麗華の宮の奥底に
「……やってみるわ。ナツメグの香りが強い今なら、中和剤を混ぜても気づかれないはず」
セラフィマは決然とした表情で、薬箱から無臭の微粉末を取り出した。
これは特定のアルカリ成分を含み、あの海藻と反応して毒性を完全に分解し、ただの「少し香ばしいだけの海藻」に変えてしまう特製の中和剤だ。
私たちは物陰に潜み、商人と女官が次の荷を確認するために背を向けた一瞬の隙を突いた。
「今よ!」
私が小石を投げ、反対側の茂みで音を立てる。男たちが「何だ?」と視線を逸らしたわずか数秒。セラフィマは影のように荷解きされた麻袋へ歩み寄り、鮮やかな手つきで粉末を振りかけ、中身を攪拌した。
「……完了よ。これで、あの猛毒はただの『西部の珍しいスパイス』に換わったわ」
元の場所に戻ったセラフィマの額には、冷や汗が浮かんでいる。
現場では、何も知らない女官が、すり替えられたばかりのものを一つまみ手に取り、満足げに頷いていた。
「これよ、この香り。麗華様も喜ばれますわ。……さあ、受け取りなさい。これが今回の報酬よ」
女官が差し出した金貨の袋に、商人が卑しい笑みを浮かべて手を伸ばす。
しかし、その取引が成立しようとした瞬間。
「――おやおや。ずいぶんと景気の良い『裏取引』ですこと」
マリアが合図灯を点灯させ、闇の中から堂々と姿を現した。
「な、何者だ! 官女ごときが何の真似だ!」
「私はただの官女じゃないわ。後宮の管理』代行よ。……麗華様への納品物、念のために検分させてもらうわね。もしそれが『伝統の香辛料』ではなく、命を脅かす禁忌の毒物だった場合、あなたたちの首は飛ぶことになるけれど?」
私の不敵な挑発に、側近の女官の顔が引きつる。
商人は激昂し、「馬鹿を言うな! これは最高級の品だ。毒など入っているものか!」と、自らの潔白を証明するために、あろうことか中和されたばかりの粉末を指で掬い、自ら口に含んで見せた。
「見ていろ! ほら、何ともない! 毒など……ん? ……え? 全く、何の刺激も……ない?」
商人の顔が困惑に染まる。
本来なら、口に含んだ瞬間に舌が痺れ、意識が遠のくはずの劇薬。
それが、今はただの「香りの良い海藻」でしかない。
「……商人のララヴァースさん? 麗華様を騙して、ただの雑草を高値で売りつけようとしたのかしら?」
私の冷ややかな声が、静まり返った通用門に響き渡った。
* * *
「……これが『猛毒』? ただの湿った海藻の味がするだけじゃない」
商人が自らの潔白を証明しようと口にした「毒」は、セラフィマの中和剤によって完全に無力化されていた。毒特有の痺れも、意識を混濁させる麻痺も一切ない。ただの、香りの良い乾物だ。
その瞬間、麗華妃の側近である女官の顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「貴様……! 麗華様からあほどの大金をせしめておきながら、このような『雑草』を売りつけようとしていたのか!」
「ち、違う! これは間違いなく西部の……! なぜだ、なぜ何の効き目もない!?」
裏切りと困惑が交錯し、密会の場が修羅場と化したその時――。
「――そこまでだ」
低く、地を這うような声が響き渡った。
通用門の影から、松明の明かりと共に漆黒の鎧を纏った皇帝の親衛隊が、音もなく溢れ出してきた。その中心には、冷徹な瞳をさらに険しく光らせた皇帝本人が立っている。
「ひっ、陛下……!?」
女官と商人がその場に崩れ落ちる。
私が事前に裏取引の証拠を皇帝の側近へリークしておいたのだ。
「後宮の規律を乱し、外部の商人と結託して不当な財を動かした罪。さらには、効能の不明な異国の物品を妃たちに流布した疑い……。言い逃れはできまい」
皇帝の冷ややかな宣告と共に、衛兵たちが一斉に二人を組み伏せた。商人が持っていたララヴァースの紋様入りの荷物も、裏金の入った袋も、すべてが「動かぬ証拠」として押収される。
「マリア、セラフィマ。……貴殿らの言う通り、この門の先には腐敗が満ちていたようだな」
皇帝が私たちに視線を向ける。私は不敵に微笑み、セラフィマは固く拳を握りしめた。
「陛下、これは氷山の一角に過ぎません。この偽の香辛料がどこへ運ばれ、誰がそれを使って『誰』を苦しめているのか……その全記録は、麗華妃の宮の奥に眠っています」
マリアの言葉に、皇帝は短く「行け」と命じた。
「これより麗華の宮を封鎖し、全室を検分する。……もしそこに、貴殿らの言う『消されたはずの存在』がいなかったならば、その時は覚悟しておけ」
「ええ、望むところよ。……行きましょう、セラフィマ。今度こそ、お姉様をこのバグだらけの箱から連れ出すわよ!」
私たちは衛兵を従え、夜の後宮を駆け抜けた。
目指すは麗華の宮、その北側に隠された「地図にない部屋」だ。




