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サバ缶食ってりゃ死なねぇだろ!……たぶん。  作者: さかき原 枝都は


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第35話 第二章 二人のサバ缶共有

 呼び方の問題は、二人にとって小さくも大きな壁だった。

 恋人らしく「和音」「ちはる」と呼び合いたい気持ちはあっても、照れが先に立ち、いつまでも「野上さん」「池上さん」のまま。


 そして和音にとって、その壁は特に高かった。

 彼が勇気を出して「和音」と呼んでくれたときの胸の高鳴り。嬉しさと同時に、どうしても自分の口からは「池上さん」が出てしまうもどかしさ。


(ダメだ……呼ぼうと思うほど、言えなくなる)


 そんな日々が続いていた。


 小事件が起きたのは、ある休日の午後だった。

 和音と智春は近所のスーパーで買い物をしていた。夕飯を一緒に作ろうという話になったのだ。


「カレーがいいな」

「じゃあ野菜を買いましょうか。にんじんと玉ねぎと……」

「肉は牛にする? 豚にする?」

「うーん、豚でいいんじゃないですか」


 ごく普通の買い物風景。

 けれど二人にとっては、そんなささいなやりとりが心地よかった。


 買い物カゴを片手に、智春が不意に棚の上段に目をとめる。


「あ、サバ缶」

「……またですか」


 二人同時に苦笑い。

 あの日の居酒屋告白と、マンションでのサバ缶乾杯事件。サバ缶はいつのまにか二人のキーワードになってしまっていた。


「買っとく?」

「非常食っていうか……もはや縁起物みたいになってきましたね」

「じゃあ記念に一個」


 そうしてサバ缶もカゴに入れられた。


 夕暮れ時。

 智春のマンションの台所で二人は並んで立った。


「にんじん、薄く切ったほうがいい?」

「はい。池上さん、玉ねぎは任せます」


 いつもの呼び方に、和音の胸はちくりとした。

(やっぱり……私も、名前で呼びたい)


 でも声に出せない。

 包丁の音だけが台所に響く。


 そのときだった。


「うわっ!」


 智春が小さく声をあげた。

 玉ねぎを切っていた手元から、包丁がわずかに滑ったのだ。


「大丈夫ですか!?」


 思わず和音は手を伸ばし、彼の指先をとっさに押さえた。幸い浅い切り傷だったが、血がにじんでいる。


「ほら、だから言ったじゃないですか、もっとゆっくりって……!」


 夢中で絆創膏を探し、指に巻きつける。

 そのとき、和音の口から、思わず言葉が零れ落ちた。


「もう……ちはるは不器用なんだから」


 ――時間が止まった。


 自分で言った瞬間に、和音の心臓が跳ねる。

 頭の中が真っ白になり、頬が一気に熱を帯びた。


「あっ……」


 顔を上げると、智春がぽかんと自分を見つめている。

 数秒の沈黙。


「い、今の……」

「わ、わたし……ち、ちはるって……!」


 恥ずかしさのあまり、思わず両手で顔を覆う。


 けれど智春の反応は、和音が思っていたものとは違った。

 彼は驚きからゆっくり笑みに変わり、柔らかく言った。


「……今、自然に呼んでくれたな」


 その声音は、胸に沁みるほど嬉しそうで。

 和音の羞恥心はさらに強くなったが、それ以上に、心の奥が温かく満たされていくのを感じた。


「ご、ごめんなさい……!」

「なんで謝るんだよ」


 智春は苦笑しながら、絆創膏を巻いた指で和音の髪を軽く撫でた。


「すごく、嬉しかった。ありがとう」


 耳まで真っ赤になりながら、和音はかすかにうなずいた。


 その夜。

 二人で作ったカレーを食べながら、智春が不意に言った。


「なあ……和音」


 彼の口から自然に名前が出る。

 それを聞いた瞬間、胸が熱くなる。


「……はい、ちはる」


 今度は意識して、はっきりと呼んだ。

 顔は真っ赤だったけれど、もう逃げなかった。


 智春は一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。


「……やっと名前で呼び合えたな」

「……はい」


 そのやりとりは、サバ缶で乾杯した夜と同じくらい、二人にとって特別な瞬間になった。


 食後、並んで洗い物をしながら、和音はふと笑ってしまった。


「不思議ですね。たった一言なのに、こんなにドキドキするなんて」

「俺も。名前で呼ばれるだけで、恋人って実感がすごく湧く」

「……これからは、いっぱい呼びますね」

「うん。俺も呼ぶよ。和音」


 二人の声が重なる。

 それはまるで、改めて恋人同士になったかのような、甘くて照れくさい夜だった。

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