命の危機
(ついに、この日が来たのね)
馬車の窓から差し込む光が、彼女の肌で乱反射している。
一週間かけて調整した磁器のような肌、意志を宿した眉、そして深紅の唇。
リリアは膝の上で拳を握りしめ、静かに呼吸を整えていた。
「……セラフィマ。私、怖くはありません。姉を取り戻すためには、どんな試練も乗り越えます」
「いい覚悟ね。でも忘れないで、ここは生半端な覚悟じゃ立ち入れない場所だから」
やがて馬車が止まり、外からは儀礼兵たちの重々しい足音が聞こえてくる。
アルベールが真っ青な顔で馬車の扉を開けると、そこには帝都の最高中枢「謁見の間」へと続く、果てしないレッドカーペットが敷かれていた。
そこは帝国の中枢とも言える場所。
一週間かけて磨き上げた、最高解像度のセラフィマ。
彼女が光を背負って一歩踏み出した瞬間、その場にいた儀式の官吏たちが、まるで物理的な衝撃を受けたように後ずさる。そして、こそこそと呟き合った。
「……っ、あれは……どこの家の……」
静寂。
飾られた調度品、ヒールの音、揺れる頭飾り。
彼女は、私が教えた通りの完璧な歩法で、皇帝の御前へと進んでいく。
「…………」
皇帝の座す、一段高い玉座。
そこには、冷酷非道と噂され、数々の女たちを弄んできたとされる「帝国の最高権限者」が座っているはずだった。
けれど、セラフィマが顔を上げ、その瞳で「ターゲット」を捉えたその時。
――?
「……え?」
セラフィマが冷や汗をかき始める。
玉座の横、そこには冷酷なハーレムなど存在しなかった。
豪華なテーブルを前に、皇后が極めて日常的な仕草で赤子に粥を食ませている。
殺伐とした空気どころか、会場を満たしているのは午後の陽だまりのような穏やかさ。
私は壁際で、眉間にシワを寄せた。
これまでの情報は、ある「上級妃」が仕掛けた罠だったらしい。
自分の容姿に絶対の自信がある彼女が、自分と同等、あるいはそれ以上の「素材」を釣り上げて後宮に引きずり込み、いたぶるために庶民に流した噂。
「皇后はいない」と思い込ませ、美貌と野心、そして地位を兼ね備えた娘を選別して呼び寄せる――一種のいたずらだった。
それほど、出過ぎた噂を流していれば、罰くらいは受けているはずだ。
上級妃が皇后の名誉を傷つけるようなことを言うならば、恨みがあるのか……。
「あら、今日は御目通りがあると聞いていたけれど。……どなたかしら?」
赤子の口元を拭いながら、皇后が不思議そうにこちらを見た。
セラフィマの顔から血の気が引いていく。
お姉さんを救うために必死で磨き上げたその美貌が、今はただ、汗に流されていった。
「……計算が、合わない」
背筋に氷を押し当てられたような衝撃が走る。
赤子に粥を食ませていた皇后の背後から、影のように現れた男――皇帝。
彼が低く短い合図を送った瞬間、二人の宮廷衛士が風を切って踏み込んできた。
――その瞬間、私たちの首元に冷たい銀の刃を突きつける。
(…………ぁ……)
首筋に触れる鋼の感触。
少しでも動けば、私の首が飛ぶ。
「下賤の者が、よくもここまで入り込んだものだ。……答えろ。どうやってここまで来た」
皇帝の瞳は、噂通りの冷酷な深淵だった。
皇后の微笑みも、赤子の存在すらも、今は弱者を狩る者にしか見えない。
「……っ」
セラフィマが、恐怖で呼吸を止めているのが分かる。
私すらも、生まれて初めて、死という名の圧倒的な物理的暴力を前にして震えていた。
指先が動かない。
(死ぬ? 私が? こんな、バカげた悪戯の果てに?)
私の構築した最高級の化粧も、アルベールのコネも、この冷たい刃の前では何の防壁にもならない。
私たちは、ただの無力な「異物」として、処刑を待つだけの状態に追い込まれた。
「答えられないか。ならば、その綺麗な首を落としてから、ゆっくりと出所を洗うとしよう」
皇帝が、無情に右手を上げた。
(死ぬの……私……)
視界が歪み、計算式がバラバラに崩れていく。
――あ。
「待ちなさい……! その刃を動かせば、貴方が追っているものは永遠に修復不能になるわよ!」
震える声を、無理やり絞り出した。
衛兵の刃が、わずかに皮膚をかすめて血が滲む。
皇帝の眉が、ピクリと動いた。
「……何だと?」
「莉杏よ! 一ヶ月前、この後宮から姿を消した、あの娘の行方について話しているのよ!」
その名前を出した瞬間、会場の空気が一変した。
皇后が粥を持った手を止め、周囲の女官たちの顔から余裕が消え失せる。
「彼女を連れ去ったのは、ただの商家じゃない。後宮の内部から、特定の規則を書き換えて、彼女を別の場所に転送した者がいる……。」
「……え。お姉ちゃんが……」
私は必死で、脳内に残っている姉に関する情報を繋ぎ合わせた。
商家の長男の裏切り、上級妃の情報操作、そしてこの静かすぎる後宮。
事件には必ず、裏がある。
「たかが下級妃、だが。ひときわ目立つ容姿、すでにお手付きになってるでしょう」
皇帝の右手が、空中で止まった。
冷たい刃はまだ私の首にあるけれど、処刑のカウントダウンは一時中断された。
白い結婚は、離婚届までがセットです
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