由緒正しき温泉郷
「……極楽だわ」
私は露天風呂の縁に頭を預け、ぷかぷかと体を浮かべた。
見上げれば、帝都の結界の光に邪魔されない、ありのままの満天の星空。
周囲を囲む山々は、夜の静寂の中で深い群青色に沈み、時折、夜鳥の羽ばたきが聞こえる。
「空から見る世界もいいけれど、こうして自然の中に溶け込むのも悪くないわね……」
おじいさんの工房の裏山を思い出す。あの場所も、こんな風に土と草木の匂いがしていた。
温泉から立ち上る湯けむりが、月明かりに照らされて白く揺らめいている。
「傷口を縫い合わせるんじゃなくて、最初からなかったことにする魔法か……。確かに効率はいいけれど、この自然の景色だけは、私の魔法でも絶対に作り出せないわ」
私はお湯を手ですくい、指の間からこぼれ落ちる波紋を眺めた。
人工的な数式の世界とは対極にある、無秩序で、けれど完璧な美しさ。
この自然を守るためなら、多少の書類仕事や監視役も、引き受けてあげてもいいかもしれない。
* * *
「ぷはぁーっ!!」
湯上がりの体に、冷えた牛乳が染み渡る。
私は腰に手を当てて、瓶に残った最後の一滴までを一気に飲み干した。
ここは帝都から少し離れた場所にある、由緒正しき温泉郷。
ふかふかのお布団の前に、まずはこの旅の疲れを洗い流したかったのだ。
けれど、湯船に浸かりながら私の脳裏をよぎるのは、さっき執務室で聞いた王子の妙な依頼だ。
【「……マリア、君に頼みたいのは書類仕事だけじゃない。ある人物の監視だ」 「監視?」 「ああ。帝国でも名の知れた公爵令嬢がいる。彼女はいわゆる……そう、世間で言うところの『悪役令嬢』なんだ。不穏な動きがないか、君には彼女の『取り巻き』の一人として潜入してほしい」】
「監視、ねぇ……。取り巻き役なんて、一番私に似合わない仕事だわ」
私は空になった牛乳瓶を見つめながら、小さく独りごちた。
王国にいた頃の私なら、そんな面倒な役回りは真っ平ご免だった。
けれど、今は不思議と嫌な気分じゃない。なぜなら、王子はこうも言っていたからだ。
「彼女の周囲では、原因不明の『魔導具の暴走』が頻発している。その因果関係を、君のその確かな目で解き明かしてほしいんだ」
魔導具の暴走。
その言葉を聞いた瞬間、私の魔導師としての血が騒いだ。
「取り巻きのフリをしながら、帝国の最先端魔導具を間近で弄り回せる……。ふふっ、悪くないわね。どんな非効率な術式が組まれているのか、今から楽しみだわ」
もしその「悪役令嬢」が、私の魔法に余計な口出しをしようものなら、その時はその時。
「まずは魔法に関わる仕事から片付けさせてもらうわよ。書類仕事はそのついで、ね」
私はワクワクを抑えきれないまま、ふかふかの特等ベッドが待つ城へと戻るべく、夜風に吹かれながら「エクス号」に飛び乗った。




