第34話 第二章 二人のサバ缶共有
付き合い始めてからというもの、和音はずっと気にしていることがあった。
それは——智春の呼び方だ。
「池上さん」
仕事中はもちろん、二人きりでもつい口をついて出てしまう。
癖になっているのだ。社会人としての関係が長すぎたせいで、恋人になったからといって、急に「ちはる」なんて呼ぶ勇気は、まだどこにも見当たらなかった。
先日だって。
「なあ、野上……じゃなくて、和音」
智春が珍しく勇気を振り絞って呼び捨てにした。
それは夜道を歩いていたときのことで、街灯に照らされた彼の横顔は、妙に真剣で。和音の胸はぎゅっと縮まった。
けれど、返事をするとき、口から出てしまったのはやっぱり——。
「な、なに、池上さん」
あっ。言ってしまった。
自分でも気づいた瞬間に、耳まで真っ赤になる。
隣で智春は少し苦笑いし、けれどどこか残念そうに前を向いた。
その顔が、忘れられない。
それ以来、和音の心はずっと落ち着かない。
(どうして私は……。彼は思い切って「和音」って呼んでくれたのに。私だけ、まだ「池上さん」って……)
恋人なのに、まだ壁を作っているような気がしてしまう。
それが自分でも嫌だった。
一方の智春も、和音と同じように悩んでいた。
(会社ではもちろん「野上さん」だけど……二人のときまでそれは寂しい。やっぱり、恋人なんだから、俺は「和音」って呼びたい)
ただ、智春には奥手な男ならではのジレンマがあった。
(けど……呼んで、嫌がられたらどうする? まだ早いって思われたり……引かれたりしたら……)
頭の中で勝手にマイナスな妄想を繰り広げ、自爆してしまう。
そして結局、「野上さん」と呼んでしまうのだった。
そんな二人の葛藤が爆発したのは、ある休日の午後だった。
智春のマンションで並んでテレビを見ていたときのこと。
画面には恋愛ドラマ。ちょうどヒロインが勇気を出して彼氏を名前で呼ぶ場面だった。
『ねえ……健一』
『……もう一回呼んでみて?』
『健一……』
画面越しのカップルがしっとりと見つめ合う。
部屋に沈黙が落ちた。
「……」
「……」
二人同時にテレビを消そうとリモコンに手を伸ばし、バッとぶつかる。
「あっ……」
「い、いや……俺が」
気まずさに、顔をそらす。
心臓がやたらとうるさい。
その夜。
和音は布団に潜りながら、スマホのメモ帳に指を走らせていた。
『ちはる』
『ちはる』
『ちはる』
ひたすらに文字を打ち込む。
声に出して言えないから、せめて指先だけでも慣らしておこうと。
(名前で呼ぶなんて、簡単なことじゃない。子どもみたいにドキドキして……私、どうしちゃったんだろう)
画面を見つめてはため息をつき、消してはまた書く。
まるで恋に悩む女子高生のようで、我ながら笑えてきた。
そして次の週末。
二人はまたファミレスにいた。例の「サバ缶乾杯事件?」から、なぜか自然とここが定番のデートスポットになってしまっていた。
「なあ、野上さん」
「なに、池上さん」
いつもの調子で呼び合ってしまう。
その瞬間、二人の間に沈黙が落ちた。
「……」
「……」
どちらも心の中で叫んでいる。
(いやいや、そこは『和音』って呼べよ俺!)
(いやいや、今こそ『ちはる』って言うところでしょ私!)
口に出せないもどかしさが、空気をじわじわ重くする。
ついに痺れを切らしたのは智春だった。
「なあ、俺たちさ」
「……はい?」
「名前で呼び合わないか?」
あまりに直球な言葉に、和音の心臓が跳ねた。
「……え?」
「いや、もちろん無理にとは言わないけど。俺は……その、和音って呼びたい。野上さんじゃなくて。恋人なんだし」
普段の奥手な彼が、珍しく真正面から訴えてきた。
和音は驚きと照れで顔を赤らめ、テーブルの下で指をぎゅっと絡ませる。
(……やっぱり、同じこと考えてたんだ)
でもすぐには口にできない。
恥ずかしさが勝ってしまう。
「わ、わたしも……そう思ってたけど……やっぱり、急には……」
しどろもどろになる和音。智春も耳まで赤くしながら、気まずそうに笑う。
「……じゃあ、ちょっとずつ慣れていこうか」
「……うん」
それはとても不器用なやりとりだったけれど、確かに一歩を踏み出した瞬間だった。
帰り道。
別れ際の駅前で、和音は勇気を振り絞った。
「……あの」
「ん?」
「……おやすみ、ち、ちは……」
最後の一音がどうしても出ない。
口をパクパクさせて、結局言えずにうつむいてしまう。
それを見て、智春は吹き出した。
「無理すんなよ。和音」
その一言に、和音の胸はきゅっと熱くなる。
照れくささと嬉しさとで、笑みがこぼれた。
(……いつか、ちゃんと呼ぶから。そのときまで待っててね、ちはる)
彼女は心の中でそっとそうつぶやいた。




