第33話 第二章 二人のサバ缶共有
金曜の夜。
池上智春は、久しぶりにスマホを片手に真剣な顔をしていた。画面には「夜景の見えるレストラン」「デート おすすめ 東京」「大人っぽい 静かな店」といった検索ワードが並んでいる。
「……よし、今度こそは雰囲気を作る。大人の男としてな」
居酒屋やファミレスで過ごしたあの日々を思い返し、智春は内心で唇を噛んだ。和音はいつも楽しそうにしていた。していたけれど——やはり二人はもう「恋人」なのだ。中学生カップルのように笑ってばかりでは、いつまでも本当の関係に踏み込めないのではないか。
「俺ももう三十一だぞ。……たまにはこう、グッと決めないと」
画面をスクロールしては、条件に合う店を探す。が。
「予約いっぱい……予約いっぱい……また予約いっぱい……!」
ことごとくアウト。ため息が部屋に響く。日曜の夜にようやく空いていたが、それでは意味がない。金曜の仕事終わり、さりげなく「行こうか」と誘って、しっとりとした雰囲気の中で「改めて俺と付き合ってください」と言いたかったのだ。
結局、彼が押さえられたのは——駅前のファミレス。
「……いや、ファミレスだって、工夫次第ではロマンチックに見える。ほら、デザートをシェアとか、キャンドルの代わりにポテトの紙袋とか……」
空しく響く独り言。自分で自分にツッコミを入れる。
当日。
駅前で待ち合わせの和音を見た瞬間、智春は「あ、やば」と思った。
和音は白のワンピースに、薄い水色のカーディガン。清楚で柔らかい雰囲気が、夜風に映えてやたらと大人っぽい。
「お待たせしました、池上さん!」
「……」
「い、池上さん?」
気づけば智春は硬直していた。いや、彼女がきれいすぎて、そして自分がスーツ姿だから。
そう、智春は「大人の雰囲気」を演出しようと、仕事終わりそのままのスーツで来てしまったのだ。
「ちょ、ちょっとまって。仕事帰りですか? それとも……」
「い、いや、これは、その……」
何を言っても言い訳になるのはわかっていた。
和音は小さく笑い、首をかしげる。
「わざわざ着替えてきてくれたんですか?」
「い、いや、そんな、そんなんじゃないぞ。ただ……たまにはこう、カチッとした格好で……」
「ふふ、なんだか新鮮ですね」
照れくさそうに笑う和音に救われつつも、智春の内心は燃え上がる。
(よし……いいぞ。この調子で今日は大人の雰囲気だ……!)
二人が入ったのは件のファミレス。
すでに家族連れでにぎわい、子どもの声が響き渡っている。キャンドルどころか、照明は白々と明るく、BGMはポップス。
「……」
「どうしました? 池上さん」
「い、いや……なんでもない。ここ、意外と静かだろ?」
「……えっと、まあ……うん、にぎやかでいいですよね」
必死の取り繕いも、和音の微妙な笑顔で空回り。
それでも智春は決意を固めた。「今日は大人っぽく振る舞う」。
メニューを開き、ワインを頼もうとしたが——。
「すみません、今日はアルコール提供してないんです」
まさかの一言。
「なっ……!」
智春は絶句した。
和音は肩をすくめ、ドリンクバーを指さす。
「じゃあ……オレンジジュースで乾杯しますか?」
「……お、おう」
(おいおい、なんで俺はドリンクバーで乾杯してんだ……!)
内心で机に頭を打ちつける智春。しかし、和音は楽しそうにグラスを合わせてくる。
「かんぱーい」
「……か、乾杯」
料理が運ばれてきても、智春の頭の中は「告白」でいっぱいだった。
(よし……タイミングを見計らって、さりげなく、落ち着いて、堂々とだ……!)
ステーキを切りながらチャンスを狙う。
しかし、気合いを入れすぎた結果、ナイフが滑って皿から肉が飛び出し、ソースが自分のシャツにべっとり。
「うわっ……!」
「あっ、池上さん……!」
慌ててハンカチを差し出す和音。智春は顔を真っ赤にして受け取る。
「す、すまん……」
「ふふっ……大人っぽい雰囲気、ですね」
クスクス笑う和音に、智春は心臓を鷲づかみにされたような気分だった。
食後のデザート。
智春はようやく決心した。
「なあ、和音」
呼びかけに、彼女は小首をかしげる。
「……俺はな、今までこう、恋愛とか、ちゃんとしたことがなくてだな。だからこうして……」
と、その瞬間。
——ガシャーン!
隣の席の子どもがアイスをひっくり返し、グラスが派手に割れる音が響いた。店内がざわめき、ウェイトレスが駆け寄る。
「……」
「……」
タイミング、完全に終了。
「……す、すまん、なんでもない」
「ふふふっ……」
堪えきれず笑う和音。智春は両手で顔を覆い、頭を抱えた。
帰り道。
夜風の中、智春は肩を落としながら歩いていた。
(俺ってほんと、なんでこうなんだ……。大人の男とか、雰囲気とか、全部空回りじゃねえか……)
そんな彼を横目で見つめながら、和音は思っていた。
(ほんと、不器用。でも……そういうところが好きなんだよなぁ)
心の中でつぶやき、小さく笑う。
「池上さん」
「ん?」
「今日、すごく楽しかったです」
「……ほんとに?」
「はい」
無邪気な笑顔に、智春はまた胸が締め付けられた。
雰囲気作りには失敗ばかり。でも確かに一緒にいて、楽しい。
(……いや、楽しいって、これ、もう十分「恋人」じゃないか?)
そんな気づきが、ほんのりと智春の胸に芽生えていた。




