第44話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
会議室からの帰り道。廊下の角を曲がったところで、和音は思わず小声でぼやいた。
「……ねぇ智春。今日一日で寿命、三年くらい縮んだ気がします」
「わかる……。俺なんか、さっきの佐伯さんのニヤニヤ顔、夢に出てきそうだもん」
二人は目を合わせて、同時にため息。それからクスクスと笑い出した。まるで災難を乗り越えた戦友同士のようだ。
「……ほんとに危なかったですね」
「な。あと一歩で完全にアウトだった」
「特にランチの時! 私、無意識に智春の方を見ちゃって……」
「俺もだよ。内心『和音、こっち見るな!』って叫んでた」
互いに顔を見合わせて、また笑う。笑えば笑うほど、心臓の高鳴りはおさまらない。
その日の終業後。帰りのエレベーターで、他の社員が全員降りた後に二人だけが残った。ビルの一階へ降りる静かな空間。やっと訪れた二人きりの時間だった。
「……ねえ、智春」
「ん?」
「隠すのって、やっぱり難しいですね」
和音は壁に背を預けて、ぽつりと言った。視線は足元に落ちている。
「今日みたいなこと、また起きたら……いつか本当にバレちゃうかも」
「……そうだな」
智春も真面目な顔になる。
「……でもさ」
「はい?」
「バレても、いいんじゃないかなって、ちょっと思った」
和音は一瞬、目を見開いた。
「……智春さん?」
「いや、もちろん無理に公表しなくてもいいんだよ? でも、もしも誰かに気づかれても……俺は別に恥ずかしくない。むしろ、ちゃんと胸張って『和音と付き合ってます』って言えたらって、思うんだ」
智春の言葉は、不器用で真っ直ぐだった。
和音は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。自分でも気づかぬうちに、ほっと笑みがこぼれる。
「……意外。智春って、もっと秘密主義なのかと思ってました」
「そう見える?」
「見えます」
「じゃあ訂正。俺、和音のことは隠したくない」
その言葉に、心臓が跳ねた。思わず目をそらしてしまう。
(……隠したくない、か)
エレベーターの針が「1」を示す。ドアが開き、人の気配のあるロビーが目に入る。二人は自然と、いつもの同僚の顔に戻る。
だが胸の奥には、さっきの言葉が確かに残っていた。
駅までの帰り道。並んで歩きながら、和音はふいに口を開いた。
「……私も、ちょっとだけそう思ってたんです」
「え?」
「隠すのも楽しいけど……誰かに『お似合いだね』って言ってもらえたら、それも悪くないなって」
智春が目を丸くして、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「じゃあ、気持ちは同じだな」
「……ですね」
二人は照れくさそうに笑い合う。
――まだ答えは出せない。秘密を守るべきか、公にするべきか。
でも少なくとも、「隠したい」だけではない自分たちの本音を、初めて共有できた瞬間だった。
その夜、布団に潜りながら和音は思った。
(……もしバレても、智春と一緒なら大丈夫かも)
そして智春もまた、自室で同じようなことを考えていた。
(……いつか堂々と『俺の彼女』って紹介できる日が来ればいい)
お互いまだ知らないまま、同じ願いを抱いて眠りについたのだった。
****
週末の夕方。智春のマンションで、二人は並んでソファに腰掛けていた。テーブルの上には例のサバ缶と、コンビニで買ったお惣菜。すっかり二人の“お決まりコース”になりつつある。
「……ねえ智春」
「ん?」
「この前のランチ事件と会議室事件、正直、まだドキドキ引きずってます」
「俺も」
二人は顔を見合わせて同時に笑う。
「でね、思ったんです」
「何を?」
「このままじゃいつか絶対にバレます。だから……ちゃんとルールを作りませんか?」
和音の真剣な表情に、智春は思わず姿勢を正す。
「ルール、か」
「はい。社内ではこう振る舞う、外ではこうする、っていう線引きをしておいた方が安心かなって」
「なるほど……それ、いいかも」
「じゃあさ、まず一番大事なこと」
「はい」
「呼び方だよな」
智春の言葉に、和音は思わず耳まで赤くなる。
「……ですよね」
「社内では“池上さん”“野上さん”で統一。で、外では……」
「……智春、和音」
名前を呼ぶだけで、空気が一瞬甘くなる。二人は思わず目をそらした。
「こ、こほん。決まりだな」
「……はい」
和音はペンを取り出し、手帳を広げて本気でメモを取り始めた。
「え、メモすんの?」
「当たり前じゃないですか! こういうのは形に残すから意味があるんです」
「……まじめだなぁ」
笑いながらも、智春は少し誇らしい気持ちになった。
「じゃあ、次は……二人で一緒に帰るのはどうする?」
「それが問題なんですよ。毎日は無理です。絶対目立ちます」
「じゃあ、週に二回くらい?」
「三回までならセーフかな」
「……なんかダイエットの制限みたいだな」
「ははは」
笑い合いながら、二人の“ルールノート”は少しずつ埋まっていく。
だが、書けば書くほど智春の胸にはモヤモヤが募ってきた。
「なあ、和音」
「はい?」
「こうやってルール決めてると……まるで俺たち、すごく怪しいことしてるみたいじゃないか?」
「怪しいことしてるんです」
「ち、違うだろ! 俺たちはただ付き合ってるだけで……」
「でも隠してるから、余計に怪しくなるんです」
ぐうの音も出ない正論。智春は頭をかきながら、ため息をついた。
和音はそんな彼を横目に見て、少しだけ微笑んだ。
「……でも、こうやって話し合ってるの、ちょっと楽しいです」
「え?」
「秘密を共有してるっていうか……“私たちだけのルール”って感じで」
その言葉に、智春は思わず頬をかく。
「……確かにな。なんか学生の頃に戻ったみたいだ」
「ふふっ、中学生の恋愛みたいって、また思いました?」
「図星」
二人は笑いながら、缶ビールを取り出した。
「では、“秘密のルール制定記念”ということで」
「乾杯」
グラスを合わせる音が、ほんの少し高く響いた。
夜も更けて。テーブルのノートにはぎっしりとルールが書き込まれていた。
社内では名字呼び
帰宅は週三回まで
会社の飲み会では距離を取る
SNSには一切痕跡を残さない
などなど。
「……なんか、スパイ映画みたいですね」
「ほんとだな。ミッション・インポッシブルって感じ」
「私たちが秘密工作員で、任務は“社内恋愛をバレずに遂行せよ”」
「めっちゃ難易度高そう……」
二人は大笑いしながらも、どこか心が軽くなっていた。
ルールは秘密を守るために作ったはずだった。
でもいつしかそれは、二人にとって「特別な絆」を確認する儀式になっていたのだった。




