第38話 第三章 祝福されたい心と憧れのかたち
会社の昼下がり。オフィスの空気はいつもより少し浮ついていた。週末が近づいているせいか、皆の口元にはどこか弛緩した笑みが見える。けれど智春にとっては、昨日の「雑談ハラハラ事件」の余韻がまだ抜けきれていなかった。
あのときのことを思い出すと、背筋がむず痒くなる。ペンを落とした自分の手元、和音と声がかぶった瞬間、そして同僚たちの「仲いいんですね」というあの言葉。
――いやいや、あれは絶対怪しまれただろ。いや、でも決定的な証拠はなかったはず。……でも俺の挙動不審、あれは逆に怪しいよな。
そんなことを考えながら、モニターに映るエクセルの数字を追っていても頭に入ってこない。マウスのカーソルは行ったり来たりを繰り返し、結局ため息が一つ、また一つ。
「池上さん、どうしたんですか? さっきからため息ばかり」
すぐ横から聞こえる声に、智春はびくっと肩を揺らす。振り向けば、机に資料を置いた和音が首をかしげていた。
「いや、なんでも……」
言いかけて、智春は言葉を飲み込む。本当は「昨日の件で頭がいっぱいなんだよ」と正直に吐き出したい。けれど、ここは会社の真ん中。周囲には耳をそばだてる人間がいくらでもいる。
「……ただの寝不足だよ」
苦しい言い訳をしてみせると、和音は「そうですか」と小さく笑った。その笑みが、智春には「あなた、また考えすぎでしょう」と言っているように見えて、さらに気恥ずかしくなる。
昼休み、二人は別々に食堂へ向かう。表向きは。
けれども食堂の片隅、なるべく人目の少ない奥のテーブルで、結局は一緒に並んで座ることになる。これもすでに「隠れ習慣」と化していた。
「昨日のこと……気にしてますよね」
トレイを置くなり、和音が切り出した。
「……そりゃ気にするだろ。あのまま突っ込まれてたら終わりだった」
「終わりって……別に禁止されてるわけじゃないじゃないですか」
「いや、まあ、そうなんだけどさ……」
智春はフォークを持ちながら、口ごもる。
本当は、隠すのが嫌になりかけている自分に気づいている。
――俺たち、ちゃんと付き合ってるんだぞって、胸を張りたい気持ち。あの「仲いいですね」って笑いに、「ああ、そうなんだ。俺たち恋人なんだ」って言ってやりたい気持ち。
けれど、同時に怖いのだ。噂が広まること、周りに茶化されること、万が一別れたときに社内で気まずくなること。
そんな心の葛藤を隠しきれずにいる智春を、和音は静かに見つめていた。
「……実は」和音が声をひそめる。「私、ちょっと憧れてる人がいるんです」
「え? 憧れてる人?」
「岡本リーダー。女性の」
智春は一瞬、息をのむ。岡本夏樹。営業部のリーダーで、和音の直属の上司だ。才色兼備で、誰からも信頼されている女性。だが智春の頭に浮かんだのは、別の情報だった。
「ああ……あの、経理の佐藤さんと付き合ってるって噂の?」
「噂じゃなくて事実ですよ。本人たち、もう公にしてますし」
「え、マジで?」
「はい。食堂でも一緒にいるし、休日の話も普通にしてます。……でも、なんていうか、自然なんですよね。茶化されても嫌な顔しないし、逆に『まあ、そうなんです』って笑って流してる。それで誰も無理に踏み込まない」
和音は箸を止め、ぽつりと続けた。
「……ああいうの、いいなって思うんです」
智春の胸の奥で、チクリと小さな痛みが走る。
――つまり、和音も「隠すばかりじゃなく、自然に認めてもらえる関係」を望んでいるってことか。
「俺たちも……そうなりたいって思ってる?」
智春が恐る恐る尋ねると、和音は少し頬を赤らめてうなずいた。
「はい。もちろん、まだ今は難しいと思います。でも……いずれは」
その真剣な瞳に、智春は言葉を失った。
頭のどこかで「バレたら困る」と叫ぶ自分がいるのに、胸の奥では「祝福されたい」と願う自分も確かにいる。その狭間で、心は揺れ動き続ける。
午後、会議室から戻る途中で、智春はふと岡本夏樹とすれ違った。彼女は書類を抱え、疲れ気味の顔をしていたが、その隣には経理の佐藤がさりげなく歩いている。彼女が手を滑らせ書類を落としかけると、佐藤がすぐに拾って手渡し、二人は自然に笑い合った。
――あれだ。ああいう空気感だ。
智春は思わず立ち止まり、心の中で呟いた。
派手ではない。秘密めいてもいない。ただ自然体で、互いを支え合っている。そんな姿が、社内の中で妙に眩しく映った。
その日の帰り道。人気の少ない駅のホームで、和音が智春にぽつりと漏らした。
「……私たちも、あんなふうにできるかな」
「……あんなふう?」
「ええ。岡本リーダーと佐藤さんみたいに。自然に、誰からも祝福されてるみたいな」
智春は、夜風を吸い込みながら、ゆっくり頷いた。
「……俺も、そうなれたらいいなって思ってる」
その言葉は、どこか頼りなく、それでも確かな願いを含んでいた。
二人の関係はまだ秘密。だが、心の奥底では、少しずつ「公にする未来」を思い描き始めていたのだった。




