第51話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
週末の夜。マンションの一室。
智春の部屋に向かい、和音は軽く息を整える。
恋人としての関係はすでに始まっているが、和音の心はまだ収まり切らない熱を帯びていた。
(……こんなに近くにいるのに、まだ物足りない……)
昨日の乾杯のことを思い出す。サバ缶で軽くぶつけたあの瞬間も、どこか遠慮があった。
和音は自分でも驚くほど、胸の中で「もっと濃密に、智春と過ごしたい」と強く思っていた。
一方の智春は、いつもの無邪気な表情で迎えてくれる。
しかし和音は、智春の無自覚な優しさや、マイペースな行動に胸が高鳴ると同時に、自分の欲求が止められなくなるのを感じていた。
智春がソファに座ると、和音も隣に腰を下ろす。
自然な距離感で座ってはいるが、手と手が触れそうなわずかな空間に、和音は意識を集中させる。
(……あ、手が……触れそう……)
心臓がバクバクし、思わず目をそらす。
智春は何も気にせず、サバ缶の箱を開ける仕草をする。
「……今日は、これで一緒に晩ごはん……かな?」
和音が声をかける。
「そうだな。……あ、でも俺、料理はほとんどしないけど」
智春はにこやかに言い、缶を手に取る。
そのとき、和音の手が自然と智春の手首に触れる。
智春はわずかに目を見開くが、すぐに笑顔に戻す。
和音は小さく息をつき、心の中で小さくガッツポーズ。
サバ缶をテーブルに置き、二人は食卓を囲む。
いつもは軽く乾杯して終わるこの瞬間も、和音にとっては心の奥の熱を膨らませる舞台だった。
(……もっと……近づきたい……)
和音の視線は智春の横顔を追う。
無邪気な仕草、自然な笑顔、些細な動作の一つ一つが、胸の奥で甘い衝撃を起こす。
「……ねえ、智春」
思わず和音が声をかける。
智春は顔を上げ、少し首をかしげる。
その仕草だけで、和音の心臓は跳ね上がる。
「……手、つないでみようか」
自然に出た言葉に、和音自身も驚く。
告白でもない、付き合っているから当たり前のはずの一言。
しかし、この一歩を自分から踏み出すことが、胸の奥で膨らむ熱を解放する鍵だった。
二人の手が触れる。
最初はぎこちない。互いに視線を交わし、少し照れる。
しかし、その感触は言葉にできない安心感を与え、同時に胸の奥の熱を加速させる。
(……やっぱり……触れているだけでも、こんなに幸せなんだ……)
和音は小さく息をつき、少し背伸びをして智春に体を近づける。
智春も無意識に、肩をそっと和音に寄せる。
二人の距離は、わずかに、しかし確実に縮まった。
それは単なる物理的距離ではなく、心理的な距離でもあった。
その瞬間、サバ缶のふたが勢いよく外れて、テーブルに落ちる。
智春は驚いて手を離しそうになるが、和音がとっさに手を握り直す。
お互いに笑いながらも、心の中の熱はさらに膨らむ。
「……もう、智春、びっくりさせないでよ」
「ごめん、でも、これもサバ缶のせいだ」
二人で笑い合い、自然に肩を寄せ合う。
ドタバタとした小事件も、二人の距離を縮めるスパイスになる。
和音は心の中で、智春と過ごす時間の一つ一つが、濃密な愛情の瞬間に変わっていくのを感じていた。
和音は気づく。
恋人としての関係は始まっているが、心の奥で「もっと濃密に、もっと大胆に」という思いが芽生えていることに。
(……智春の前なら、もっと自然に近づいていいんだ……)
この思いが、心の奥で小さな勇気となり、次の行動へと繋がる。
手をつなぐ、肩を寄せる、軽く寄り添う……
日常の中で、二人の関係を少しずつ濃くしていく選択肢は、和音の中で次第に明確になっていく。
一方で智春は、和音の心の変化には気づかず、ただ自然に手を握り返す。
しかし、無自覚な行動の中で、智春自身も心の奥では少しずつ変化を感じていた。
(……なんだか……和音さん、いつもより近くにいる気がする……)
心の奥で、これまでにない感覚に戸惑いながらも、安心感と心地よさを感じる。
智春の鈍感さと和音の大胆な心の変化が、微妙なテンションのコントラストを生み出している。
夜も更け、二人はソファで寄り添いながらサバ缶をつまむ。
外の街灯が差し込み、二人の影を穏やかに揺らす。
(……智春といると、なんだか心があったかい……)
和音はそっと智春の肩にもたれ、微笑む。
智春もまた、自然な笑顔を返す。
まだ言葉では語らないが、互いの距離と心の温かさを確かめ合う時間。
日常の中で、二人だけの“濃密な瞬間”はゆっくりと育まれ、次第に恋の深みを増していく。
この夜、二人の距離は物理的にも心理的にもぐっと縮まった。
そして和音の胸の奥で、次に踏み出す小さな勇気が静かに準備されていた。




