第45話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
その夜、智春と和音が「秘密のルールノート」を作ったことは、二人にとって小さな自信になっていた。社内恋愛を隠すのは苦しいけれど、ルールがあるから守れる――そんな安心感が、翌日の仕事にもほんのり影響していた。
しかし世の中はそう甘くない。
その翌週、会社のオフィスに一人の“観察魔”がいた。
都築翔太。
人事部所属の三十代半ば。鋭い目つきとおしゃべりな性格で、誰よりも人間観察を趣味にしているような男だった。噂話を広めるタイプではないのだが、とにかく「気づいてしまう」天性の嗅覚を持っている。
月曜の昼休み。いつものように和音は同僚女子たちとランチに行き、智春はデスクで軽く弁当を済ませていた。そこへ、都築がやってきた。
「池上くん、最近なんか雰囲気変わったよな」
唐突な一言に、智春は弁当を口に含んだままむせそうになる。
「へ、変わったって……何がです?」
「いやー、言葉にしづらいけど。なんていうか……“落ち着いたようでソワソワしてる”っていうのかな」
妙に的を射た指摘。智春の背中に汗がにじむ。
「……そ、そんなことないですよ」
「ふーん?」
都築はじっと智春を見つめ、にやりと笑った。
一方その頃、和音も同じように都築からの“突っ込み”を受けていた。
「野上さん、最近なんかきれいになったよね」
「えっ」
「化粧とか服のせいじゃなくてさ。なんか“内側からにじみ出るもの”って感じ」
「な、なにそれ大げさですよ」
「いやー、女は恋すると変わるって言うけど、ほんとだなあ」
カウンター直球の一言に、和音は箸を止めて固まった。
(やばい……。完全に気づかれてる……!?)
午後の会議室。偶然にも智春と和音は同じチームで資料を準備することになった。二人はもちろん「秘密ルール」に従い、完全に業務モードで接する。
しかし――。
「池上さん、こちらのデータも確認お願いできますか」
「わかりました、野上さん」
呼び合う名字の響きが、妙にぎこちない。
そのやり取りを後ろから見ていた都築が、またしても目を細めた。
「おやおや、なんか二人、距離近くない?」
「ち、近くないです!」
「そ、そうですよ!」
二人同時に声を上げてしまい、場の空気が固まる。
「……怪しいなぁ」
都築は鼻歌を歌いながら去っていった。
その日の帰り道。
「……智春」
「ん」
「やっぱりルールを作ったのは正解でしたね」
「え?」
「だって今日、あの都築さんに何度も突っ込まれて……。もし名前で呼び合ってたら、一発アウトでしたよ」
「……確かに」
二人は安堵のため息をつきながら歩いていたが、和音はふと表情を曇らせた。
「でも……都築さん、鋭いですよね。正直、私……怖いです」
「大丈夫だよ。俺たちがしっかりルールを守れば」
「……守れるかな」
不安げな和音の横顔を見て、智春は胸がチクリと痛んだ。
次の日の昼休み。
智春がコンビニで買ったコーヒーを片手に戻ろうとすると、都築が背後から声をかけてきた。
「なあ池上」
「はい?」
「野上さんのこと……気になってるだろ?」
コーヒーの缶を落としそうになる。
「な、な、な、なんでそんなことを……!」
「だってさ、わかりやすいんだよ。人ってさ、隠そうとすればするほど表情に出るもんだ」
都築は意味深な笑みを浮かべた。
その夜。智春は和音に報告した。
「やばい。都築に直球で聞かれた」
「ええ!? なんて答えたんですか?」
「ごまかした……けど、多分信じてない」
二人は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「……やっぱり、もう少しルールを細かくしよう」
「そうですね。たとえば……会社で話すときは“必要最低限”にするとか」
「でもそれは逆に不自然じゃないか?」
「確かに……」
議論はどんどん深みにハマっていく。
やがて和音がぽつりとつぶやいた。
「……でも私、都築さんみたいな人がいるからこそ、隠す意味がある気もするんです」
「え?」
「バレないように工夫して、秘密を共有して……それって、すごく特別じゃないですか」
智春はハッとした。
確かに、都築の存在は厄介だ。でも、彼がいるからこそ二人は一層絆を意識できるのかもしれない。
「……なるほどな。じゃあ、ある意味感謝しなきゃいけないのかも」
「ふふっ、ですね」
二人はまたサバ缶を開け、箸を合わせる。
「じゃあ、都築対策強化ルール、制定記念に」
「乾杯」
缶の音がカチンと響き、二人は顔を見合わせて笑った。
だが――。
翌日もまた都築は二人をじっと観察していた。
まるで探偵のように。
「……さて、どこまで隠せるかな?」
二人の“秘密の恋”は、ますますスリリングなステージに突入していくのだった。




