第49話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
金曜の夜、オフィスを後にした二人は、軽い達成感とともに、肩を並べて駅へ向かっていた。
「今日も……なんとか、都築さんの視線をかいくぐれましたね」
智春は微笑みながら和音の肩を軽く叩く。
「はい……でも、少しヒヤヒヤしました」
和音は頬を赤らめ、目を伏せる。
この瞬間、二人の間には小さな連帯感が生まれていた。
スパイごっこのような緊張感を共有したことで、表面的な仕事仲間以上の結びつきを感じている。
けれど、その安心感とは裏腹に、和音の心の奥には、ひそやかな物足りなさが芽生えていた。
◆ 恋人同士なのに触れられない
交際しているはずなのに、まだキス一つもしていない。
抱きしめることすら、日常の中ではほとんどなく、手を握るだけで精一杯。
(これって……なんだか物足りない……)
和音は小さくため息をつく。
心の中では「智春さんにもっと近づきたい」という感情が、日に日に大きくなっていた。
駅のホームで電車を待つ間も、和音の目は智春の姿を追う。
智春は何気なくスマホをいじり、周囲の人を気にせず、いつものマイペースな表情を見せている。
(……ああ、なんて無防備なの……)
和音の胸はドキドキする。
その一方で、自分からアクションを起こす勇気はまだ出ない。
和音は心の中で自問自答する。
「私、どうしてもっと先に進みたいって思うんだろう……」
恋人同士としての自然な親密さを求めているのに、智春はどこか鈍感で、恋愛のリズムがまだゆっくり。
同僚として見ると頼りがいがあり、尊敬できる存在。
でも恋人としては、少し距離を感じてしまう。
(……そうだ。私がもう少しリードしてもいいのかもしれない)
その思いと同時に、和音は智春の優しさに甘えてしまう自分もいることに気づいた。
(でも、どうやって……? 急に距離を縮めたら、智春、びっくりするかも……)
心の中で葛藤しながらも、胸の奥では徐々に“次の一歩”を踏み出したいという強い想いが膨らんでいく。
一方、智春はまったく別のことで頭がいっぱいだった。
(今日の残業の件、資料の整理はどうするか……)
(でも和音の表情、なんかいつもと違ったような……いや、気のせいか)
恋愛には疎い智春は、和音が少し期待している視線や、ドキドキしている心情に気づいていない。
ただ、自分に近づいてくれる存在として、心地よく思っているだけだ。
その無自覚さが、和音にとってはもどかしい。
だけど、同時に智春の鈍感さが、彼女の焦燥と興奮を増幅させていた。
帰宅のため、ホームで電車を待つ二人。
人目を気にして手をつなぐことは避けているが、視線や小さな動作で心を確かめ合っている。
「……今日は、仕事で都築さんにいろいろ気づかれそうでしたね」
和音は小さく笑う。
「うん。でも二人で協力できたし、なんとか乗り切れたな」
智春も微笑む。
二人の間には、まだ公にはできない“秘密の連帯感”が芽生えていた。
手を握ったり、肩を並べたりすることで、お互いの存在を意識しながらも、心の距離は徐々に縮まっている。
◆ 和音の想いの加速
電車がホームに滑り込む音。
車内の人混みにもまれながら、和音はふと思う。
(智春さん……私、もっと近くにいたい……)
(抱きしめられたい、キスもしたい……でも、私からは言い出せない……)
胸の奥で、次第に焦燥と期待が入り混じる。
恋人としての自然な距離を求める気持ちが、頭と心を支配していく。
けれど、智春はまだその思いに気づかない。
だからこそ、和音の内心は、少し切なく、少しワクワクしていた。
電車に乗り、二人は隣同士に座る。
窓の外の夜景が流れる中、和音は智春の横顔をじっと見る。
「……やっぱり、智春さんは無邪気だな」
心の中でつぶやき、少し微笑む。
秘密を守ることで生まれた二人の連帯感は、単なる恋愛以上の安心感を与えていた。
同時に、今まで踏み出せなかった“次の一歩”への期待も芽生えている。
和音は小さく息をつき、心の中で決意する。
(……次に会うときは、少しだけ私から距離を縮めてみよう……)
智春は相変わらず鈍感で、何も気づいていない。
それでも、彼の存在が和音に安心感を与えていることは確かだった。
二人の関係はまだ序盤だが、日常の中で育まれる秘密の連帯感と、和音の胸の内に生まれる小さな勇気が、ゆっくりと恋のステップを進めている。
駅に着き、電車を降りる。
和音は小さく微笑みながら、智春に言った。
それぞれのマンションの前で。
「じゃあ……また明日、会社で」
「うん。楽しみにしてる」
手は触れずとも、心の距離は確かに近い。
和音の胸の物足りなさは、次回への期待に変わっていた。
智春の無自覚な鈍感さが、和音の焦れったい感情をさらに高め、恋人としての関係を甘く、コミカルに、そして少し切なくしている。
夜の街を歩く二人の背中に、これからの恋愛の予感が静かに漂った。




