達は、明朝以降にそれぞれの評議会へ」
「明朝以降?」
アスルが片眉を上げる。
「今夜はもう働かせません」
セヴィルはきっぱりと言った。
「側仕えも、記録官も、皆朝から動いています。夜会は終わりです」
「議長らしいことを言うわね」
ヤズミンが笑う。
「議長ですので」
ニサは思わず肩を揺らした。セヴィルがほんの少しだけこちらを見る。怒ってはいない。たぶん。
エジェは満足そうに小さな包みを見つめた。
「では、帰るわ。これ、持って帰っていいのよね」
「約束しましたから」
ニサが包みを差し出すと、エジェは大事そうに受け取った。
「よくできました」
「ありがとうございます」
「うちに来てもいいわよ」
「エジェ」
「言ってみただけ」
メリケも立ち上がり、ニサの前で足を止めた。
「次に作る時は、月白木の実を一日だけ寝かせてみなさい。香りが丸くなりますわ」
「はい。試してみます」
「よろしい」
アスルはニサの肩を軽く叩いた。軽くのはずなのに、身体の芯に響く。
「美味かった。飯は人を元気にする。菓子でも同じだ」
「はい」
一人、また一人と、頂点魔女たちは席を離れていく。側仕えたちが荷物を持ち、資料を抱え、主人の後を追う。扉の向こうへ姿が消えるたび、庭園に満ちていた圧が少しずつ薄れていった。
最後に残ったのは、セヴィルとニサだけだった。
円卓の上には、空になった皿と、わずかに残った星脈苔の光。湖から吹く風が、冷めた茶の香りを静かに運んでいく。
「終わりましたね」
ニサが小さく言う。
「ええ。無事に」
セヴィルは席を立ち、誰もいなくなった七つの椅子を見渡した。
「片付けましょうか」
「はい」
ニサは皿を重ね、布を手に取る。恐ろしく美しい夜会は幕を閉じ、庭園には、いつもの仕事の時間が戻ってきていた。
# いつもの明日
庭園には、湖の光と片付けの小さな音だけが残っていた。
ニサは空になった皿を重ね、円卓の上に残った星脈苔の粉を柔らかな布でそっと拭き取った。さっきまで七人の頂点魔女が座っていた席は、もう静かに夜露を受けている。あれほど濃く満ちていた気配も、今は湖風にほどけ、白い石床の上へ薄く残るだけだった。
「エジェ様、包みを大事そうに持って帰られましたね」
「歩きながら食べていなければいいのですが」
セヴィルが言った。
「食べていると思います」
「でしょうね」
二人は小さく笑った。
片付けは、大きな混乱もなく進んだ。冷えていた蓋は少しずつ常の温度へ戻り、取り分け皿は側仕えたちの手で洗い場へ運ばれていく。
ニサは皿の数を確かめながら、さっきまでの会話を思い返していた。星骸湖の魔力の流れ。樹海の外縁で増えた群れ。薬草や果樹の育ち方。結界の調整。記録、観測、食料、素材、芸術。どれも大きな話だった。けれど七人は、それを声高に語るのではなく、まるで食卓の献立を決めるように一つずつ確かめ、必要な場所へ渡していった。
ニサにできることは、茶を注ぎ、皿を下げ、菓子を足し、邪魔にならないよう立つことだけだった。それでも、その場を支える手の一つではあった。
「疲れましたか」
セヴィルが尋ねる。
「少し。でも、嫌な疲れじゃないです」
「よく働きました」
「それ、褒め言葉ですか」
「ええ。かなり」
ニサは皿を持ったまま、思わず笑った。
「では、しっかり受け取っておきます」
すべての皿を下げ終える頃、星骸湖の光は少し弱まっていた。水面にはまだ星のような輝きが残っているが、夜会の始まりに感じた張り詰めた気配はもうない。
「すごい夜でしたね」
「すごい夜、ですか」
「はい。いつもの通り、すごい夜会でした」
ニサがそう言うと、セヴィルは少しだけ考えるように湖を見た。
「その感覚を持てることは、大切です。特別なものを特別なまま、けれど遠ざけすぎない。あなたは、それが上手ですね」
「私、そんな立派なことは考えていませんよ」
「考えずにできるなら、なおさらです」
