第39話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、オフィスの空気が一気に弛緩した。野上和音はそっと椅子を引き、ランチ仲間の女子同僚たちと連れ立って近くのカフェへ向かった。そこは会社員の憩いの場で、いつも席を確保するのが小さな戦いになる人気店だ。
「和音さん、最近なんか雰囲気変わったよね」
サラダランチを前にして、同僚のひとりがにやりと笑った。
「へ?」と間の抜けた声を出してしまう和音。
「うんうん。なんかさ、前より顔が明るいっていうか。ほら、目がキラキラしてる感じ」
「うんうん、それ恋してる人の顔じゃない?」
「ちょ、ちょっと!」和音は慌ててフォークを落としかけ、あわてて掴む。心臓が耳元で爆音を立てている気がした。いやいや、やめてくれ。確かに恋をしている。いや、すでに付き合っている。でも、それは絶対に社内には秘密なのだ。
「ええー? 違うの?」
「もしかして社外の彼氏ができたとか?」
「それとも、まさか……社内恋愛だったりして!」
最後のひとことに、和音のサラダが気管に入りかけた。ゴホゴホッとむせながら水を飲む。
「な、なに言ってるのよ! そんなわけないじゃない!」
声が妙に裏返ってしまい、かえって怪しさを増してしまった。
「えー? 怪しいなあ。まあ無理に言わなくてもいいけどね。ふふふ」
女子同僚たちは好奇心に満ちた視線を和音に向ける。まるで動物園の珍獣を見ているような眼差しだ。和音は笑顔を繕いながら、内心では絶叫していた。
――やばいやばいやばい!! これ、完全に勘づかれてる!?
しかし、同僚たちは話題を次々に変えていき、結局それ以上は深掘りされなかった。助かった……と思った瞬間、背筋を冷たい汗がつたった。
午後、オフィスに戻っても和音はそわそわしていた。すると、隣の席の池上智春が小声で囁く。
「……なんか、落ち着きないけど。大丈夫?」
和音は一瞬、心臓が止まりそうになった。見られてた!? と思ったが、智春は純粋に心配そうだ。
「い、いや……ちょっとね。ランチで変なこと言われて」
「変なこと?」
「……なんか、『恋してる顔だよね』とか……」
智春は「へえ」と頷き、それから急に固まった。パソコンの画面を凝視しているが、耳がほんのり赤い。
「……いや、それ、図星だから反応に困るな」
「し、しーっ!」和音は慌てて人差し指を口に当てる。周りに聞こえたらどうする!
「でもまあ……隠すの、結構大変だな」智春はぼそっと呟いた。
和音は思わず目を見開いた。
「……そう思ってた?」
「そりゃそうだよ。ランチの時とか、飲み会の時とか、呼び方間違えそうになるし。なんかこう……無理して隠すのもしんどいな、って」
智春は椅子にもたれながら溜息をついた。言葉の端々に素直な本音がにじみ出ている。
和音はドキッとした。彼がこんなふうに弱音を吐くなんて珍しい。いつもは朴念仁で、恋愛に疎くて、のんびり構えているくせに。
「でも……」和音は小声で言った。「バレたら、なんかやっぱり気まずくない?」
「まあな。仕事やりにくくなるかもしれないし」
「でしょ? だから私は……秘密、案外楽しいって思ってる」
そう言うと、智春は目を丸くした。
「楽しいの?」
「うん。だってさ、ふたりだけの秘密って、なんか特別でしょ。こう、漫画とか映画みたいで」
照れ隠しのつもりで言ったのだが、口に出した瞬間、自分でも本気でそう思っていることに気づいた。
智春はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……なるほど。確かに、ちょっとドキドキはするな」
それからふたりは視線を交わし、同時に咳払いしてそっぽを向いた。オフィスの中、周りの社員は誰も二人のやり取りに気づいていない。だが、当人たちはすでに心臓が爆発しそうだった。
その日の退社後。駅へ向かう道で、和音が切り出した。
「ねえ、智春」
「ん?」
「……やっぱり、秘密は秘密でしばらく続けようよ。バレそうになると焦るけど、私、ちょっとワクワクしてるんだ」
智春は少し考え込み、それから苦笑した。
「そっか。じゃあ、しばらくはスパイ活動みたいな感じだな」
「そうそう! 社内潜入カップル!」
二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。すれ違うサラリーマンに怪訝そうな顔をされても、もう止められない。
結局、ふたりは「秘密を守りつつ、そのスリルを楽しむ」ことで意見が一致した。
その夜。和音はベッドに転がりながらスマホを握りしめた。
――やっぱり、楽しいかも。智春と一緒に秘密を抱えて、誰にも気づかれないようにしてるなんて。
でも同時に、胸の奥でほんの少しだけ、こんな思いも芽生えていた。
――いつかみんなに堂々と紹介できる日が来たら……それも悪くないな。
和音は枕に顔を埋めながら、にやけ顔を止められなかった。




