第36話 第二章 二人のサバ缶共有
付き合い始めてから、智春の頭の中を占めていたのは一つの悩みだった。
(俺たち……なんか中学生カップルみたいじゃないか?)
デートといえばスーパーでの買い物や、近所の公園を散歩。二人で食事に行っても居酒屋やカジュアルなカフェばかり。楽しいのは間違いない。けれど、ふとした瞬間に胸の奥から湧いてくる焦燥感。
(俺は三十路の社会人だぞ。もう少し“大人の恋愛”ってやつをしなきゃ、和音に呆れられるんじゃないか?)
和音が呆れる顔は想像しづらい。それでも、不安は膨らむ。智春はスマホで「大人の恋愛 デート」「社会人カップル 雰囲気」などと検索するのが日課になっていた。
ある金曜日。
智春は思い切って高級レストランを予約した。夜景が見える最上階。スーツで行けばビシッと決まるはず。
(これぞ大人デート……! 今日はきっと雰囲気を作れる)
自信と緊張が入り混じる心境で、和音を迎えに行った。
そしてレストランに到着。
「わ……すごい、夜景」
「だろ? ちょっと奮発した」
席に案内され、グラスが置かれる。ジャズが流れ、隣席のカップルは落ち着いた声でワインを語っている。智春は背筋を正した。
(よし、俺も自然に大人っぽく……)
「えっと……このワイン、ボディが……その、フルーティーで……」
自分でも何を言っているのかわからない。
和音は吹き出すのをこらえている様子だった。
「池上……じゃなかった、《《ちはる》》。無理しなくても大丈夫ですよ」
「……やっぱり?」
「うん。なんか、背伸びしてるのがバレバレです」
頬が熱くなる。だが和音の目は優しい。
「私は、こういうのも素敵だと思いますけどね。頑張ってるのが伝わるから」
その一言で、緊張がふっと和らいだ。智春は肩の力を抜き、心からの笑みを見せた。
別の日。
智春は「大人らしいサプライズ」をしようと決意した。
会社帰り、花屋に立ち寄り、小さなブーケを買う。渡すタイミングは……と悩んでいるうちに和音のマンション前に到着。
「これ……」
差し出した瞬間、和音の目が丸くなる。
「ブーケ? わ、ありがとう……」
「たまには大人っぽくな、と思って」
照れ隠しに視線をそらす智春。
和音は花を胸に抱きながら、少し頬を赤らめた。
「ちはるが花を持ってる姿、なんだか新鮮です」
「変だったか?」
「ううん。すごく……可愛い」
――可愛い。
大人っぽく見せようとしたのに、なぜか可愛いと評される。智春は一瞬むっとしたが、和音の笑顔に勝てるはずもなく、結局は笑ってしまった。
次の挑戦は旅行だった。
一泊二日の温泉旅館を予約。落ち着いた大人の時間を過ごせるはず。
しかし現地に着くと、智春は浮き足立ってしまった。
豪華な夕食に感動しすぎて写真を撮りまくり、温泉では子どものように「すげー! 露天風呂だ!」とはしゃぐ。
「ちはる……落ち着いて」
「いや、だってさ、露天風呂で星が見えるんだぞ!?」
和音は呆れ半分、楽しさ半分といった顔で笑っていた。
その夜、布団に並んで横になりながら、和音がぽつりと言った。
「……大人っぽい雰囲気を頑張って作ろうとしてるの、わかります」
「やっぱバレてた?」
「はい。でも……私は、ちはるが背伸びしなくても好きですよ」
心臓が跳ねる。暗がりの中で和音の横顔が見える。
智春は照れ隠しに寝返りを打った。
(大人っぽさより、俺らしさか……)
ある晩。
二人は智春の部屋で、例のサバ缶をつまみにしていた。
「結局、サバ缶に戻ってきちゃいましたね」
「やっぱり俺たちの象徴だな」
笑い合いながら缶を開け、乾杯する。
智春はふと真顔になった。
「……俺さ、和音の前だと、いつも空回りしてる気がする」
「そうですか? 私は、楽しいですけど」
「もっと“大人の恋愛”っていうか、落ち着いて格好よく振る舞いたいんだ」
素直な気持ちを吐き出すと、和音は缶を置き、少し考えるようにしてから口を開いた。
「ちはる。私、大人の恋愛って、無理して背伸びすることじゃないと思います」
「え……」
「自然に、一緒にいて安心できて。笑ったり、時々ケンカしたり。そういう積み重ねが“大人の恋愛”になるんじゃないですか」
智春はしばらく黙り込む。
その言葉は、心の奥にすとんと落ちてきた。
「……そうかもしれないな」
「はい。だから、サバ缶で乾杯してる私たちだって、立派に“大人”なんですよ」
二人は見つめ合い、笑った。
智春の胸に、じんわりと温かさが広がる。
大人の恋愛を求めて奮闘した智春。
高級レストランも、サプライズも、旅行も。どれも背伸びして失敗したり、可愛いと笑われたり。
けれど、その一つ一つが和音との思い出になり、少しずつ二人の関係を深めていった。
(無理して“大人”になるんじゃない。和音と一緒に、積み重ねていけばいいんだ)
サバ缶を挟んで微笑み合う二人の姿は、確かに“大人の恋愛”の形をしていた。




