第50話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
翌日、会社の朝。
いつも通りのオフィス。だが和音の胸の奥には、昨夜の決意がまだ熱く残っていた。
(……今日、少しだけ距離を縮めてみよう……)
心の中で呟きながら、和音は書類を整理する手を動かす。
視線の端に智春が映る。彼はマイペースにパソコンを起動し、無邪気に同僚に挨拶している。
(ああ、相変わらず鈍感……でも、それがいいところでもあるんだよな……)
和音は小さく笑みを浮かべる。
午前中、二人は共同で資料の確認作業に取り組むことになった。
デスクが隣同士になる。
「……和音さん、これ、こっちの数字と合ってますか?」
智春が資料を差し出す。
和音は少し顔を赤らめながら受け取り、指を添えて確認する。
ほんの数センチ手が触れた瞬間、二人の胸に小さな火花が散る。
和音は思わず目をそらすが、心の奥では期待と焦れが入り混じる。
(……もう少し……もっと近くてもいいのに……)
智春はその変化にまったく気づかず、普通に作業を進める。
和音の心臓の鼓動はますます速くなる。
昼休み。二人は一緒にランチを取ることになった。
秘密ルールを守りつつ、和音は意識的に少しだけ距離を詰める。
「池上さん、このおかず、美味しそうですね」
和音が明るく話しかける。
「そうだな、じゃあ半分こしようか」
智春も微笑み、箸で和音の皿に軽く手を伸ばす。
その瞬間、手が触れる。
和音の頬が熱くなる。
智春は無自覚に笑い、何気なく話を続ける。
(……ちょっと、私、勇気出して正解かも……)
和音の胸は小さく高鳴る。
午後、会議資料を取りにコピー室へ向かう二人。
途中で都築が通りかかる。
「……あれ、池上さん、野上さん、今日は一緒に?」
都築の目が鋭く光る。
智春と和音は慌てる。
「え、えっと、コピーの順番待ちで……偶然です」
「そう、偶然……」
互いに目を合わせ、即座に作戦開始。
二人は互いの手を軽く触れ合う動作で合図を送り、自然に都築の視線をかわす。
都築は一瞬怪訝な顔をするも、証拠がないと判断して去っていく。
智春は小さく息をつき、和音も肩をそっと叩く。
「……またやっちゃいましたね」
「はい。でも、二人でやると楽しいです」
秘密の連帯感が、二人の距離をさらに縮めていた。
◆ 智春の気づきの兆し
その日の夕方、オフィスの窓際で二人は資料の整理をしていた。
智春はふと和音の真剣な表情を見て、心に違和感を覚える。
(和音……なんか、最近、雰囲気が違う……)
手元の書類を置き、智春は心の中で考える。
(もしかして……俺、何か勘違いしてる?)
和音に少し距離を縮められていることに、智春は初めて意識を向ける。
(……あれ、これって……俺たち、恋人としての距離……ちゃんと保ててる……のか?)
考えれば考えるほど、心臓がバクバクしてくる。
恋愛に疎い智春にとって、これは未知の感覚だった。
帰宅時間。二人はエレベーターで一緒になる。
和音は小さな勇気を振り絞り、ふと口を開く。
「池上さん……今日、一緒に帰ってよかったです」
智春は一瞬驚く。
「……あ、ああ。俺もそう思う」
言葉はぎこちないが、笑顔は自然に出ていた。
(……なんだろう、このドキドキ感……)
智春の心も、少しずつだが和音の存在を意識し始めている。
駅のホームで電車を待つ。
二人の手はまだ触れていないが、距離は自然に近い。
言葉は少なめでも、目線や微笑みでお互いの心を確認できる。
「……私、そろそろ少しだけ、自分からも行動してみようかな」
和音は心の中で決意する。
「智春さん、次は……もう少し距離を縮めても、いいですか?」
心の中で小さくつぶやき、微笑む。
智春は無自覚ながら、少し顔を赤らめ、照れくさそうにうなずく。
(……なんか、和音の視線がやけに意識される……)
その気持ちはまだ完全に恋だと自覚していないが、確かに心は引き寄せられている。
電車が到着し、二人は改札前で別れる。今日はなんだか一緒に電車に乗るのが恥ずかしい……そう感じる和音であった。
でも手を握ることはなくても、心の距離は確実に縮まっている。
(……次、会ったときは……もっと近くに……)
和音は心の中で小さくつぶやく。
智春も無意識に、和音の存在をより強く意識していた。
恋人としての一歩を踏み出す準備は、まだぎこちないけれど、確実に整いつつあった。
二人の関係は、秘密の中で育まれ、コミカルでドタバタな日常の中で、少しずつ恋の進展を見せ始めている。
サバ缶や社内の小事件は、二人の距離感を甘く、楽しく、そして少し切なく彩るスパイスになっていた。




