第55話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
夜のマンション。
ソファに並んで座る二人。手元にはいつものサバ缶。
肩を寄せ、手をつなぐ。息がわずかに触れる距離。
和音の胸の奥で、先ほど芽生えた小さな勇気が静かに膨らんでいる。
もう、少しも我慢する必要はない。
(……もう、ほんの少し……顔を近づけるだけ……)
和音は心の中で小さく呟く。
智春の無邪気な表情が、逆に背中を押す。
◆ キスへの一歩
手を握り直し、肩をさらに寄せる。
智春は相変わらずサバ缶を開けることに夢中で、和音の視線には気づかない。
その無防備さに、和音は思わず笑みを浮かべる。
ついに和音は、唇を智春の頬にゆっくり近づける。
しかし寸前で、智春が手元の缶を落としかけ、二人は思わず手を合わせてバランスを取る。
そのドタバタが、ぎこちなくも二人の距離をさらに縮めた。
和音の胸の奥で、勇気はもう後戻りできないところまで来ていた。
智春が慌てて缶を抑える。
和音も思わず咄嗟に手を出してサポート。
肩がぴったりと重なり、二人の顔はごくわずかに近い。
和音は心の中で小さく叫ぶ。
(……今だ……!)
軽くノリ気の心が囁き、でも真剣な想いも混ざる。
この瞬間を逃すまいという気持ちが、和音の体を押し出す。
智春はというと、相変わらず鈍感で、サバ缶の蓋を開けることに集中している。
しかし、無意識に和音の手を握り、肩を寄せていることは事実だった。
その無自覚さが、和音の勇気を後押しする。
和音は息をそっと整え、唇を智春の唇に近づける。
智春は一瞬目を見開くが、次の瞬間、わずかに顔を傾け、無意識に応える。
――初めてのキス。
和音は驚きと喜びで胸がいっぱいになる。
そして、思わず顔を赤らめて小さく笑う。
智春もまた、何が起こったのか理解しきれず、少し戸惑った表情を浮かべる。
そのぎこちなさが、二人の初めてのキスをさらに甘く、コミカルなものにしていた。
唇を離した後も、二人の距離は縮まったまま。
和音は心の奥で、やっと手に入れた喜びと、まだ足りない甘さを同時に味わう。
智春は無意識に笑みを浮かべ、サバ缶を再び手に取りながら、なんとなく満足げだ。
和音は心の中で、次の行動を考える。
(……次は、ちゃんと……もっと近くに……)
胸の奥で芽生えた勇気が、さらに次の瞬間を呼ぶ予感を与える。
キスの後、智春がぽつりと呟く。
「……サバ缶、邪魔だったな」
和音は思わず吹き出す。
「そうね、サバ缶のせいで最初からドタバタね」
笑いながらも、肩を寄せ、手を握り直す。
その距離感の心地よさに、二人はほっとする。
サバ缶の存在すら、今は愛おしい。
和音の胸の奥で、小さな勇気が次々に芽吹く。
智春との関係をより深めるため、次の一歩を踏み出す準備は着々と整っている。
今回のキスは、その第一歩に過ぎない。
サバ缶を囲んだ甘くコミカルな夜は、二人の距離を確実に縮めた。
そして、次の勇気を生む舞台となったのだった。
雨音と静寂の中で 雨音が響く。
今、智春はソファの上で、静かに寝息を立てている。
夕食後、うたた寝していた智春をソファに運んでから、すでに一時間が経過した。
窓の外では、雨音は相変わらず続いている。
外は暗く、街灯の明かりが雨粒に反射している。
和音はそっと立ち上がり、キッチンでホットココアを作る。
そして再びソファに戻り、マグカップを智春の前に置く。
智春はわずかに身じろぎするが、まだ目を覚ます気配はない。
和音は智春の隣に座り、ココアを一口飲む。
甘い香りが優しく広がり、温かさが体に染み渡る。
雨音が心地よいリズムで響き、和音はゆっくりと目を閉じる。
智春と一緒に過ごす時間は、いつも穏やかで優しい時間だ。
互いの存在を感じながら過ごす時間が、何より尊いものだと実感する。
ホットココアを口に含みながら、和音はふと思い立って席を立つ。
寝室へ向かい、クローゼットの中から毛布を取り出す。
そして再びリビングに戻り、それをそっと智春にかける。
智春は寝息を立て、まだ眠りの中にいる。
毛布は、暖かく包み込むように体を覆う。
その温かさで、ようやく智春の体が緩み始める。
「う……ん……」と小さな声がこぼれ、わずかに目が開く。
「……和音……?」
「あ……起こしちゃった?」
和音は微笑みながら答える。
雨音に包まれたリビングで、二人はゆっくりと会話を交わす。
ココアの甘い香りが優しく漂う中、二人の穏やかな時間が続くのだった。
雨音の中で静かに過ごす時間は、二人の距離をさらに縮める。
そしてそれは、次の勇気の芽吹きを予感させるものでもあった。
◆ 雨音の中で
「雨か……今日は一日晴れてたのに」
智春は窓を見ながら呟く。
外は薄暗く、雨が静かに降っている。
「そうね、天気予報では一日晴れだったわね」
和音も窓の外を見ながら答える。
二人はソファに座り、のんびりとした時間を過ごしていた。
智春はテレビをつけ、ニュースを流し見るが、すぐに興味を失って消す。
「なんか、雨音って眠くなるんだよな」
智春は欠伸をしながら呟く。
和音も思わず小さく笑う。
「確かにそうね。私も雨音は好きよ」
二人はしばらく黙って窓の外を見つめる。
雨音が優しく響く中、二人の穏やかな時間が流れていく。
その沈黙を破ったのは、智春だった。
「……なあ、ちょっと散歩に行かないか?」
智春の唐突な提案に、和音は少し驚いた表情を浮かべるが、すぐに笑顔で答える。
「もちろん。行きましょう」
二人は傘を手に取り、雨の中に出て行く。
雨粒が傘を静かに叩く中、智春と和音は自然と手を繋ぐ。
「こうしてると、雨の日も悪くないよな」
智春の言葉に、和音は笑顔で応える。
「そうね。でも濡れないように気をつけないとね」
「そうだな……あ、あのベンチで少し休憩しようぜ」
そんな会話を交わしながら、二人はゆっくりと歩いて行く。
雨音が二人の距離をさらに縮めるように響き渡っていた。