ニサは返事に困った。褒められているのは分かる。分かるのに、どう受け取ればいいのか分からない。結局、いつものように少し砕けた言葉が出た。
「今日はいっぱい褒めてくれますね」
「今日くらいはいいでしょう」
「明日もお願いします」
「あまり調子に乗らないように」
「はい。調子に乗るのは少しだけにします」
セヴィルはどこか楽しそうだった。
庭園を出る頃には、回廊の光苔だけが足元を照らしていた。夜会のために働いていた職人たちは、花器を運び、布を畳み、灯りの具合を確かめている。壮大な夜の終わりも、街にとっては次の朝へ向かう準備の一つだった。
「メリケ様、また私を誘っていましたね」
「聞こえていました」
「本気でしょうか」
「半分は」
「半分もですか」
「あなたはよく働きますから」
「でも、私はセヴィル様の側仕えです」
「ええ。知っています」
すぐに返ってきた声があまりに穏やかで、ニサは少し照れくさくなった。
「それに、私がいないと朝食を忘れますし」
「そこですか」
「大事です」
「否定はしません」
回廊の先で屋敷の扉が見えてくる。朝、この扉を出た時には、籠を抱えて樹海へ向かった。月白木の実を選び、銀鈴草を摘み、星脈苔を見つけ、旅灯鯨の影に息を潜めた。それが今では、七人の皿を満たした記憶になっている。
屋敷へ戻ると、中は朝とは違う静けさに満ちていた。廊下を掃除していた銀胞子の掃除茸は、もう壁際で丸くなっている。ニサはそっと歩幅を狭めた。
「お疲れさま。明日またお願いね」
小さく声を掛けると、掃除茸の傘がわずかに揺れた。返事なのか寝返りなのかは分からない。
厨房へ寄り、残った道具を確認する。明日の作業を書いた札を棚へ掛けた。材料の覚え書きを清書すること。月白木の実は一日寝かせたものも試すこと。星脈苔は採集場所を記録しておくこと。銀鈴草は少量で十分。
今日は朝からずっと動いていた。材料を採り、菓子を作り、七人を迎え、夜会を支え、片付けまで終えた。思い返せば大仕事だったはずなのに、胸に残っているのは不思議と穏やかな感覚だった。特別な一日だった。けれど、まるで長い日常の一部のようでもあった。
「ニサ」
厨房の入口で、セヴィルが立ち止まった。
「今日は本当に助かりました」
「はい」
「あなたに任せてよかった」
ニサは布巾を握ったまま、少しだけ黙った。嬉しい言葉をもらった時、すぐに返せる日と、返せない日がある。今日は後者だった。胸の奥がいっぱいで、言葉にするとこぼれそうだった。
「……明日も、ちゃんと来ます」
「ええ。待っています」
「朝食、忘れないでくださいね」
「努力します」
「努力じゃなくて、食べてください」
「善処します」
「それ、忘れる人の返事です」
セヴィルは微笑み、何も言い返さなかった。ニサはそれで十分だった。
自室へ戻ると、夜会用の髪飾りを外し、外套を椅子に掛けた。袖口には、星脈苔の粉がほんの少し残っている。払おうとして、やめた。今日の名残を、もう少しだけ残しておきたかった。
寝台に腰を下ろすと、ようやく大きく息が漏れた。疲れている。足も重い。指先も少し痛い。けれど心は不思議と軽かった。
世界の頂点にいる人たちも、明日になればそれぞれの都市で仕事に戻る。セヴィルもまた、楽譜か書類か、何かに夢中になって朝食を忘れるだろう。
そしてニサは、いつものように屋敷の門をくぐり、光苔の光に迎えられ、掃除茸を踏まないように歩き、セヴィルに食事を促すのだ。
それが、ニサの日常だった。
特別な夜会も、恐ろしく美しい樹海も、七人の頂点魔女も、その日常の中にある。ニサは灯りを落とし、薄い掛け布を引き上げた。窓辺の光苔が、眠りに合わせるように光を弱めていく。
「明日も、頑張ろう」
小さく呟くと、胸の奥に今日の余韻が静かに灯った。
星骸湖の光が遠くで瞬き、屋敷はゆっくり眠りへ沈んでいく。
明日もまた、いつもと変わらない一日が始まる。




