第37話 第二章 二人のサバ缶共有
昼休み直前のオフィスというのは、独特のざわめきがある。パソコンのキーボードを打つ音がだんだんと減り、代わりに「今日はどこに行こうか」「お弁当持ってきた?」といった声が小さく飛び交う。ひまわり食品の営業部でも例外ではなく、和音はいつもどおり机の上を片付けながら、斜め前の池上智春の動きを無意識に目で追っていた。
――やばい、また見てる。
自分で自覚しているのに、どうしても視線が吸い寄せられる。昨日の夜、LINEで「仕事おつかれさま」と送ったときに、智春から来た「おつかれ。今日はサバ缶抜きで晩飯にした」という素っ気ない返事を思い出して、ふっと口元が緩んでしまう。
「野上さん、なんかいいことありました?」
隣のデスクの同僚・中原が、にやりと笑いながら声をかけてきた。和音は「えっ」と小さく跳ね、慌てて書類の束を胸の前に抱えた。
「い、いえ! なんでもないですよっ」
「ほんとかなぁ? なんか最近よくニコニコしてません?」
中原の視線が鋭い。――あ、危ない。
心臓が一瞬止まったような気がして、和音は頭の中で必死に言い訳を探す。
「えっと、その……! 昨日ドラマ見て、キュンとしちゃって……!」
「ドラマ? ああ、あの胸キュン恋愛のやつ?」
「は、はい! そうです! あれです!」
無理やりな笑顔で答えると、中原は「へぇ~」とからかうように笑った。
そのやり取りを聞いていた智春は、机の上のペンをくるくる回しながら、なんとなく耳が赤くなっていくのを感じていた。
――危なかった……今ちょっと俺の方チラ見してただろ、和音。いや、もしかしてバレた? いやいや、気づかれてない、はず。
しかし、次の瞬間さらに試練が訪れる。
「そういえば、池上さんと野上さんって、よく一緒にいますよね」
後ろの席の女性社員が、何気なく放った一言だった。
和音と智春、同時に「!!!」と心の中で叫んだ。
智春の手の中のペンがカチャンと床に落ちる。和音は書類を抱えたまま凍りついた。
「えっ、そ、そうですか?」
「い、いや、そんなことは……」
二人同時に返事をしてしまい、しかも声がかぶった。
周囲から「仲いいなぁ~」と小さな笑い声が起きる。
――だめだ、完全に怪しまれてる!
智春の心臓はバクバク鳴りっぱなしだった。額にじんわり汗がにじむ。頭の中では最悪のシナリオが次々浮かんでくる。
(やっべぇ……もし付き合ってるってバレたら、社内規定とか大丈夫なのか? いや禁止されてるわけじゃないけど……でも噂になったら面倒だろ……うわぁぁ! なんで俺こんなに隠すの下手なんだよ!)
一方の和音は、抱えている書類をぎゅっと胸に押しつけながら、逆に少し開き直りかけていた。
――そりゃ一緒にいるに決まってるじゃないですか! 恋人なんだから! でも……言えない! 言えないけど! ……ああ、なんでこんなにわかりやすいんだろ、私たち。
中原がさらに追い打ちをかける。
「だってさ、この前も二人で同じ方向に帰ってたじゃん。偶然にしては多いなぁと思って」
「お、おお偶然ですよ、偶然!」と智春。
「そ、そうそう! たまたま方向が一緒で!」と和音。
再びハモってしまった。
今度はオフィス全体に小さな笑いが広がり、「仲いいんですね~」という声があちこちから飛んでくる。
智春は椅子の上で小さく縮こまり、机に突っ伏したくなる衝動を必死で抑えた。
――落ち着け俺! ここで取り乱したら余計に怪しまれる! ……でもやばい、どう見ても挙動不審だろ、俺!
和音は和音で、笑顔を引きつらせながらも心の中では別のことを考えていた。
――もう……池上さん、ほんとにわかりやすいんだから。私まで挙動不審になっちゃうじゃないですか。……でも、こういうのってちょっと楽しいかも。スリルっていうか、秘密の共有っていうか。
気づけば二人の顔はそろって赤くなり、目を合わせまいと必死に別の方向を向いていた。だがそれがまた逆に怪しい。
そんな緊迫(?)の空気を破ったのは、部長の一声だった。
「おーい、おまえら。昼休み入るぞ。さっさと行ってこい」
「は、はいっ!」と同時に答えてしまい、また周囲がクスクスと笑う。
二人はそそくさと席を立ち、まるで逃げるようにオフィスを出ていった。
エレベーターの中。扉が閉まると同時に、智春が深いため息をついた。
「……あっぶねぇ……完全にバレるかと思った」
「ですね……心臓止まるかと思いました」
二人は顔を見合わせ、同時に笑い出してしまった。緊張と安堵が混じった笑いだった。
智春はまだ顔が赤く、頭をかきながらぽつりとつぶやく。
「俺たち、やっぱ隠すの下手だよな……」
和音は肩をすくめ、にっこりと笑う。
「でも……ちょっとスリルがあって、楽しくないですか?」
その一言に、智春は一瞬きょとんとしたあと、思わず吹き出してしまった。
――そうか。俺はただ焦ってばっかりだけど、和音はこういうのも楽しめてるんだな。やっぱり強いな、この子。
オフィスに戻るころには、二人の胸の中には不思議な連帯感が芽生えていた。秘密を共有する恋人同士だけが味わえる、あのこそばゆい一体感。
――危なっかしいけれど、これが俺たちの恋なんだ。
そう思うと、智春の胸は少しだけ誇らしく温かくなったのだった。




