第32話 第二章 二人のサバ缶共有
恋人同士になったはずの智春と和音は、どうにもこうにも、相変わらず中学生のような関係を続けていた。手をつなぐにも勇気がいる。肩が偶然触れ合っただけで、二人とも妙に黙り込んでしまう。食事をすれば、目の前にあるのは大人のサイズのグラスビールなのに、空気はまるで学園祭の帰り道だ。
智春はそんな状況を自覚していた。いや、自覚しているからこそ、焦っていた。
――俺はもう三十一だぞ? 社会人歴もそれなりに積んできたし、後輩だっている。そんな俺が、なんだこの恋愛初心者感は……!
彼はひとりで唸りながら、スマホで「大人の恋愛 スマートなリード」などと検索しては、出てくる記事に頭を抱えていた。「夜景のきれいなレストランに誘いましょう」とか「女性はエスコートに弱い」とか、そんなアドバイスが並んでいる。しかし、現実の智春は、和音を前にすると頭の中が真っ白になる。
夜景のきれいなレストランに行こうと予約を試みても、満席。じゃあ気取ったワインバーでも、と検索するも、どこも「お一人様専用」やら「カップルシート要予約」で弾かれる。結局、二人で行くのは駅前の居酒屋や定食屋ばかりだった。
智春としては、それが悔しい。大人の男として彼女をリードしたい。だが、ことごとく空回りする。本人は「俺が頼りないからだ」と自己嫌悪に陥っていたが、当の和音は違った。
――別に居酒屋でもいいんだけどな。智春さんと一緒なら、それで十分幸せなんだけど。
和音は心の中でそう思いながら、智春の「どうにか雰囲気を出そう」という必死さを見て、逆に微笑ましくなっていた。もっと肩の力を抜けばいいのに、どうしてこの人はこんなに不器用なんだろう。……いや、だからこそ好きになったのだ、と。
だが智春はそんな和音の心を知らない。彼は、「和音が退屈してるんじゃないか」「俺は彼女を楽しませられていないんじゃないか」と勝手に悩んで、勝手に落ち込む。
ある日のこと。二人は映画館にいた。和音が見たがっていた恋愛映画で、智春は「ここは大人らしく、映画が終わった後に『君の瞳に映る夜景のほうが素敵だよ』みたいなセリフを言うべきか……?」などと頭の中で練習していた。しかし、いざ映画が終わると、彼の口から出たのは――
「えっと……ポップコーン、けっこう塩辛かったな」
和音は吹き出しそうになった。いや、もう半分笑っていた。それを見て智春は「しまった! 完全に外した!」と心の中で絶叫したが、和音はむしろそんな彼が愛おしかった。
また別の日。二人で買い物をしているとき、智春は「これこそ大人の男!」と意気込んで、レジ袋を全部自分で持とうとした。しかし袋が破け、床に転がったのは――缶詰。しかも、智春が好きなサバ缶だった。
「ちょっ……! よりによってサバ缶……!」
「ふふっ……智春さんって、本当にサバ缶と縁がありますね」
和音が楽しそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、智春の胸はどきりと跳ねた。彼女の笑い声は、夜景のイルミネーションよりも輝いて見えた。
――こんな笑顔をさせたいんだ。大人の恋愛とか、そういうことじゃなくて……。
だが彼はすぐに思考を打ち消した。いや、やっぱり大人の恋愛だ! 三十一の男として、後輩である彼女を守り、リードしなくては。そう自分を叱咤する。
一方の和音は、そんな智春を見ながら思う。
――智春さん、頑張らなくていいのに。私はもう、十分に大人の恋愛をしているつもりだよ。だって、好きな人と笑っていられるんだから。
しかし、その気持ちはまだ言葉にはしない。彼女もまた、彼が少しずつ気づいていくのを待ちたいと思っていた。急がなくていい。焦らなくていい。けれど、智春がときどき見せる、空回りの必死さが可笑しくて、愛しくて、胸がぎゅっとなる。
夜、マンションの窓から見える街の灯りを眺めながら、和音はぽつりと呟いた。
「……中学生みたいな恋愛だな、私たち」
でも、その顔には笑みがあった。智春と過ごす日々は、不器用で、ぎこちなくて、でも確かに大人になった自分を感じさせる。相手の全部を知りたいと思う気持ち。それはもう、ただの憧れや初恋ではない。大人としての恋愛を、彼女はもう始めているのだった。
一方の智春は、そのころベッドの上で頭を抱えていた。
――次こそは! 次こそは大人っぽくリードする! そうだ、夜景レストランが無理なら……サバ缶を高級皿に盛り付けてキャンドル灯すとか……いや、それはないか!?
彼の奮闘は、まだまだ続くのだった。




